吉村 昭 一家の主 [#表紙(表紙.jpg、横92×縦132)] 目 次  引越しのこと  勤務のこと  ひそかな仕事のこと  生活のこと  一族団欒のこと  父親意識のこと  同人雑誌のこと  支出増大のこと  スポーツのこと  金網のこと  再び勤務のこと  友人たちのこと  夫と妻のこと  初春のこと  巣作りのこと  同人たちのこと  家庭のこと  酒色のこと  出産のこと  食物のこと  小説を書くこと  寄食のこと  月光のこと   あとがき [#改ページ]    引越しのこと  圭一は、唾液腺が人よりも太いのではないかと思い悩んでいる。  デパートの地下食品売場を歩いている時などはもちろんだが、週刊誌の味の店紹介の記事を読んでいる時ですら必ず唾液が口中ににじみ出てくる。友人と食物の話をするのは楽しいが、後から果しなく湧き出てくる唾液の処理には苦しむ。  ひそかに呑みこもうとするが、咽喉の構造が単純にできているのか、自分でも驚くような大きな音がする。かれは、友人の表情をうかがう。友人は素知らぬふりをしているが、その音がきこえぬはずはない。  その点、妻の春子は容赦ない。かすかな唾液をのみこむ音も確実に耳にとらえて、 「まるで犬みたい」  と、蔑《さげす》んだ眼を向けてくる。彼女の言によると、圭一が咽喉の音をさせるのは空腹時にかぎらず、一日に数回は耳にすると言う。  そば屋などに入って注文した食物が運ばれてくるまでの間は、殊に辛い。周囲には食物の匂いがみち、眼の前に坐っている男や女がそばをすすっている。むろん口の中には唾液が多量ににじみ出ていて、咽喉の奥にのみこみたいのだが、もしものみこめば、周囲の客を驚かすほどの音がすることはまちがいない。  かれの唯一の救いは、テーブルの上に置かれたコップの水で、かれは唾液を水とともに流しこむ。そば屋で注文品を持ってくる前に必ず水をみたしたコップを出すのは、客に唾液を人知れず処理させる親心にちがいないとさえ、かれは思う。  その夜も、かれの口中にはかなりの唾液がにじみ出ていた。  部屋の中には、豚肉、じゃが芋、玉葱のまじり合って煮える匂いがただよい、かれは、食卓の上に置かれたコップの水を何度も飲んだ。  柱に背をもたせかけている望月は、パイプをくわえて天井を見上げている。未熟児で生れたというかれは、その遅れをとりもどせず成人したため肉づきも薄く、骨格も弱々しい。平安朝時代の公卿《くげ》のような悠長な顔をしたかれは、食欲も乏しいらしく無感動に物を食べる。 「味噌を入れるんですね」  妻の春子が、ガス台の置かれた狭い流し場から声をかけてきた。 「そうだ」  と、圭一は答え、残り少くなったコップの水を口にふくんだ。  スイトンに肉や味噌を入れるのは一つの妥協で、厳密には醤油か塩で味つけし、具も入れるべきではない。が、味噌で味つけをし肉やじゃが芋を入れれば、薩摩《さつま》汁のような味も味わえる。 「そうですか、今日は関東大震災のあった日ですか」  望月は、抑揚のない声で言った。  望月は、圭一の大学時代の後輩で、同じ大学に通っていた春子と同期生になる。しかし、圭一が二年生のまま留年し、結局は中退したので、その間に望月と妻は上級生になり卒業していった。つまり後輩であり先輩であるという関係で、望月は定時制高校の教師、圭一は寝具会社の社員、春子は主婦にそれぞれなっているが、共通していることは三人とも学生時代から一貫して同人雑誌に小説を書いていることであった。  妻が、スイトンを丼《どんぶり》に入れて運んでくるとうんざりしたように丼をかかえ、大儀そうに箸を動かしはじめた望月に顔を向けた。 「望月さん、関東大震災の記念日だからスイトンを食べるなんて馬鹿馬鹿しいと思わない。この人、昭和生れで震災なんて経験していないのよ。ただこの人の両親が震災記念日にスイトンを食べる習慣があったので、それを私たちの生活でも年中行事として受けつぐと言うのよ」  妻が、訴えるように言った。  圭一の父母は、大正十二年九月一日の大震災を東京で経験したが、その後も絶えず大地震の再来におびえていた。微《かす》かな地震があっても、父母は顔色を変えて裸足《はだし》で庭に飛び出す。深夜に地震があると、父は叫び声をあげて子供たちをたたき起し、開けた雨戸から庭に走り出る。廊下から飛び下りた父が、雨にぬれた土にすべって足を捻挫《ねんざ》したことすらある。  毎年九月一日になると、父は夕食をスイトンにするよう命じた。震災直後食糧が欠乏し、救援物資として送りこまれた小麦粉(父はメリケン粉と言っていた)でスイトンを作り常食とした。つまりスイトンを食べることは、正月に雑煮を食べるのと同じように圭一の家では震災記念日のしきたりになっていたのだ。  しかし、九月一日と言えばまだ盛夏で、大きな鍋に煮られたスイトンを食べるのは、暑かった。食卓の傍に二台の扇風器が据えられて頭をふりながら風を送っていたが、家族は流れる汗をふきながら黙々とスイトンを食べた。  北国の地方都市で生れた春子が、そのような行事を知らぬのは無理もないが、代々地主として東京に土着してきた望月の家では当然震災記念日にスイトンを食べているはずだった。  圭一は、望月が同席していることを好都合だと思った。この機会に、地方生れの春子に東京独自の習慣を教え、今後スイトンを食べることをわが家のゆるぎない行事にしたいと考えた。  圭一は、望月に顔を向けると、 「君の家でも、このようなことはしているだろう」  と、たずねた。 「別にしませんですね」  望月が、素気ない口調で答えた。 「しないかね」  圭一は、うろたえて望月の顔を見つめた。意外でもあり、裏切られたような思いでもあった。 「どこの家で、こんな馬鹿なことをするもんですか。あなたは東京の行事だと言うけど、あなたの家は、出が静岡でしょ。この人は東京生れかも知れないけど、東京ではなどと口はばったいことは言えないはずなのよ」  春子が、小気味良さそうに言った。  夫婦喧嘩が昂じると、とかく家系——血に対する批判にまで発展する。たしかに圭一の先祖は静岡の土着人で、明治初年に祖父が上京して浜町に居を定めたがやがて帰郷し、父の代になって初めて東京に住みついた。圭一は東京で生れ育ったが、祖父も父も出稼ぎ人にひとしいもので、望月の家のように東京土着の家ではない。  圭一は、言葉に窮した。望月の思いがけぬ答えで、来年からスイトンを食べる習慣をつづけることはかなり困難になったと思った。  しかし、とにかく暑い。窓は開けてあるし扇風器もまわっているが、顔に湧いた汗が頬から首筋に流れている。春子と望月の顔にも、大粒の汗がふき出ていた。  妻が、タオルで顔の汗をぬぐうと、溜息をつき、箸を置いた。 「夏は、冷やした素麺《そうめん》を食べる季節でしょ。それなのにこんな熱いものを食べなくてはならないなんて情けなくなるわ。望月さん、今日だけじゃないのよ。八月十五日にもスイトンを作らされるのよ、どう思う」  妻の顔は、湯上りのように火照り、髪が汗で額にへばりついている。 「八月十五日? 終戦の日ですね」  望月も、箸を置いた。 「そうなの。終戦前後はスイトンが御馳走だったから、食べると言うの。この人の発想って単純なのよ。その時代はその時代、現在は現在じゃないの」  と言って、妻は再びタオルで額の汗をぬぐった。  望月は、弱々しげな微笑をうかべると、 「記念日の好きな人なんですね」  と、珍奇なものでも見るように圭一に眼を向けた。 「よく言えばそういうことになるかも知れないけど、考えてもみなさいよ。終戦記念日のスイトンはまだがまんできるわ、この人も経験したことだし、私にも感慨はあるわ。でも、関東大震災のスイトンはおかしいと言うのよ。経験したのはこの人の両親で、この人はなにも知らないことなのに。この人は、わが家の行事にすると言うけど、今後子供が生れた場合、なぜ子供たちも大震災のスイトンを食べなければならないの。毎年この夏の暑い盛りに、二度もスイトンを食べさせられるなんて、うんざりするわ」  春子は、眉をいからせた。 「それにスイトンを食べるなんてわびしいわ。スイトンて、妙な名称ね。辞書をひいてみたら、水におダンゴの団を組合わせて水団と書いてあるの。悲しい漢字だと思わない?」  春子は、かすかに苦笑をうかべた。  なにかにつけてすぐ辞書をひく女だ、と圭一は思った。しかし、水団とはたしかにわびしく、物悲しい。 「水ダンゴですか。水団では冷めたスイトンのようでまずそうですね」  望月は、食卓の上に指で水団と書いた。  その望月の仕種に、圭一は一層萎縮した気分になり、丼を置いた。 「この人のことを記念日が好きな人と言ったけど、そうでもないのよ。去年の十一月十日が初めての結婚記念日なのに、その日は忘れているし関心は全くなしなの。外で食事でもしましょうと言ったら、そんな照れ臭いことができるかって言うのよ。それに私の誕生日なんか知らないし、おぼえようともしないのよ。その癖自分の誕生日は忘れないの。生れた日が五月一日で、メーデーでしょ。町に出るとデモ隊がプラカードを持って歩いているからそれで気がつくわけね。それでも、なにもお祝いはしないのよ。よくきいてみたら、この人の家では誕生日のお祝いをしたことがないんですって」  春子は、眼をみはってみせた。  年齢を満年齢で数えるようになったのは戦後で、それ以前は正月を迎えることが年齢を重ねることで、誕生日の意味はうすかった。誕生日祝いをするのは外国の風習で、それが日本でもおこなわれるようになったにすぎない。  日本のほとんどの家庭がそうであったように、圭一の家でも誕生日祝いなどをしたことはなかった。それを踏襲していることは、時代おくれかもしれないが、かまわぬではないかと思う。 「君の家でも誕生日のお祝いなんかしないだろう」  圭一は、捨て鉢な気持で望月にきいてみた。  茶を飲んでいた望月が、 「別にしませんが、母の母と、そのまた母の誕生日にはしています。おじやを食べるんです」  と、無表情な顔で言った。  かれの家には六十九歳の祖母と、そのまた母の八十八歳の老婆が健在であった。その老いた母娘《おやこ》は仲が良く、庭に面した縁側に坐って一日中天候の話ばかりしている。 「おじや?」  妻が、甲高い声をあげて望月の顔を見つめた。 「婆さんたちは歯が悪いのでおじやをよく食べるんですが、その日は一家中おつき合いをしておじやを食べることにしています」  望月は、答えた。  圭一は、愉快になった。二人の老婆を中心におじやを食べている望月の家族たちの光景が思い描かれ、可笑《おか》しくなった。震災記念日にスイトンを食べることと誕生日におじやを食べることとは大差ない。それにしても、家庭によって様々なことがおこなわれているものだと感心した。  口をつぐんでいた春子が、 「お婆さんたちの誕生日は、いつなの」  と、望月の顔をうかがうようにきいた。 「二人とも十二月で、二日ちがいです」 「ああ、それならおじやを食べてもいいわよ。冬だから汗もかかないし、体が温まって結構じゃないの」  妻はうなずいた。  圭一は、妻の顔に眼を向けた。望月の祖母と曾祖母の誕生日が二日しかちがわぬということは、一日置いて再び家族そろっておじやを食べることになる。そのことを口にして妻に一矢むくいてやろうとも思ったが、スイトンの話をむし返されるのも迷惑なので、ただ薄ら笑いしながら妻の顔をながめていた。  春子は、黙ったまま食卓の上を片づけると、流し場で水の音をさせはじめた。これでスイトンをめぐる諍《いさか》いは来年の夏まで持越されたが、それも望月の口から突然おじやという言葉がとび出したからで、望月に感謝したい思いだった。  圭一は、頑固にスイトンを食べる行事を押し通さねばならぬと思った。結婚以来、圭一は肩をいからせて夫としての権限を保つことにつとめてきたが、結婚後二年足らずで早くも妻に権限が移動しつつあるのを察していた。その津波のように押し寄せてくる圧力に抵抗するためには、些細なことでも守り抜く必要がある。  かれは煙草をくわえたが、扇風器がまわってくる度に煙が風に散って煙草をくつろいですう気分にはなれなかった。  翌日は引越し日で、泊りがけで手伝いにきてくれた望月は、圭一たちの部屋に泊った。  引越しは三回目で、圭一たちが結婚後初めに住んだのは、池袋の新築したばかりのアパートであった。六畳、三畳の和室と炊事場のついた部屋で、終戦後八年しかたたぬ東京では、恵まれた住居といってよかった。  しかし、一年もたたぬ間にそのアパートを引払わねばならなくなり、現在住む練馬の洋裁学校を営む人の八畳の広さをもつ応接間に移った。そして、明日は郊外の小さな町にある六畳間のアパートに引越す。そうした相つぐ転居はむろん経済的理由によるもので、畳数でいえば、九、八、六と次第に狭くなり、地域的にも都落ちの観があった。 「おれは無一文同然だ」  と、圭一は婚約中に春子に告げた。そして、春子も納得したようにみえたが、結婚後春子の告白によると、それが事実通りであることに唖然としたという。 「おれは正直に言ったまでで、それを今になってとやかく言われる筋合はない」  と、圭一は言ったが、春子は、 「無一文と言ったって、あなたの三人の兄さんは事業家でしょ。その弟なのに、これほどなにもないとは思わなかったわ」  と、気落ちしたように言った。  たしかに圭一の長兄と三兄は、それぞれ紡績会社を、次兄は寝具会社の経営者である。それは、亡父の事業を分担し、ひきついだものだが、父の死亡時は旧憲法が廃止される寸前で圭一と弟に遺産相続権はなく、経済的に裸同然で投げ出されたのだ。 「それにあなたは、どこまでが冗談なのか、その境目が曖昧《あいまい》なのよ。無一文という言葉も照れかくしに言ったのだと思ったわ。まさかそれが本当だとは気づかなかったわよ」  妻は、眉をしかめた。  冗談と事実との区別が曖昧だという妻の言葉は、圭一にとって不服だった。人間であるかぎり稀には軽口もたたくが、口にすることすべてが冗談と思われてはたまらない。  学生時代に初めて結婚申込みをした時も、圭一は妻に、 「またそんな冗談を言って」  と、軽くあしらわれたものだ。それは彼女が大学を卒業し、圭一が中途退学をする一カ月ほど前のことで、友人の家に学校の親しい仲間が集った或る夜であった。  ビールを飲んでいた圭一は、突然春子に向って、 「結婚したいと思っておりますからして、なにとぞ善処方お願い申し上げる次第であります」  と、言った。  結婚という言葉に、春子は圭一を一瞬見つめたが、すぐに馬鹿馬鹿しいというように笑い出した。彼女の友人である女子学生たちも、春子に同調して笑った。  色の黒い河上という圭一の友人が、 「これは真実の訴えですよ。私にはわかります。真剣にきいてやって下さいな」  と、春子に真剣な眼で言ったが、演劇部の責任者である河上の仕種が芝居じみていて大袈裟《げさ》だと言って、春子たちは一層激しく笑った。  常識的に考えて、多くの友人の前で結婚申込みをしたことは異常であり、しかも政治家の口調をまねた言葉を使ったことも穏当ではなかったかも知れない。その後、圭一は、真実を口にしたのだと春子を説得するのにつとめ、ようやく春子の同意を得ることができたのだ。  圭一は、あらゆる点で夫になる資格に欠けていた。  春子は、学生時代に軽口をたたく圭一に反撥して、 「骨なしのくせに……」  と言って、男子学生から肉体的欠陥を口にしたことをたしなめられた。  しかし、圭一は、春子への手紙に、  骨なしは   骨なしなりの 骨があり  などと川柳ともつかぬことを書き送ったりしていたので、春子が口にしたその言葉もむしろ親しみの表現と受けとっていた。  圭一は、十九歳の冬に肺結核になり半年後に手術を受けて、肋骨を五本切除されていた。骨なしとはそのことを指しているのだが、過去にそのような病歴をもち、しかも中途退学した圭一が、春子に結婚申込みしたことは無謀というほかはない。そのことを三番目の兄に告げ、正式に親代りとして申込みをして欲しいと頼むと、 「お前のような生活力もなく体に欠陥のある男の所へ嫁に来てくれる娘さんがいるものか。本当に先方はいいと言ったのか、恥をかくのはいやだぜ」  と、いぶかしみながらも車を運転して春子の家へ行ってくれた。春子は幼い頃両親を失っていたが、姉の夫が一流会社の社員で入籍し、父親代りになっていた。  兄は圭一の希望通り結婚申込みをしてくれたが、春子の姉夫婦の前で汗を流しつづけ、何度も頭をさげていた。そして、定職のない圭一を、自分の経営する紡績会社に入社させ、結婚後の生活の安定をはかってくれた。  しかし、圭一は、結婚式の一週間前に辞表を兄に提出した。兄の庇護を受けて生活を支えることに嫌悪をいだいたのだ。 「ひねくれ者だな、お前っていう奴は……。会社をやめていったいこれからどうやって生活してゆくつもりだ」  兄は激怒し、辞表をまるめると屑籠《くずかご》の中にたたき入れてしまった。  結婚後、生活は早くも破綻《はたん》し、それを打開するために圭一は繊維品を東北地方の鉱山に売ったり、北海道の町々で貸店舗を借りて販売する生活をつづけた。それは妻を伴った放浪に近い旅であったが、列車も三等車を避けて二等車に乗ったり、目的地についても大きな旅館に泊ったりした。生活の苦労も知らずに育ったかれは、自分の落ちこんだ立場も理解できず、悠長な旅をつづけたのだ。  一年に及ぶ旅を終えて帰京したのは、昨年の大晦日《みそか》の夜であった。懐中には二万円の現金が残されただけで、繊維品を売って得た利益は、すべて旅行費で消えてしまっていた。 「面白い旅だったな」  圭一は、上野駅の地下食堂で年越しそばを食べながら言ったが、春子は、 「疲れたわ」  と、かすかに頬をゆるめただけであった。  翌々日、寝具会社を経営している次兄の家へ年始に行くと、 「よく生きていたな、捜索願でも出そうと思っていた」  と、圭一の顔を腹立たしげに見つめた。そして、 「お前は好きなことをしているのだからいいが、春子の実家に申訳ないと思わないのか」  と、激しい口調でたしなめた。  この言葉に圭一は動揺した。春子の実家の姉夫婦は、苦情らしいことを少しももらさない。結婚後あてもない旅に出た妹のことを案じ、圭一との将来の生活にも危惧を感じているにちがいなかった。 「地味な勤めをしろ。勤め先はおれが探してやる」  と、次兄は言った。  圭一は、姉夫婦のことも思い、勤め人になろうと思った。そして、兄のすすめるままに兄の親しい寝具会社に入社することになった。  しかし、給与は少なく、八畳の応接間を借りる金も負担になった。そのため賃貸料のさらに安い郊外の小さなアパートへ転居せざるを得なくなったのだ。  翌朝、食事を終えると引越し道具の整理をはじめた。 「この人が結婚する時持ってきたのは、このお弁当箱と小さなお釜《かま》だけなのよ」  春子は、望月に弁当箱を手にとってみせた。  前回の引越しの時も、春子は同じことを手伝いにきてくれた望月に言った。たしかにそれは事実で、家具はすべて春子の嫁入り道具なのだ。  しかし、千冊近い書籍は圭一が持ち込んだもので、その存在を無視されては困るが、それらはすべて古本屋で買った薄汚れたものばかりであった。そして、前回の引越しの時に一部を売り払い、今度の引越しでは二百冊ほど処分することにきめていた。 「それでは、そろそろ出掛けますか」  望月が、積み上げられた書籍をリュックサックにつめはじめ、圭一も春子の出したリュックサックを引寄せた。書物を売るのは辛いが、狭い部屋に引越すことを考えれば思い切りよく処分しなければならなかった。  やがて圭一は、望月とリュックサックをかつぎ、ボストンバッグにも書籍を入れて外に出た。 「一軒の店でまとめて売ると買いたたかれるから、少しずつ売って歩くんだ」  と、圭一は言って、近くの古本屋で二十冊ほどの本を売り、電車に乗ると途中で下車してはその町の古本屋で少しずつ売り払い、最後には池袋に出た。そして、望月と駅前で分れると古本屋をまわって歩いた。  書籍をすべて売りつくし池袋駅近くの交番の前で待っていると、空のリュックサックを手にした望月がやってきた。二人の金を合わせてみると、金額は四千円を越えていた。 「思ったより高く売れましたね」  望月が、紙幣を数えている圭一の手もとをみつめながら言った。  ふと圭一は、交番から若い警官がこちらにじっと視線を注いでいるのに気づいた。空のリュックサックとボストンバッグを手に金を数えている自分たちは、空巣にでも入ってかすめ取ったものを処分し金勘定していると思われるかも知れない。  圭一は、金をズボンのポケットに入れると、警官に呼びとめられるような予感をおぼえながら駅の方へ歩き出したが、背後から声はかからなかった。  町にもどった頃には家々に電灯がともっていて、門の外には、圭一の勤務している会社のトラックが駐車していた。圭一の勤務する会社の社長が、好意的にトラックをまわしてくれたのだ。  会社の運送部の運転手が荷物を部屋からはこび出すのを手伝ってくれて、一時間もたたぬ間に荷台が満載になった。  助手台には二人乗れるので、春子と望月に乗ってもらい、圭一は荷台で揺られてゆこうと思った。しかし、望月は、いつの間にか荷台に上ってしまっていた。 「なんです、あなたったら。望月さんを荷台に乗せたりして悪いじゃないですか。ぼんやりしていないで、あなたが乗りなさいよ」  春子が、圭一をたしなめた。 「おい、降りろよ。おれが乗るから……」  圭一が荷台のふちに足をかけたが、望月は、 「いいですよ。夜風に吹かれるのも気持がいいですから……」  と、手で制した。  望月は、荷物のくぼみに身を入れていた。なにかの端にでも腰をおろしているのか、荷物の中からかれの顔だけが突き出ている。その白い顔が、闇の中に浮び上った大きな電球のようにみえた。  トラックが、走り出した。  露地を出ると、舗装路の両側に煌々《こうこう》と電灯をともした商店が光にみちた水族館の水槽のように並んでいる。わずか八カ月ほどの期間だったが、圭一は会社への行き返りに通った商店街だし、時には春子と夜散策に出て買い物をした店も多い。  部屋との別離はむしろさばさばとした気分だったが、商店街を再び歩くことはないのかと思うと少し淋しい気がした。  窓の外に眼を向けていると、客扱いの無愛想なことで評判の果物屋の主人が、電灯の下でぼんやり果実をながめているのが見えた。  広い街道に出ると、トラックは速度をあげた。結婚以来二年足らずのうちに、三回目の転居をしようとしている。思い立てば、どこにでも住みつくことのできる自由が、なんとなく可笑しく思えた。  道の両側に、灯がまばらになった。淡い月が前方に出ていたが、それがいつの間にか左の方に移動している。荷台の方からは、シートの風にあおられる音がしきりにしていた。  一時間ほどして、トラックは侘しい町の中に入って行った。  三日前の午後不動産屋の男に案内された町は、夜の色につつまれてすっかり様相を変え、アパートの所在も全く見当がつかない。圭一は、電灯のともった家の戸を開けては何度もたずねた後に、ようやくトラックをアパートの露地に導くことができた。  アパートの前には、露地をへだてて小さな建売り住宅らしい家が三軒ならんでいるだけで、傍を走る舗装路の向うには畠がひろがっている。アパートは圭一が勝手にきめてしまっていたので、春子にとっては未知の場所であった。 「淋しい所ね」  春子は、助手台からおりると、暗い畠の方をながめながらつぶやいた。  アパートの持主は隣接した大きな農家で、圭一が引越しをしてきたと告げに行くと、主人が出てきて入口のドアを開け、部屋の電灯もつけてくれた。アパートは、五室だけのモルタル作りの平家であった。  圭一たちは最初の入居者で、春子はその六畳間の柱も壁も真新しいことにようやく気を取り直したようだった。 「問題は、だ。この部屋に荷物がおさまるかどうかだ」  圭一は、苦笑いした。 「そうですね。トラック一杯の荷物ですからね」  表情の乏しい望月も、部屋の中を見廻しながら顔をしかめた。 「そのことは、私にまかせておきなさい。家具の長さと幅を綿密にはかって六畳の部屋にぴったり入るよう計算してあるんだから……」  春子は、一枚の図面をひろげた。 「それは、お前、計算はそうなるかも知れないが、理論通りにゆくはずはないよ。絶対におさまるものか」  圭一は、絶望し柱に背をもたせかけた。 「なにを言ってるの。団地サイズというのもあるけど、六畳間は六畳間で広さはきまっているのよ。長さも幅も数字なのよ。数字ほど信用できるものはないじゃないの。のんきなことを言ってないで、さ、最初は桐ダンスを運んできて」  春子は、図面を畳の上に置くと命令口調で言った。  圭一たちは、トラックから家具をおろすと窓から部屋の中へ運び入れた。  荷台に盛り上った家具が、せまい六畳の部屋におさまるはずがない。入りきれぬ家具はトラックに再びのせて、勤務先の会社の倉庫にでもあずかってもらわねばなるまい、と圭一は思った。  しかし、春子は、図面を手に自信にみちた態度で、 「洋服ダンスは、ここよ。柱にぴったりつけて」  などと、甲高い声で指示する。  圭一たちは、春子の命ずるままに家具を並べていったが、家具がならべられてゆくうちに、圭一たちの顔には感嘆の色が浮ぶようになった。いつの間にか、部屋の壁は家具におおわれ、押入れには寝具類や衣類がつめこまれた。そして、食器などを入れたボール箱が運びこまれると、荷台は空になった。 「よく入ったものですね」  運転手が、窓の外から呆れたように部屋の中を見まわした。  圭一は、わずかに残された二畳余の空間にあぐらをかいて家具をながめた。たしかにその配列は見事としか言いようがなかった。桐ダンス二本の横に洋服ダンスが立っている。茶ダンス、ミシン、和机もほとんど隙間なく並び、下駄箱も半畳の広さしかない入口のタタキに置かれ、衣裳ダンスは押入れの下部におさまっている。ただ茶ダンスは和机と直角の位置にあるので、下部の抽出しは使えない。 「まるで家具の倉庫にいるみたいだ」  と、圭一は言ったが、春子の思いがけぬ才能に唖然としていた。  当然春子が自慢することを覚悟したが、意外にも春子は口をつぐんで洋服ダンスをあけたり、押入れを探ったりしている。 「ないわ」  春子の声に眼を向けた圭一は、春子が顔色を変えているのに気づいた。 「なにが、ないんだ。整理してからゆっくり探せばいいじゃないか」  圭一は、苛立った声をあげた。 「背広を入れた包みがないのよ。たしかあなたが最後に荷台へのせたわね。ロープでしっかり縛った?」  春子が、顔をしかめた。  圭一は、ぎくりとした。 「縛った?」 「いや、家具の間に押しこんだだけだ。ロープが全部にかけ終ってあった後だったから……」 「途中で道に落してしまったんだわ」  春子が、気落ちしたように言った。 「荷台に乗っていたのに気がつかなかったですね。なにしろシートのバタバタ風にあおられる音に包まれていたので、道路に物が落ちたような音は耳にしませんでした」  望月は、気の毒そうな顔をした。  春子が、急に忍び笑いをはじめた。圭一は、呆気にとられて春子の顔を見つめた。 「背広でよかったのよ、望月さんを落さなくて」  圭一も、荷台の家具の中から顔だけ突き出していた望月の姿を思い出して可笑しくなった。飄々《ひようひよう》とした性格の望月は、たとえ落ちかかっても悲鳴をあげそうには思えなかった。  薄給の身で所有する三着の背広すべてを落してしまったことは、大打撃であった。圭一は、春子の悲嘆を予想し、おそれた。しかし、顔色を変えた春子の顔からは、すぐに失望の色が消えた。  かれは、安堵した。春子は、物事にいつまでもこだわることの激しい性格で、圭一も辟易《へきえき》させられることがしばしばだった。が、そのようなことも月日がたつにつれて少くなってきている。  おれの女房教育のもたらした成果だ……と圭一は自負していたが、実際は放浪に似た旅と結婚以来のあわただしい生活が彼女の性格を変えたのかも知れなかった。 「警察へ届け出たらどうですか」  会社の運転手が、言った。 「まずだめだろうね。だれかが持ち去って質入れしてしまったか、売り払ってしまっただろうな」  圭一は、春子の顔をうかがいながら答えた。警察に行って手続きをすることが億劫だったし、常識的に考えてみても持ち去られた公算が大きいと思えたのだ。  春子が、急に笑い出すと、 「あなたの背広を拾ったとしても、処分に困るわよ、きっと」  と、言った。  圭一は、その言葉の意味が理解できなかった。三着の背広のうち一着は、春に新調したばかりで布地の質もいい。しかも、それは既製服ではなく、京橋で紳士服専門店をひらいている友人のもとで誂《あつら》えた三つ揃えの背広だった。 「なぜ処分に困るんですか」  望月もいぶかしく思ったらしく、春子の顔に細い眼を向けた。 「だってね、この人の背広は変っているのよ。左の胸の部分にはひどく大きなパットが入っているし、それに左の袖が短くなっているの。質屋へ持っていっても、妙な背広だから受けてくれないわ。質屋の主人も頭をかしげるわよ」  春子が、咽喉を鳴らして笑った。  圭一が身分不相応に既製服を買わず背広を誂えるのは、左胸部が変形しているためであった。  二十歳の夏に結核の手術を受けた圭一の体は、肋骨を五本切除されたため左胸部が深くくぼみ、左手も短くなっている。友人の店では、そのくぼんだ部分にかなり大きなパットを入れ、服の左袖も右袖より三センチほど短くして仕立ててくれる。たしかに背広を拾った者は、大きなパットをいぶかしみ、左袖の短さに頭をかしげるにちがいない。  望月も運転手も、誘われるように笑った。 「それでは、これで引揚げます」  望月は、入口が荷物でふさがっているので窓を乗り越えて靴をはいた。  圭一は、辞退する運転手に謝礼を渡すと、春子と外へ出た。 「また引越しの時は手伝いに来ますよ」  助手台に乗った望月が、頭を下げた。  トラックが、舗装路を走り出した。  圭一と春子は、トラックの尾灯が遠ざかるのを見送っていた。  淡い月が、中央にかかっている。 「背広を着なくてすむ季節でよかったわ。ワイシャツとズボンで会社に行くのね」  と、春子は言うと、アパートの中に入って行った。 [#改ページ]    勤務のこと  結婚とは原則として毎夜家にもどることである……という定義があるとすれば、会社勤めとは休日をのぞいた日の早朝、満員電車に乗ることであった。  転居した町から会社までは、準急に乗っても一時間三十分を要した。電車は、常に超満員で身動きもできない。  かれは、電車に身を押しこむ度に、八年前肺外科手術のメスをふるってくれた外科医との間で退院直前に交した会話を思い起す。 「肋骨をとられてしまったのですから、満員電車には乗れませんね」  と、圭一。 「そうだね。ジュラルミン製の鎧《よろい》のようなものでも身につければ、別だが……」  と、外科医。 「一生涯、満員電車には乗れないんですか」 「そんなこともない。肋骨をとったと言っても骨膜は残してあるから、順調にゆけば一年後ぐらいには骨が再生してつながる。蟹のハサミのようにね。でも、いびつな骨だから余り丈夫じゃないが……」  外科医は、眼鏡の奥に光る眼に笑みをたたえながら言った。  骨は外科医の言葉通り再生したらしく、左胸部を指で押してみると手ごたえがあるようになったが、満員電車に乗るのは恐しかった。しかし、それもいつの間にか意に介さなくなっている。  超満員の電車は、走り出すと徐々に窮屈な度合いがうすらいでゆく。それは、茶筒の底をたたくと、容器の上部にあふれるように盛り上った茶が次第に沈んでゆくように、車体の振動によって乗客の体が適当な位置におさまり、手足を動かす余地さえ生れてくる。  圭一は、窓から沿線の風景をながめる。  かれの眼は、窓外に果しなく現われる家々に注がれる。そして、なぜこのように自分の家をもつ豊かな人が多くいるのだろうと、不思議に思う。  かれは、何度も試みた計算を飽きずに繰返す。月々手にする給与は生活を辛うじて維持できる程度にすぎず、貯金にまわすことのできる金といえば夏季と年末に一カ月分ずつ出るボーナスだけである。仮に郊外の土地を五十坪購入し十五坪の家を建てるとして、それに要する費用をボーナスの額で割ってみると、家を建てることができるのは三十年後になる。  五十八歳までダメか——  何度計算してみても五十八歳である。それに地価は年々高くなって、一生涯家をもつことなどできないのだ。  しかし、本質的にかれには家を持ちたいという欲望は余りなかった。アパートからアパートに転居をつづければ、それでよいとも思っていた。ただかれは、多くの家が立ち並んでいることに釈然としない。勤め人として年齢相応の平均的な収入を得ている自分が、一生涯かかっても家をもつことができぬ計算なのに、なぜ自家をもつ人がそれ程多く棲息しているのか、不可解でならない。  遺産か親の財産を分けてもらった者だけが、家を持っているのだ……、とかれは思った。友人たちのことを考えてみても、自分の家に住む者は例外なく親の庇護を受けている。親もなく遺産も受けぬ身なのだから当然だ、と、かれはようやく自分の境遇を納得できたような気になった。  勤務先は寝具会社で、かれの名刺には企画室長と印刷されている。入社した時から企画室長であるが、それは室員がかれ一人であったからにほかならない。  企画室の仕事は、新製品開発の情報|蒐集《しゆうしゆう》と、宣伝であった。  時折、小柄な社長が勢よく部屋のドアを開けて圭一の机の前に立つが、それは、きまって朝か商用旅行から帰ってきた時にかぎられる。夜寝床の中か旅行先で思いついた新製品の企画を持ちこんでくるのだ。  入社して間もない頃、部屋に入ってきた社長は、短い足で部屋の中を歩きまわりながら、 「ポケット付き炬燵《こたつ》ぶとんはどうかね。君は、消費者になったつもりできいてくれ。これはいいと思うんだがな、きっと当る」  と、眼を輝かせ、黒板に図解をして説明しはじめた。  炬燵ぶとんの四方に垂れた部分に、チャックつきの広いポケットが縫いつけられてある。それだけの思いつきにすぎないが、社長にとっては斬新きわまりない考案らしい。 「いいかね、炬燵のある部屋は一家|団欒《だんらん》の場所だ。夫は煙草をくゆらし、妻は編物をし、子供はテレビを見ながらプラモデル作りをする。当然、小物入れが必要だ。また老人は、一日中炬燵に入って過す。立つのは億劫な年齢だから、もしポケットがあればそこに煙草も老眼鏡も入れておくことができる。便利じゃないか。生活が楽しくなるじゃないか」  社長は、陶然とした表情でしゃべりつづける。  圭一は、相槌《あいづち》を打ってきいているが、そんなことに興奮する社長が滑稽に感じられた。思いつきそのものは面白いが、果して実用的に意味があるのかどうか疑わしかった。  しかし、試作されたポケットつき炬燵ぶとんは、会社で企画した新製品発表展示会で好評を得、寝具問屋からの引合いも多く、秋から初冬にかけての売上げが期待された。圭一は、消費者殊に主婦が新しい商品に必要以上の関心をしめすことに気づいた。 「便利ということに、主婦はとびつく。便利であるから実用的だとは決して言えないのだが、主婦は新製品に楽しい夢をえがく。箒《ほうき》で掃除するのと電気掃除機で掃除するのと、どちらがよいか、それはわからんよ。だが、掃除機を使う方がなんとなく楽しい。そうした夢を便利だという言葉におきかえて使ってもらうのも、商品の役目なんだ」  と、社長は、淀みない口調で言った。  社長はそうした考え方から、決してはずれない枕カバーやふとんカバーを売り出したり、自由に洗濯のできる掛けぶとん地や炬燵ぶとん地を考案し、いずれもかなりの業績をおさめていた。  滑稽だと思って笑ってはいけないものらしいと、圭一は気づくようになった。が、仕事になれた圭一にも、荒木重兵衛という老人の存在は驚異であった。新製品開発に熱心な会社には新考案の寝具類見本を持ち込む者が多かったが、荒木もその一人であった。  圭一が荒木と初めて会ったのは、入社後一カ月ほどした頃であった。年齢は七十歳を越えているというが、背も高く恰幅も堂々としていて、案内してきた小柄な社長がひどく貧相にみえた。荒木のさし出した名刺には、寝具研究家という肩書が印刷されていた。  荒木は、大きな邸に住む資産家だという。 「しかし、私は趣味として寝具の研究をしているのではございません。余生をこれにかけているのでございます」  と、荒木は初対面の挨拶で圭一に言った。 「私の持論を申し述べますが、人間は平均八時間睡眠をとります。それは一日の三分の一の時間で、平均寿命が仮に七十二歳とすれば、実に二十四年間は寝具の中で過します。そのような貴重なものを研究するのは、人間として当然のことではないでしょうか」  理屈はたしかにその通りだが、数字を突きつけて鬼面人を嚇《おど》かす類の観もある。  戦時中に、全国の家庭で米をとぐ時十粒の米を無駄に流してしまえば、それを集計すると何千俵になるとか言って、米を大切に扱うよう政府は節約を奨励した。数字の上では正しいが、全国の家庭で流す米粒を一粒残らず集めることなど実際には不可能だ。太宰治は「人間失格」の中で同じことにふれ、統計の嘘、数字の嘘と書いている。  荒木は、月に平均一回新考案の寝具類を持ちこんでくるが、その考案物には必ず「便利な」という形容詞をつけてあるのが常であった。かれは手先が器用で、実物の十分の一の大きさの物を作り上げて持ってくる。そして、その時持ちこんできたものも、「便利な蚊帳《かや》」という名称のつけられた蚊帳の模型であった。  荒木は、大きな風呂敷からさまざまなものを取り出すと組立てをはじめた。  細工は入念で、テーブルの上に小さな部屋が出来上った。そして、天井から金属製の棒で作られた四角い枠がつるされ、その枠から蚊帳が垂れた。 「蚊帳で最も不便に感じることはなんでしょうか。それは、夜になって部屋に吊り、朝になってたたむことでございます。その悩みを一挙に解決したのが、この|便利な蚊帳《ヽヽヽヽヽ》です」  と、荒木は言って、模型の蚊帳のふちに垂れた紐を引いた。  すると蚊帳は、すだれを巻くように巻き上げられて上方の四角い枠におさまった。圭一は、呆れ、そして同時に笑いがつき上げてくるのを意識した。  しかし、荒木の顔を見た圭一は、荒木に薄気味悪さを感じた。荒木は、真剣な眼をして自分の考案物を見つめている。その顔には、一つの仕事を成し終えた陶酔に似た表情があった。  圭一は、荒木を偏執狂だと思った。たしかにかれの考案した蚊帳は、吊り、たたむ労力を必要としない。しかし、それを吊り上げることによって解決しようというかれの発想は、異常に思えた。  その後、荒木は、再び新考案の蚊帳を持ちこんできた。それは、「便利なドアつき蚊帳」であった。 「蚊帳をまくって入る時に蚊が入りこんでしまいます。それでは蚊帳の価値がございませんので……」  と言って、新考案の蚊帳をとり出した。  蚊帳の一方の垂れた部分に、あたかもドアのように開閉自在の布地が縫いつけられている。そこからくぐって内部に入ると、ボタンをとめて閉じるようになっていた。  それらは商品として採用されなかったが、社長は荒木が考案物を持ちこんでくる度に一定の謝礼をしていた。  社長が荒木を避けることもなく、寝具研究家として丁重に遇していることが、圭一には不可解だった。荒木が、頭脳の硬化した老人としか思えなかった。  その点について営業部長に意見をただしてみると、 「蚊帳のことなどで驚いちゃいけませんよ。荒木さんは、前に便利な目覚しベッドというのを持ちこんできたことがあるんです」  と、営業部長は、苦笑した。  そのベッドはタイムスイッチがついていて、一定の時刻になると、二つ折りになったベッドのマットの前半部が激しい勢で垂直に立つ。つまり目覚し時計の代りにベッドがはね上って、眠っている人間の半身を起してしまうのだ。 「荒木さん御本人はマジメでね。その時はさすがに社長も笑い出して、このベッドを使うと心臓麻痺を起す惧《おそ》れがあるなと言っていましたがね。それでも社長は、荒木さんを疎略に扱うようなことはしないんです。突拍子もない考案だが、そうしたことから新製品のアイディアが湧くのだと言ってね」  営業部長は、笑った。  圭一は、そうした新製品の企画をまとめていたが、一カ月置きに発行される宣伝用新聞の作成にも従事していた。それは、四ページ建てのタブロイド判の小新聞で、一面と二面には、会社の販売する季節向き商品の紹介をのせ、三面と四面は寝具の知識に関する記事でうめる。新聞は、販売系列の寝具店に送られ、そこから客に渡される仕組みになっていた。  商品の紹介記事は営業部から流れてくる資料を整理すればよいので簡単だったが、寝具知識の記事作成は容易ではなかった。 「それは、先生にきけばいい」  社長は、「先生」という言葉に多分にからかい半分の響きをふくませて言った。 「先生」とは、圭一の兄のことであった。  兄は寝具会社を経営していて、いわば社長の同業者仲間であった。  兄は、事業経営に従事しながらも、二十年近く前から寝具の歴史研究をはじめていた。その部門の資料は乏しいらしく、それに研究者も皆無に近かったので、兄の研究はその分野で注目を浴びているようであった。そして、限定出版をする出版社からの依頼で、「綿の郷愁史」という分厚い著書もあった。  兄は、社長と親しく、社長の依頼で寝具知識の資料を提供していた。  兄が会社にくると、社長は、 「よお、先生」  と、言う。 「その先生だけはやめてくれよ」  と、兄は言うが、顔には満更でもないような笑いがあふれ出る。 「私も先生と言わなければいけませんか、社長」  圭一が真面目くさった表情で言うと、 「そうとも。寝具大学とでもいうものがあったとしたら、さしずめ学長の資格はあるお方だから先生とお呼びしなくては……」  と、社長も答える。  兄は、ただ困惑したように苦笑するだけであった。  寝具会社を経営している次兄の口にする寝具知識の話は、圭一の手で整理され、宣伝用小新聞の記事に使われていた。 「畳は、もともと敷ぶとんであったという説がある」  兄は、或る時言った。 「それは、面白い」  社長が兄の顔を見つめると、兄は、いつもの癖で万年筆をいじりながら説明をはじめた。 「昔はふとんというものがなく、板敷きの床に直接寝ていた。そのうちに貴人が藁《わら》をつめた畳に身を横たえるようになった。その証拠に、畳の長さと幅は人間ひとりが寝るのに適した長さと幅だ。但し、畳は、うすべりのようなもので、いつもは折りたたんでおいて、客が来た時に出す敷物であったという説が一般的だ。つまりそれを厚くして、貴人が敷ぶとんの代りに使ったのだろうな」  などと、幾分|曖昧《あいまい》なことも言う。 「ふとんをなぜ蒲団《ふとん》と書くか、知っているかね」  兄の質問に、社長も圭一も頭をかしげる。  兄は、淀みない口調で話しはじめる。 「貞丈雑記という書物によると、蒲団というのは、蒲《がま》の葉をつめて作った円座と書いてある」  棉花《めんか》の種が昆侖と言われた東南アジアの国から日本に伝えられたのは室町時代の末で、棉を入れたふとんは限られた上流社会の人々の使う贅沢品であったという。 「文化文政の頃だね、ようやく一般化したのは……。それでもふとんは高級品で、その証拠には当時の火事の絵などを見ると、ふとんをかついで逃げる人の図がえがかれている。また吉原遊廓の花魁《おいらん》へ客が贈る最高の品は、組夜具と称する華やかなふとんで、花魁が見世先に飾って自慢したものだ」  と、言った。  この組夜具について、兄は東京にただ一人残っていた老職人に依頼して縮緬緞子《ちりめんどんす》を使い再現した。  それがまだ出来上らぬ頃、兄は、新派の舞台で布にえがかれた組夜具を眼にして、人を介し花柳章太郎氏に面会した。そして、実物の組夜具を舞台に無料貸与したいと申込んだが、組夜具が出来上ったのは、芝居が終ってからかなりたった頃だった。 「ゆかたは、なぜ浴衣と書くか」  とも、兄は言った。  初めに問いかけをしてから説明に入り、「その証拠には」と結論を出すのが兄の癖であった。 「ゆかたは、湯《ゆ》帷子《かたびら》から来ている。昔、貴人殊に女性は裸身で入浴はせず、薄い衣を身につけて湯に入った。それが湯帷子で、入浴後に着る衣ともなった。それだから、現在でも浴衣に浴という漢字が使われている」  また風呂敷についても、 「なぜ風呂という文字が使われているのか。あれは、元来入浴後足をふいた敷物用の布であったのだな。それが濡れた湯帷子をつつむのにも用いたりして、今のように物を包むのに用いられるようになったのだ」  とも言った。  兄は、しきりに旅行をしては棉花問屋や寝具関係の老職人の話をきいてテープレコーダーにおさめる。そのテープは、押入れからあふれるほどの量になっていた。  兄も、寝具研究家の荒木と同じように一種の偏執狂であるにちがいなかった。そのような類の人間は、どのような世界にも棲息するもので、圭一も奇怪な文学志望者の集団という小世界に棲む人間かも知れなかった。 [#改ページ]    ひそかな仕事のこと  圭一は、小説を書いていることを会社内では決して口にしなかった。  小説を書いていると言っても、発表するのは同人雑誌で、それは自分だけのひそかな仕事であり、他人に知らせる必要もないことであった。それに会社勤めと小説を書くことは全く関連のないことで、会社の門を入れば社員以外の何者でもなく、給与を得るかぎり勤勉な社員であらねばならなかった。  そうした考え方から、圭一は休憩時間でも社内で文学書を読むようなことは一切せず、社員としての専門的知識を得るため会社に備えつけられた繊維関係の書物などを読むだけであった。かれは、残業も決していとわず、むしろすすんで引受けた。それも、勤め人という一社会人としての当然の義務と思ったからであった。  六畳のアパートの部屋にもどるのは、午後十時頃になることが多かった。  妻の春子は、昼間適当に家事をすませると、読書をしたり同人雑誌に発表する小説を書いたりして過す。……圭一が帰宅すると、一つしかない机を明け渡して、春子は就寝する。  圭一は、茶を飲み、しばらく休息をとってから机に向う。机のまわりには家具が隙間なく立ちならんでいて、その谷間にかれの体は埋れる。が、そうした雰囲気は決して息苦しいものではなく、むしろ密室感が濃厚で落着いた気分になった。  かれは、細字書きの万年筆で小さな文字を原稿用紙に書きつらねてゆく。その字は蟻の列のような小ささで、原稿用紙一枚に書いた文章を清書すると、十枚分の分量になる。つまり五枚の下書きを書くと、五十枚の作品になるのであった。眼に悪い影響があることは、知っていた。が、原稿用紙の枡目《ますめ》に一字ずつ書いてゆくよりも微細な文字をきざみつけてゆく方が、神経が凝集するように思えたのだ。  圭一は、それが自分だけの特殊な癖であることを知っていた。と同時に、小説を書く同人雑誌仲間の友人たちも、それぞれ特殊な癖をもっていることも知っていた。  或る友人は、小説を書くのに決して洋机は使わない。椅子に腰をかけて洋机にむかうと、緊張感が腰の下からぬけ出てしまうような気がして落着かないという。かれは、和机にむかい、厚目の座ぶとんに腰を深くうずめて下方から緊張感の拡散するのをふせぐ。さらにかれは、頭から耳にまでかぶさるような大きな毛糸の帽子をかぶる。 「なんというのかな、帽子をかぶらないと、小説を書く神経が、丁度気化でもするように頭のてっぺんからぬけ出てゆくような気がしてならないんだ」  と、その友人は真剣な眼をして言った。  また他の友人は、万年筆のペン先の背で原稿用紙に字を書きつらねてゆくという。 「手紙などは、ペン先の表で書くが、小説を書く時は、ペンの背中で書くんだ。小説の文字は普通の文字とちがうからね、万年筆にもそのことを教えたいし、自分自身にも言いきかせたいような気持なんだ」  と、その友人も生真面目な表情で言った。  圭一は、帰宅後午後十一時頃から深夜の二時すぎまで原稿用紙に文字をきざみつける。起床は七時頃なので、睡眠時間は五時間足らずであった。が、それも習慣になると、それだけの時間で不足はなかった。  眠りは深かったが、横になった直後夢にうなされることも多かった。その夢はいつもきまっていて、頭の中で蒸気機関車にひかれた列車が走る。大きな円筒状の囲いの内側を、オートバイが加速度をあげてほとんど横倒しの形で走りまわる見世物がある。それは、遠心力を利用した騒々しい見世物だが、圭一の頭の中でも、頭蓋骨の内壁を機関車にひかれた列車がレールを鳴らして、すさまじい勢で回転し、疾走する。  夢だということは、知っていた。そして、一刻も早く夢からさめたいと願う。  このままでは、頭蓋骨がくだけてしまう……と、かれはあせる。 「オーイ、助けてくれ」  かれは、叫ぶ。  しかし、機関車は、たけり狂ったように疾走をやめない。車輪のレールを鳴らす音が、頭の中で充満する。狂人になるような恐れが、しきりに襲ってくる。長い時間が経過し、ようやく機関車の速度がよわまる。  圭一は、夢の終りが近づいたことに安堵し、眼をあける。体中に汗がふき出ていて、圭一は、しばらくの間闇の天井を見つめて息をととのえるのだ。  圭一の所属している同人雑誌は、男が四人、女が三人の同人で組織され、その中には春子も大学時代からの友人である望月も加わっていた。  主宰者は仁戸部という抽象性の濃い小説を書く人で、同人中の最年長者であった。仁戸部は、小説の良否を見きわめる編集者能力にも恵まれていて、同人たちはかれに敬意をいだいていた。  同人費は月に千五百円で、圭一は春子の分をふくめて三千円を支払わねばならない。月給一万五千円の身で、その金を捻出するのは辛かったが、圭一夫婦にとっては絶対に支払わねばならぬ金であった。  給料日は毎月二十五日であったが、今月こそはといくら節約につとめてみても、三日前になると家には金がなくなってしまう。人に金を借りることの嫌いな圭一の、金を手中にする方法は質屋のノレンをくぐる以外になかった。  質屋に入るのは、勇気を要した。池袋近くの大通りから横道に入った所に質屋があって、その前に近づく。通行人があると、かれは店の前を通りすぎ、何度も行ったり来たりして人影のないのを見定めてからノレンの中にとびこむ。  質草はスイス製のベレンスという時計で、老いた店主は、 「この時計なら三千円までは貸してやれるがね」  と、口癖のように言って千五百円を渡してくれるのが常であった。  同人雑誌は、作家志望の者たちが集って作る雑誌で、小説の原稿が集ると、印刷所に持ちこんで印刷し製本してもらう。当然それ相応の費用がかかるので、少しでも安い価格で扱ってくれる印刷所を探して歩く。  圭一は、大学生であった頃から同人雑誌に所属していたが、その頃はもっぱら小菅刑務所通いをした。刑務所には印刷部があって、囚人が印刷し製本もしてくれる。値段は、相場の半額近くであったが、雑誌が出来上るまでには三カ月以上もかかり、それも約束の時間よりおくれる。圭一たちは、刑務所前の土手に腰をおろして夕方まで川風に吹かれたりしていた。  その刑務所の印刷部は、費用の捻出に苦労していた圭一たちにはありがたかったが、なぜかわからぬが一年ほどたつと印刷を引受けてくれなくなった。  圭一は、大学を中退し結婚してから、高名な作家が費用を負担している「文学者」という規模の大きな同人雑誌に加わった。そして、二つの短篇が相ついで掲載されたが、突然のように雑誌は休刊になり、発表誌を失った圭一は、誘いを受けて仁戸部の主宰する同人雑誌に春子とともに参加したのだ。  同人会は、圭一よりも五歳年長の淡路容子という同人が借りている部屋でひらかれた。会の空気はなごやかで、締切り日までには確実に原稿が集り、同人費の滞納も全くなかった。  雑誌は季刊が厳守され、雑誌が出来上ると、著名な作家、批評家や出版社の編集部宛に郵送する。雑誌はそのまま屑籠に投げこまれるかも知れなかったが、同人たちは祈るような思いで封筒に宛名書きをし、郵便局に持っていった。  同人は七人だったが、発表される小説の水準はかなり高いといわれていた。そして、雑誌が出ると、必ず文芸雑誌や新聞の同人雑誌評欄で同人の小説がとり上げられ、それぞれに好意的な批評を受けていた。  そのうちに、淡路容子の書いた短篇が、文芸雑誌の同人雑誌賞を受賞し、つづいて石塚誠という同人が同じ賞を授けられた。また仁戸部のもとにも著名な週刊誌から連載小説の依頼があって、かれはたちまち多忙な作家としての日を送るようになっていた。  同人七名のうち三名が文壇への足がかりを得るきっかけをつかんだことは、小さな同人雑誌としては異例のことであった。が、淡路も石塚もそして仁戸部も文芸雑誌や週刊誌の原稿依頼を受けながらも、依然として同人雑誌へ小説を書くことをやめなかった。  九月下旬の同人会で、突然淡路が、 「春子さん、あんた妊娠しているでしょう」  と、澄んだ声で言った。  春子は、驚いたように淡路の顔を見つめた。たしかに春子は、妊娠五カ月目になっているが、目立たぬ体質らしくだれにも気づかれたことがない。その妊娠を見ぬいたことは、いかにも鋭い勘をもつ淡路らしかった。  圭一が結婚申込みをした時、春子はすぐに承諾したわけではない。 「私は、ごはんも炊けないし、味噌汁も作れない」  とか、 「子供が嫌いだから一生うまない」  などと言って圭一を威嚇する。  圭一は、 「いいとも、それこそ理想の女房だ」  と言ったりして、一切さからうことはしなかった。  かれは、春子が本心を口にしていないのだろうと思った。彼女は、結婚することにおびえていて、圭一の愛情の度をたしかめるためにそんな愚にもつかぬことをならべ立てるのだと思っていた。  しかし、彼女が結婚することをためらっている真の理由があることに、やがて圭一は気がついた。 「結婚し、家庭をもち、子供でもできたら小説を書くことなど出来なくなるでしょう。私は、死ぬまで小説を書きつづけてゆきたいの」  と、春子は言った。  圭一は、結婚後も小説を書いてゆくという春子の言葉に呆れた。いやな女だ、と思った。愚しいことを考えている女だ、とも思った。自分が小説を書き、妻も小説を書く。考えただけでも殺伐としていて、そんな生活は不愉快だった。  しかし、圭一は、結婚が女にどのような生活を強いるかを知っていた。結婚すれば、春子は主婦として家庭の仕事の渦の中にまきこまれてゆき、小説を書くことなどできるはずもない。  ともかくこの場はまとめなければならぬ、とかれは思った。  結婚してもよいと思った女性は春子が最初であり、これから以後続々と心やさしい女性が眼前にあらわれてくるかも知れないが、そうともかぎらないとも思える。それは、ラッシュアワーにホームで電車を待つ心理に似ている。春子という幾分すいた好しい電車がホームにすべりこんできた。この後にもすいた電車がつぎつぎとやってくるか、それとも超満員の電車ばかり来て、結局はホームにとり残されるか、全く予測はつかない。それならば、勇を鼓して眼の前にとまった電車のドアーにとびこむべきだ、と圭一は決心したのだ。  圭一は、春子を自分の女房にしてしまうことだと思った。家庭の主婦にさえしてしまえば、自然に考え方も変るにちがいないと、たかをくくった気持であった。 「結婚したら小説を書けなくなるなどとは、おかしな考え方だ。男と女は、古今東西おおむね結婚することにきまっている。その重荷を背負った上での小説じゃないか」  などと、圭一は、真剣な表情をよそおって言った。 「それでは、結婚後も小説は書くわよ。それでもいいのね」 「もちろんさ。男として約束する」  春子は、その他愛ない会話で安心したらしく、ようやく結婚に同意したのだ。  春子が、金銭に全く縁がなく結核の既往症もある圭一と結婚したのは、結婚後も小説を書くことをさまたげぬ夫として、圭一をえらんだからにちがいなかった。  春子は、結婚後も同人雑誌に発表する小説を書きつづけていた。そして、二年もたった現在でも小説を書くことをやめる気配はない。それは、圭一にとって大きな誤算であった。かれは、春子が結婚したら小説を書く気持など失《う》せて、女房業に専念すると思いこんでいたが、その予測が全くはずれたらしいことに気づいたのだ。  しかし、かれは、約束したかぎり春子に小説を書くことをやめろとは言えなかった。男の約束は必ず守らなければならぬものだと、かれは思っていたし、それが春子との結婚の最大の条件であれば約束を破棄することもできなかった。  最悪の事態におちいった、とかれは思った。  作家は、ひそかに小説を書く。原稿用紙に文字を書きつらね、それを消したり、また加筆したりする。嘘八百を本当らしく書くのが小説だ、と或る作家は言ったというが、たしかにその気味はあって、嘘を真実めいたものに仕上げることに努力する。そうした性格をもつものだけに、人眼をはばかる後めたさがつきまとう。  スタンドの灯の下でひそかに仕事をする小説書きの作業は、贋金《にせがね》づくりのそれに似ている。贋金づくりがあれこれと工夫して、本物の紙幣や硬貨をつくるのに腐心するさまは小説書きの原稿用紙に筆を走らすさまにも共通している。一つ屋根の下に、二人の小説を書く人間がいることは、二人の贋金づくりが同居していてそれぞれ人眼をさけて作業をつづけているような奇怪さがある。  これは困ったことになった、と圭一は時折胸の中でつぶやく。前世になにか大悪事をおかした報いが、今になって身にふりかかってきたのかとさえ思った。  しかし、かれは、その反面こんな風にも考えた。春子は、一生の仕事として小説を書きつづけている。それは、おそらく彼女の生きる意味であるにちがいない。そうした一つの仕事に打ちこんでいる春子に、それをやめよということは、たとえ夫であっても他者の口をさしはさむ性格のものではない。牽制し、中止を強要することは、僭越《せんえつ》きわまりないことであり、夫と妻という範囲を越えた人間的問題であるとも思った。  もしもそんな妻が不快なら、離婚すればよい。少くとも夫婦という一つの枠の中にいるかぎり、妻の小説を書く作業を拘束すべきではないと思った。  夫と妻がそれぞれ小説を書き、平穏に暮しているらしいことは、小説書きの世界ではあり得べからざることだという考え方がある。小説を書くようになってから、圭一もそれが正しいものらしいと知るようになり、おそらく文学に関係のある人からみれば、自分たち夫婦のことをいい気なものだとひそかに思っているにちがいないと気づいていた。  結婚して間もなく関係した同人雑誌は、月例の合評会に二百人近い出席者のある規模の大きなものだった。圭一は、春子と連れ立って毎月合評会に出席していたが、二人が夫婦であることを知った同人たちは、好奇の眼を向けてきていた。  或る夜、合評会に出席して電車で帰宅する途中、春子が、 「今日、変なことを言われちゃった」  と、いたずらっぽい眼をして言った。 「どんなことだ」  圭一は、たずねた。 「見知らぬ女の人が近づいてきてね。あんた、離婚しなくちゃいい小説を書けないわよ、文学ってそんな生易しいものじゃないんだから、と言うのよ」  と言って、春子は苦笑した。 「それで、なんて答えた」 「仕方がないから、ハイ、ハイと言っておいたわ。そのひとも悪気で言っているわけじゃないんですから……」  春子は、車窓の外を流れるネオンの光に眼を向けながら言った。  圭一は、それでよいと思った。忠告をした女は、真剣に文学にとりくんでいるのだろう。その女にとって、圭一たちは安易な態度で小説を書いているように思えるにちがいない。それは、春子の言葉通り決して悪意から発したものではない。春子は、「仕方がないから」と言ったが、その表現以外になにもない。なんと言われようと、仕方のないことなのだ。  圭一も春子も、小説を書くことを職業とすることができるようになっても、決して豊かな生活に恵まれるとは思ってもいなかった。大学時代、文芸部で企画した講演会に講師として出席してもらうため、中堅作家の自宅を何度か訪問したことがあるが、それらの作家の生活は予想に反して豊かとは言いがたかった。  小説を相ついで文芸誌に発表し好評を受けていた或る尊敬すべき作家は、二間つづきの借間住いであった。一方の部屋では、夫人と子供たちが食事をし、他の部屋では畳の上に足のふみ場もないほど多くの書籍をひろげた中で、作家が原稿用紙を和机の上に置き万年筆をうごかしていた。  長い文学歴をもち多くの小説を発表している作家は瀟洒《しようしや》な家に住んでいる人もいたが、それですら社会通念の富裕さとは別であった。  また圭一と春子の結婚式に夫人とともに出席してくれた作家も、豊かさとは程遠い生活をしていた。その作家は清廉な文筆生活をしていて、小説を書くということは、いかなることかということを無言のうちに教示してくれた。そして、圭一夫婦が小説を書くことについても、 「それが君たちの負わされた定めなのだから、やむを得ないことだ。僕などには想像もつかない地獄だろうが、その地獄の中で書くこともそれなりの意義はある」  と、言った。  圭一は、地獄という言葉に思いがけぬことを耳にしたような驚きを感じ、狼狽した。なんとなく好しくない状態だとは思ったが、地獄とまで考えていなかった。  かれは、自分もいつの間にか地獄の生活になじみ、その殺伐とした空気に麻痺してしまっているのかと思った。 [#改ページ]    生活のこと  十月初旬の土曜日の午後、圭一は会社の帰途、東京駅でおりると京橋まで歩いた。そして、テーラー江崎と金色の文字が書かれているガラス張りのドアをあけて店内に入っていった。その紳士服専門店は、江崎兄弟が経営していた。弟の江崎が圭一の弟の中学時代の親友であることから、圭一も洋服をその店でつくるようになっていたのである。  三着の背広を引越しトラックから落してしまった圭一は、新たに洋服を註文し、その日が洋服の出来上り予定日になっていた。  江崎の家は、代々江戸の商家で、かれらにも江戸の町人の気質がうけつがれている。  かれの父はすでに死亡していたが、小柄で気さくな人であった。家に風呂があるのに、それは夜入るものときめていて、毎朝近くの銭湯に出掛けてゆく。一本気な人で損をすることも多かったらしいが、その反面律義な性格でもあった。  或る夜、かれの父が自宅の風呂に入っていた時、客から電話がかかった。かれの父は、体もぬぐわず裸のまま受話器をとると、 「裸のままで申訳ありません」  と、電話の相手に詫びを言ったというエピソードの持主であった。  江崎兄弟も礼儀正しいが、その年の六月に店へ行くと、二人とも祭のいでたちをしていた。半纒《はんてん》を着、白い足袋をはき鉢巻をしめている。そして、鼻筋にはお白粉を一筋塗ってある。  かれらは二人とも大学卒で、兄は二十九歳、弟は二十六歳であった。  圭一が店に入ってゆくと、 「いらっしゃい」  と、兄弟は口をそろえて言った。 「今日は、お祭?」  圭一が可笑しさをこらえながらたずねると、弟の方が、 「そうなんですよ。山王様のお祭でね。今、私の方がみこしをかついできて、これから兄貴が出掛けて行くんですがね」  と、祭のいでたちを恥しがる風もなく答えた。  立派な大人が鼻筋にお白粉を塗り、鉢巻をした祭姿で店番をしている光景は異様だった。 「もっと威勢のいい若い男に、みこしの方は任せればいいじゃないか」  圭一は、冷やかし半分に言った。 「それがそうはいかないんですよ。私たちのような年季の入っているのが混っていなくちゃ、どうにもならないんです。みこしというのはね、かつぐようでかつがない、そのこつがむずかしいんですから……。一人でかついでやれなんて気張ったことを考えちゃいけない。時にはぶらさがるようにかつがなくちゃ」  と、曖昧《あいまい》なことを言った。  ……その日は、かれら兄弟はきちっと背広を着ていたが、圭一がドアを開けて中へ入ったことにも気づかず、熱心になにか話をしている。 「今日は」  と声をかけると、兄弟は驚いたように顔をあげた。  圭一は、かれらの掌《て》にベイゴマがのっているのを見た。  ベイゴマは、貝《ばい》ごまの訛ったものだと言われている。巻貝の殻に粘土をつめこんでまわしたのがはじまりで、明治に入ってから鋳物製になり、東京の下町をはじめ各地方で子供の間に大流行した。  バケツや洗面器の上にゴザを置き、出来た円形のくぼみの中にベイゴマを廻して入れる。はじき出されたコマは負けになって、勝った者の手に落ちるという一種の賭け事であった。  圭一も、少年時代は多くの少年がそうであったようにベイゴマ遊びに熱心だった。缶詰の空かんにコマと紐を入れて出掛けてゆく。そして、露地の奥や友だちの庭に入ってコマをまわした。  学校では好しくない遊びとして禁じていたので、少年たちは教師や警察官の眼をおそれていた。が、そのような罪悪意識があるだけに少年たちは共犯者同士でもあるかのような親密感にむすばれ、一層その遊びに熱中した。 「珍しいでしょう。この近くの料理屋の主人が、所蔵していたものを分けてくれたんですが、戦前にわれわれが使ったベイゴマですよ。重みがあるし、ここには野球ベイもある」  と言って、弟の江崎が二十個近いベイをいじりながら言った。  圭一も、かれらの傍にある椅子に腰を下してベイを手にとった。 「ベイには、普通のベイ以外に野球ベイと、それから桜ベイというのもありましたね」  弟の江崎が、圭一の顔に眼を向けた。 「それに、大モク、中モク、小モクというのもあったんだ。竹の先にベイをはさんで舗装路を走ってけずったろう。背の低くなったベイはペチャと言ったな」  圭一が思い出しながら言った。  たちまち江崎兄弟たちと圭一との間で活溌な会話がはじまった。 「ベイの先端がとがったやつは、ケットンと言った」 「コマの上端のふちに鉄の突起物が出ているのは、パッチンだ」 「ベイの渦巻状の上部にローソクをとかして垂らしたり、一文銭をコールタールではりつけたり」 「ゴザは、トコ」 「自分の持っている最もよいベイは、ダッチャン」 「おれのダッチャンは、黄金バット。その次のいいベイには白骨仮面という名をつけていた」 「ベイを傾けながらまわすのを、ムキをかけると言った」 「ベイをトコに入れる時、まわっているベイをひっかけるようにして外へ出すのをカッチャクリと言ったぜ」 「つぎつぎにベイをトコに入れるのをツギドコ」  などと、会話はつきず、圭一たちは笑い合った。 「どうです、一丁やりませんか。うちには夏ゴザがあるから……」  弟の江崎が、眼を輝かした。そして、二階へかけ上ってゆくと、すぐにゴザをかかえておりてきた。バケツが運ばれ、江崎兄弟がゴザをバケツのふちに沿って曲げ、くぼみをつくった。その上に、圭一が水を口にふくんで霧を吹きかけた。  紐は二本しかなかったので、弟の江崎と圭一がコマに紐をまきつけ、コマを廻してゴザに入れた。なつかしいブーンという蜂の羽音に似た音がおこり、コマは鋭く接触すると火花を散らした。  ベイゴマに紐をまきつけ、腰をひねって紐をひくと、コマは回転しながら円形のゴザのくぼみに入る。それはかなりの技術を要するものにちがいないが、少年時代の技術が二十年近くもたっているのにそのまま体にしみついていることが不思議でもあった。  江崎兄弟の兄の方は、弟よりも物腰がおだやかで、体つきも華奢《きやしや》であった。学業成績もよく著名な大学を出ているが、ベイゴマをまわす技術は、巧みであった。  三人は、交代にコマをまわした。 「もしもし」  男の声が、身近にした。  圭一たちは、不意の声におどろきふりむいた。そこには、一流会社の管理職にでも身をおいているような身だしなみのよい初老の男が立っていた。男は常連の客らしくいつの間にか店内に入ってきていて、圭一たちの熱心なベイゴマまわしをながめていたのだ。  圭一は、悪事が見つかったようなおびえを感じた。それは、教師や警官の眼をおそれてベイゴマ遊びをしていた少年時代の記憶がよみがえってきたからにちがいなかった。  江崎兄弟は狼狽し、ゴザとバケツを片づけかけた。 「ベイゴマか、珍しいね。一寸ぼくにもやらせてくれんか。昔は、よくやったもんだよ」  と、初老の男はなつかしそうな眼をすると、弟の江崎から紐をとりコマに巻きつけゴザの中に入れた。その技術はきわめて高度で、ベイは鋭い音を立てて廻りつづけた。その巧みさに、圭一は白けた気分になった。四人の大人がこままわしをしていることも恥しくなった。  江崎兄弟は、しきりに男の技術をほめたが、男も大人気ないと思いはじめたのか妙に取澄したような表情になった。  やがて客が、仕立てられた洋服をケースに入れてドアの外に出て行った。 「そうだ、おれはこの店にベイゴマをしにきたんじゃないんだ。洋服をとりにきたんだ」  圭一は、思い出したように言った。  江崎兄弟は、恐縮したように照れ臭そうな笑い声をあげると大きな鏡のある部屋に圭一を導いた。そして、ハンガーにつるした仕立上りの洋服を圭一に渡した。  洋服の上衣の左胸にはパットが入っていて、左袖も短目に作られている。グレイの背広が、圭一には気に入った。 「この服地なら秋から冬とそして春先まで着られますから……。来年の四、五月頃にでも薄地のものを一着作っておけばさしずめ一年間は大丈夫ですよ」  兄の江崎が言った。代金は、十二月のボーナスで支払うことになっていた。 「今度は、引越しの時に洋服を落さないで下さいよ。精魂こめて作ってあるんですから……」  弟の江崎が、洋服をケースの中に畳みながら言った。 「一寸待ってくれ、その服を来て行くよ。社長の背広を借りて着ているんだが、きつい部分もあるしゆるい部分もあって落着かない」  と、圭一は言って、新しい背広を身につけた。 「それじゃ、また」  圭一は、社長の中古の背広の入ったケースを手にドアの外へ出た。  江崎の店を出た圭一は、都電に乗った。  かれは、都電が好きだった。  車内から窓の外をながめていると、電車は両側に家々の裏手がつづく谷間のような場所を走ったり、時にはつらなる家々を見下す高台のはしに突然おどり出たりする。鉄筋の建物の間にペンキのはげた洋風の家や格子窓のついた古い家がはさまっていることもあり、都電の窓からは東京の町々のたたずまいが眼にできた。  都電は、車輪を鳴らしながら進んでゆく。車体はゆれて吊革の白い環《わ》が一様に左右にふられ、時には環が互いにふれ合う音が起ることもあった。  圭一は、大塚の茗荷谷《みようがだに》で都電からおり、車道を横切ると道に面した商店街にある理髪店のドアを押した。土曜日の午後なのに客は少く、待っているのは小学校五、六年生の少年一人だけであった。  客の頭に鋏《はさみ》を入れていた佐治とその息子が、鏡の中で軽く挨拶《あいさつ》を送ってきた。  圭一は、ソファーに坐って雑誌に読みふけっている少年の傍に腰を下した。 「圭一さんの頭は、おれのものだ」  と、佐治が言ったことがあるが、そう言われても仕方のない事情があった。  佐治は秋田県の大森という町に生れ、十七歳の時に同じ村の出身者で床屋(理髪店)をやっていた赤川という男をたよって上京し、理髪師見習になった。父がその店をひいきにしていた関係で、圭一も物心ついた頃からその店に行って髪を刈ってもらう習慣になっていた。  佐治は戦時中に近くに住む娘と恋愛結婚し、赤川理髪店で主人にもひけをとらぬ腕のいい職人になっていた。  終戦の年の四月十三日に、町の大半は夜間空襲で焼きはらわれた。人々は高台にひろがる谷中の墓地に身を避け、翌々日火熱もひえた町の焼跡におりてきてそれぞれの家のあった場所で一斉に灰かきをはじめた。が、かれらの中には、身を寄せる避難先のない者も多かった。 「その日の夕方近くになった頃だったよ。あんたの家の大|旦那《だんな》が、身を寄せる家のない人は、もしよかったら私について来なさい、と大声で言ってね」  佐治は、思い出すような眼をして言った。  父は、隅田川を越えた場所に紡績工場をもっていた。そして、集ってきた近所の人々を連れると、隅田川に架った橋を渡り工場の寄宿舎に案内した。その中に、佐治夫婦もいたのである。  そうした関係から、同じ紡績工場の住宅に身を落ちつけた圭一は、相変らず佐治にバリカンで頭を刈ってもらっていた。  終戦後間もなく、佐治は、どのような動機からか理髪道具を入れたトランクを手に浅草の劇場や寄席をまわって芸人や従業員の頭を刈るようになった。そして、その腕を買われて浅草演芸場の地下にある小部屋を仕事場にあたえられ、理髪所をひらいた。 「その頃は、浅草に芸人がたくさん集ってきていてね、それらのほとんどの芸人の頭は刈ったね。落語では桂文楽さん、喜劇役者の曾我廼家五一郎さん、森川信さん、大宮デン助さん」  佐治は、なつかしむように芸人の名をあげては私の頭髪に鋏を入れてくれるのが常であった。  圭一は、浅草演芸場にひらいた佐治の理髪所にもしばしば通った。佐治の腕がいいということもあったが、すでに十年近く頭を刈ってもらっている佐治からはなれる気にならなくなっていたのだ。  稀にやむを得ぬ事情で他の理髪店に入ったこともあるが、かれはその都度やはり佐治にやってもらう方がいいと思った。  髪を刈られるのはまだよいが、髭《ひげ》を剃られるのがいやだった。  どこの店の理髪師も、逆剃りをするのがサービスと思っているらしく、何度も下方から上方にかけて剃刀《かみそり》を動かす。それでも満足できぬらしく、軽く平手打ちでもくらわすように掌《たなごころ》で顔の皮膚をしきりにたたいては逆なでし、毛先が露出していないかをさぐる。少しでも掌に毛先がふれれば、皮膚を強くひっぱって毛先を直立させ逆剃りする。まるで手術でも受けているようで、気分が悪くなった。  さらに口のまわりの髭を剃られることは、一層苦痛だった。  相変らず逆剃りの作業はその部分でもおこなわれるが、理髪師は、指をいきなり口の中に突き入れて唇《くちびる》をつかむ。通常親指と人さし指でつかむが、唇と歯ぐきの間に人さし指を入れる者もいれば、太い親指を押し入れてくる者もいる。そして、唇を右に左に引っぱって皮膚をつっぱらせ、髭を剃る。ようやくその作業が終ると、必ずと言っていいほど口の中にしおからい味が残った。  髭剃りが終ったあとの顔は、たしかになめらかだが、皮膚が荒々しく扱われたため感覚が麻痺してしまっている。そして、翌日になると皮膚は荒れに荒れて、時には化膿《かのう》する部分もあった。  そうした苦い経験があるので、圭一は、佐治の後を追って浅草演芸場まで通ったのだ。  その頃、佐治は妻子を連れて圭一の父の紡績工場から去り、山の手線沿線にある町に移り住んでいた。家とは言っても、電気商の物置だったが、やがてその店の主人が、佐治の職人らしい性格に好意をいだいて、貸店舗を提供してくれた。  圭一は、その店にも忠実に通った。  それから一年後、圭一は喀血《かつけつ》し病臥する身になった。病状は悪化する一方で、かれは絶対安静を課せられ、一日中天井を見上げて仰臥する日々を送った。  髭は十日に一度寝たまま剃ることができたが、髪は伸びる一方で、四カ月もたった頃には由井正雪のような総髪になってしまっていた。 「散髪しなくちゃいけないな」  同居していた弟が、言った。 「余計なことを言うな。肺病の病人の髪を刈ってくれる床屋なんかいるもんか」  圭一は、すねたように顔をそむけた。  高い料金を出せば来てくれる理髪師もいるかも知れなかったが、菌の感染をおそれて警戒されながら髪を刈られるのはいやだった。  弟は黙って家を出ていったが、その夜、佐治がトランクをさげてやってきた。 「なんだい圭一さん。この頃来てくれないのでどうしたのかと思っていたよ。病気だったら教えてくれれば、とんでくるのに」  佐治は、明るい眼をして言うと、枕もとでトランクから散髪道具をとり出した。 「ぼくの病気がなんだか、知って来たのかい」  圭一は、散髪道具を枕もとにひろげた佐治に言った。 「胸でしょう? 弟さんからきいたよ」 「うつるかも知れないぜ」 「病人は、そんなことに気をつかうんじゃないの。私だってね、二十歳の時に肋膜をやっているんだ。肺病なら私の方が先輩だ。体も免疫になっているんだから……」  佐治は、快活な口調で言うと、圭一の頭の下に白布を敷いた。 「こりゃ切りでがあらあ」  佐治は、寝たままの圭一の髪に鋏を入れはじめた。そして、髪を刈ると髭も丁寧に剃ってくれた。  その後、佐治は定期的に圭一の家にやってきて、散髪後圭一の頭をふとんの外に突き出させ、寝たままの姿勢で髪を巧みに洗ったりしてくれた。  圭一は手術を受け、ようやく健康をとりもどしたが、病臥していた時の佐治の好意を忘れなかった。そして、外出できるようになってからも、佐治の店以外で散髪することはしなかった。  そのうちに、佐治は、大塚の茗荷谷に移り住んで自分の店を持った。かれの戦後の出発が松竹演芸場の地下室であったので、かれは店の名を「松竹」とした。  圭一は、春子と結婚後、三度転居をした。転居先にも勤め先の会社の付近にも、理髪店はいたる所にあったが、圭一は、電車やバスに乗って茗荷谷のかれの店へ頭髪を刈ってもらうために通った。 「ただ頭を刈るだけなのに御苦労様のことだわね。時間はかかるし乗物代まではらって、半日仕事じゃないの」  妻は、呆れたように言う。 「しかし、恩があるのだから仕方がないさ」  圭一は、反撥する。 「それは、あなたが遠くから来てくれれば、佐治さんも嬉しいでしょうよ。でも、あなた一人がお客じゃないし、あなたに来てもらわなくたって、どうということはないでしょう。おそらく佐治さんは、内心あなたのことを変人だと思っているかも知れないわよ」  妻は、可笑しそうな眼をした。 「ところがだ、佐治さんを追いかけている客はおれだけじゃないんだ。もう一人いるんだ」  と、圭一は答えた。  その「もう一人」に会ったのは、十カ月ほど前であった。かれが佐治の店に入ろうとした時、散髪を終えて出てゆく老人の客とすれちがった。 「圭一さん、今の人ね、あんたと同じだよ。浅草の演芸場の地下室で私が仕事をしていた時ひょっこり入ってきてから、その後十年間店の場所が変っても転居先をさぐり出してたずねて来てくれている客なんだ。東部線沿線にある埼玉県の越ケ谷に住んでいると言う話だがね」  佐治は、窓の外をうかがいながら言った。  圭一も、窓に顔を近づけた。眼の前の停留所に立って空を見上げている小柄な老人がみえた。 「変った人がいるもんだねえ」  圭一は思わず和服姿の老人を見つめながら言ったが、自分もその一人であることに気づいて苦笑した。  二人の客が相ついで帰り、雑誌を読みふけっていた少年が、佐治の息子の椅子に坐った。 「圭一さん、どうぞ」  佐治に声をかけられ、圭一は、鏡の前の椅子に腰をおろした。 「この間教えてもらったでしょう、あの回転看板のこと。組合の寄合いで仲間に話をしてやったら、感心されましたよ」  佐治が、圭一の肩に白い布をかけながら店の外に眼を向けた。そこには、赤、白、青と縞模様に染めわけられた円筒状の看板が立ってまわっていた。  二十日ほど前に佐治の店へ来た時、圭一は、 「なぜ理髪店の看板が、赤、白、青の三色を使っているのか知っているかい」  と、佐治にたずねた。  その由来を圭一が知ったのは前夜妻から得た知識によるものだが、圭一は夫としての権威にもかかわるので、 「つまらぬことを知っているんだな」  と、興味もなさそうに答えたが、実際には面白く思え、早速佐治に披露したのだ。  妻が日置昌一という人の著書を読んだところによると、昔の西洋の理髪師は医者を副業としていたという。そして、西暦一五四〇年(天文九年)にフランスのメヤーナキールという外科医が、赤は動脈、青は静脈、白は繃帯を意味するものとして初めて三色の縞模様の看板を出し、それが同時に理髪業をあらわすものになった由である。 「日本でも、すでに明治初年頃には赤、白、青の看板を使う店もあったんだ」  圭一は、佐治に言った。  圭一の説明は、佐治を陽気にさせた。 「理髪師が副業として医者をやっていたなんて、いい話だね。その当時は、医者よりも理髪師の方が一格上というわけだ。そう言えば、理髪師も医者も白衣はきるし、刃物も扱うんだから、似たようなもんだね」  佐治は興奮し、圭一の傍からはなれると、 「かあちゃん」  と言って、居間に通じるカーテンから頭を突き入れると、甲高い声でかれの妻にその話を得意気につたえた。 「組合の連中も喜んじゃってね、医師も理髪師も師がつく、師のつくのは弘法大師とか教師とか学のある者しかいないと言ってさ。それで、その夜は池袋のキャバレーに繰り出しちゃった」  佐治は、笑いながら言った。  佐治は、圭一の頭に熱したタオルをターバンのように巻いてから、鋏を使い出した。が、すぐに鋏の動きをとめると、圭一の頭髪を指でかきわけて地肌をさぐった。 「言うのはやめようかな」  佐治が、再び鋏を使いはじめた。 「なんだい」 「気にするからな」 「どうしたんだよ、途中で言うのをやめた方が、もっと気になる」 「それじゃ言うけどね、この三回ほど前から気づいていたんだが、気の毒だけど大旦那のようになるね」 「どういう意味だい」 「つまりね、頭髪が薄くなるきざしがあらわれているということだ」  佐治は、笑みをふくんだ眼をして再び鋏を動かしはじめた。  圭一は、結婚するまで頭髪のことなど気にかけたことはなかった。毛は剛《こわ》い方で量は多く、理髪店ですいてもらわねばならぬほどだったが、それが半年ほど前から頭髪の状態があやしくなってきた。  妻の春子に気づかれたのは、一カ月ほど前連れ立って銭湯に行った帰途であった。 「あら変だわ、頭の頂の毛がなんだか這いつくばっているみたい」  と、春子が声をあげたのだ。  頭を洗ったので、毛髪の根が湯でやわらかくなって毛が地肌にひれ伏している。 「薄くなるのかしら」  という春子の不安気な言葉に、圭一は、 「そんなことがあるものか」  と、強く反撥した。  しかし、春子の眼は、その日から圭一の頭にしばしば注がれるようになった。そして、彼女は、圭一が洗髪する度に、 「絶望的だわ。薄くなる、薄くなる」  と、からかい半分に言うようになった。そして、四日前、洗髪した時、春子は、 「待ってよ。これは、つまり結婚詐欺だわ」  と、思案するような眼をして言った。 「ひどいことを言うな。頭髪の薄れはじめたことがなんで結婚詐欺だ」  圭一は、言った。 「だって、あなたが最初に私に紹介したのは紡績会社の三番目の兄さんでしょう。たしかにあの兄さんは、白髪まじりだけど髪は豊かよ。その時、あなたは、ぼくの家系は白髪の系統で禿《は》げることはないとはっきり言ったわね」 「そうかも知れない」  圭一は、弱々しい口調で答えた。 「それから結納もすませてあなたは長男の兄さんと寝具会社の兄さんを紹介したでしょう。その時、私は少しおかしいなと思ったの。大したことはないけど、お兄さんたちの頭髪は決して豊かとは言いがたかったからよ。その後よ、あなたの亡くなられたお父さんの写真を見たのは……」  春子は、妙に光る眼をして圭一を見つめた。 「おやじの写真がどうだと言うのだ。五十歳代の男の頭としては、不思議はない」 「でも、かなり禿げ上っているわ」 「薄いのだ。禿げているというのと薄いということとは、はっきり区別しなくてはいけない」 「そうした定義があるなら、それでもいいわ。でも、私の側からみると、あなたは特殊な工作をしたと思うの。まず紡績の兄さんをみせて、遺伝的に白髪の系統で禿げることはないと私を信用させて婚約をとりきめた。その後で長男と次男の兄さんに会わせ、最後にお父さんの遺影をみせた。なんだか意識してたくらんだとしか思えないわ」  春子は、淀《よど》みない口調で言った。  それが結婚詐欺という言葉になったのか、と、かれは苦笑した。  しかし、かれは別にそのような工作をしたわけではなかった。自然の成行きで、まず紡績会社を経営している三番目の兄を初めに引合わすことになったにすぎない。たしかに毛髪の薄くなる血統ではないと口にしたことは言い過ぎだったかも知れぬが、自分の毛髪に自信があったので、自然にそんなことを口にしてしまったのだ。 「おれも気づいてはいたのだが、やはりだめかね」  圭一は、佐治に弱々しい口調でたずねた。  佐治は、返事もせず鋏の動きをとめると、圭一の頭を指でたしかめるように押した。 「なにを調べているんだい」  圭一は、鏡の中の佐治の顔を見つめた。 「いえね、頭の皮膚が硬いかやわらかいか調べたんだが、やはり硬いね。頭の皮膚は、畠の土と同じでよく耕された畠には作物の成育がいいが、硬く踏みかためられた畠では、植物も育たないや。長年客の頭をいじっているからよくわかるが、頭の皮膚の硬い人は禿げるんだ」  と、佐治は断定的な口調で言うと、再び鋏の音をさせはじめた。  圭一は、佐治の頭をながめた。少年時代眼にした佐治は、豊かな髪をオールバックにしていたが、今は無残にもその面影はなく、頭には生毛《うぶげ》のようなものしか生えていない。 「それじゃ、あんたの頭の皮膚も硬いんだね」  圭一は、笑いながらたずねた。 「もちろんカチンカチンだ。コンクリートみたいに硬い。こんな毛でも健気《けなげ》に生えるものがあるかと思うと涙が出るよ」  と言って、佐治は細い櫛《くし》を手にすると、なれた手つきで赤ん坊の生毛のような薄々とした毛をなぜた。  佐治は鋏を鏡台の前に置くと、圭一の後頭部の頸筋に剃刀を当てはじめた。 「禿菌というものがありそうな気がするな」  と、圭一は言った。 「なに? 禿げる菌かね」 「そうだ。おれの頭髪が薄れるきざしをみせはじめた原因は、どうもあんたにあるような気がする。あんた以外に頭を刈ってもらったことがないことから考えて、あんたの頭髪を侵蝕した菌が、いつの間にかおれの頭にもうつったようだ」 「ひどい言いがかりだ」  佐治は、笑った。  学生時代、名は忘れたが遺伝学者の書いた随筆を読んでいるうちに思わず笑い出したことがあった。それは、禿が遺伝か否かという項目の叙述で、禿頭《とくとう》の筆者が頭になにかの拍子でかすり傷をつくった時、その傷をみた口の悪い友人が、 「毛のない頭に、ケガあった」  と、冷やかしたという。  禿頭は、笑いの対象になる。その禿頭になるのかと思うと淋しい気もした。  しかし、圭一は、贅沢をいうなとも思った。結核の手術前は、あと五年、つまり二十五歳までは生きたいと願った。そして、手術を受けた時は、これほどの苦痛に堪えたのだからせめて三十歳までは生きたいと思った。  かれは、現在二十八歳になっていた。願望は一応果されたも同然で、たとえ頭髪がどのようになろうとも、生きながらえているだけでも感謝しなければならぬ身であった。 「そうだ、圭一さん以外に私の店へ通ってきていた越ケ谷の老人ね、この二カ月ばかり姿を現さないんだ。病気になったか、もしかすると死んだのかも知れないね」  佐治が、熱いタオルで頸筋の石鹸の泡をふきながら言った。  整髪し、新調の背広を着て、圭一はアパートの自室にもどった。  ドアをあけ半畳ほどのたたきで靴をぬいだかれは、食卓の上にスキヤキの材料がのっているのを眼にし、顔をしかめた。  スキヤキの材料をそろえて春子が自分の帰宅を待っていた意味が、かれにはすぐに理解できた。  一昨日、かれの執務している企画室に社長が入ってくると、 「君の月給を今月から二万二千円にする」  と、言った。  突然の話に圭一は返事もできず、社長の笑みをたたえた顔を見つめた。急に恥しさが、体中にひろがり、顔が赤く染まるのを意識した。  なぜ羞恥を感じたのか、かれ自身にもわからなかった。ただ社長が金額を口にしたことに恥しさの原因があることだけはたしかだった。 「そんなにいりません。今までの月給で結構です」  圭一は、甲高い声で答えた。  社長は、呆れたように圭一の顔に眼を据えた。やわらいだ表情は、消えていた。 「君の兄貴も変っているが、君も変っているね。私は初任給を二万円にすると言ったのだが、君の兄貴は一万五千円でいいと言ってきかなかったのだ。価値があると思ったら、昇給してやってくれと言ってね」  社長は、こわばった表情で言った。  社長は、ソファーに腰を下すと、 「二万二千円では、少ないと思っているのかね」  と言って、煙草にライターの火を近づけた。  圭一は、自分が誤解されていることに気づき、 「まだ私は入社してから一年もたたぬのに、そんな大幅の昇給をしていただくのは不自然だと思うのです。今の月給で満足していますので……」  と、答えた。  しかし、かれは、その答えが誤解をとくには不十分であることを知っていた。と同時に、これ以上言葉をならべても自分の真意はつたえられないことにも気づいていた。白けた空気が、部屋の中にひろがった。 「ともかく昇給の件はつたえたよ」  社長はソファーから立ち上ると、外出すると言って部屋を出て行った。  その夜、アパートに帰った圭一は、春子に昇給のことをつたえたが、 「おれは不愉快だ」  と、言った。 「なぜ。ありがたい話じゃないですか」  春子は、けげんな顔をした。 「金の額を口にしたりするからだ。昇給するなら、昇給した旨を記した紙片を月給袋に入れて渡してくれればいいんだ」 「あなたを少しでも早く喜ばせようとしてくれたんでしょう。それがなぜ不愉快なの」 「金額なんかを口にすべきではない」 「それじゃ、いくら昇給したかわからないでしょう」  圭一は、春子の言葉に口をつぐんだ。男の考えることは、女にわからぬ。これ以上言葉を費しても、春子に理解されそうもない。  ……スキヤキ料理は、昇給祝いのためにちがいなかった。  スキヤキの煮える匂いが、せまい部屋の中にひろがりはじめた。  圭一は、食卓の前に坐ると飯のくるのも待ちきれずに牛肉を口に入れた。 「なぜ今夜は、スキヤキにした」  圭一は、春子の顔も見ずに非難するように言った。 「昇給祝いのためだろうと言いたいんでしょう。そうじゃないわよ。あなたの帰宅は毎晩十時頃で、一緒に夕食をとれるのは土曜日の夜ぐらいじゃないですか。それだからスキヤキでもと思っただけよ」  春子は、平然とした口調で答えた。 「とぼけるな。昇給おめでとうと言いたいんだろう」  圭一は、飯を頬張りながら怒声をあげた。 「ああ、あなたは遂にわからない人なのだわ。とんでもないことで怒るのだから……。あなたの頭蓋骨の中の、憤りの発する部分の脳組織を顕微鏡でとくとしらべてみたいわ。昇給したからって怒る人が、この世の中にいる?」  春子が、呆れ果てたように言った。 「金額を社長が露骨に口にするからだ」  圭一は、箸を動かしつづける。 「それがなぜいけないのよ。そんなことを言ったら大蔵大臣はどうするの。予算額をきちんとした数字で発表しているじゃないの」 「政治家とおれとはちがう」  圭一の苛立ちは、増した。  夫の中には、妻と口|喧嘩《げんか》をして食卓をひっくり返す者が多い。しかし、圭一はいくら腹が立ってもそんなことをする気持は毛頭ない。もしもそのようなことをすれば、さぞ溜飲もさがるだろうが、食事を中断しなければならなくなる。  かれには、終戦前後の乏しい食料事情の記憶が深く刻みこまれている。それは、昼食をとれば夕食は、夕食をとれば明日の朝食はと、どのような食物をどれだけ口に入れることができるかを不安に思う日々であった。しかも、両親をすでに失っていたかれは、兄の家に居候していて、たとえ兄夫婦が親代りになってくれていても落着いた気分にはなれなかった。  食事をとれる時には、その機会をのがさず必ず胃の腑におさめておく。そうした物悲しい思いが習性化して、たとえ感情が苛立っても食卓をひっくり返すことによって食事を中断するようなことはせず、食物を口に運ぶのだ。 「でも、本当のことを言うと、私はあなたの月給が昇給して嬉しいわ。子供も来年二月には出産予定だし、その費用も今から用意しておく必要があるのだから……」  春子が、鍋に具を加えながら言った。  圭一にも、むろん昇給は願ってもないことだった。が、社長のそれを自分につたえた方法が癇《かん》にさわるのだ。  食事を終えたかれは、茶を飲み干すと洋服ダンスに背をもたせかけ、 「ああ、疲れた」  と、息をついた。  その瞬間、かれは春子の顔をうかがった。食事をした後「疲れた」という言葉をもらすのがかれの癖で、春子はそれを可笑しいと笑う。 「なぜそんなに疲れるほど一生懸命食べるのよ。日本国中に食物があるのだから、気を落着けて食べなさい」  その夜も、春子は呆れたように笑った。 [#改ページ]    一族団欒のこと  翌日は日曜日であったが、睡眠時間の少い圭一は、いつものように午前七時に起きると机に向かった。そして、午前中一杯小説の下書きをつづけた。  昼食をとった圭一たちは、外出の支度をはじめた。三兄が家を新築し、その家で亡母の法事をすることになっているのだ。  圭一は、匆々《そうそう》に身仕度をととのえたが、春子はタンスの抽出《ひきだ》しを開けたりハンドバッグに小物を入れたりしてあわただしく動きまわっている。かれは、部屋の戸締りをし、たたきにおりて靴をはくと、 「まだかよ」  と、苛立った声をあげた。 「そんなにせかせないで。男と女はちがうのよ。鳥が飛び立つように外出はできないわ」  春子は、靴下をはきながら言った。  圭一は、堪えきれなくなってアパートの外に出た。  たしかに男と女がちがうものであることを、圭一は春子との生活でつくづく思い知らされてきた。まず簡単な理屈が、春子には通じない。例えば4掛ケル2ハ8ではないかというような理屈を口にすると、4割ル2ハ2であるという突拍子もない答えが返ってくるようなものだ。いや、おれは掛け算をしたのだから8だと言えば、この場合は割り算をすべきでその答えは絶対に2であると主張し、答えは常に食いちがう。  圭一がなに気ない言葉を口にすると、春子は突然涙ぐんで、 「そんな荒っぽい言葉は、父からもされたことがないわ」  と、顔を伏せる。  圭一は男兄弟のみの中で生れ育ったのでたしかに会話は荒っぽいが、それは親しみの表現でもあり、それが三姉妹の真中に生れた春子には車夫馬丁の類《たぐ》いの喧嘩言葉とでもきこえるらしい。  かれは、春子が外出時にもたつくのも、女が男とは別種の生き物であるからだと思う。  春子は、一度も早目に外出の仕度をととのえたことはなく、常に圭一の方が時間を持て余す。結婚以来外出は数知れないが、その度に春子の仕度がおくれるということは尋常ではない。男女は同じ人類であるとは言っても、このこと一つをとっても全く別の生き物であるとしか思えなかった。  或る時、圭一がそのことを激しくなじると、 「あなたにワイシャツや靴下を出して身仕度してあげるのは、私よ。カウボーイをみなさい、まず馬の手入れをしてから、身仕度をするでしょう。カウボーイのおくれるのは当然よ」  と、春子は言った。また或る時は、表現を少し変えて、 「猿まわしは、まず猿にチャンチャンコをつけてから身仕度をするじゃないの。私は、猿まわしよ」  と、圭一をあたかも猿の如くに言った。  妙な比喩をする女だが、それが突拍子もないことなので怒る気にもなれなかった。  それに圭一は、父母のことを思い出して、いつの世でも、人間というものは変りがないものらしいと、そうした春子に半ば諦めの感情もいだいていた。母も外出仕度が常におそく、短気な父は腹を立てて家を出て駅に行ってしまう。旅行する折りに、一列車先に乗っていってしまったことすらある。 「出掛けるぞ」  圭一は、アパートの外で声をあげると駅の方へ歩き出した。  兄の家へつくまでに、圭一は春子と些細な諍《いさか》いを二度した。  新宿までくると、春子は手土産を買いたいと言った。 「兄の家へ行くのにそんな他人行儀なことは不必要だ」  と、圭一は言ったが、 「あなたはそれでいいかも知れないけど、私は嫁の身だからそうはいかないの」  と、強硬に主張し、駅から出るとかなり高価な和菓子を買った。  さらに浦和の駅につくと、春子はタクシーを拾おうとする圭一を制して、 「バスに乗りましょうよ」  と、言った。彼女は、分不相応だと言うのだ。  たしかに春子の言う通りにちがいないが、圭一は、時にはタクシーに乗ったり、列車の三等車を避けて二等車に乗ったりしたい。懐中ばかり気にしたりすることはせず、その時々に応じて自由に振舞いたいのだ。  圭一は、春子をにらみつけるとタクシーを拾い、乗りこんだ。  三兄の新築した家は、市の郊外の神社裏にあった。弟から何度かあった電話で、兄が坪千三百円で千坪購入した土地に延面積九十坪の二階家を建てたという話をきいていたが、坂を上った高台の広い敷地には鉄筋コンクリートの家が建っていた。  家に入ると、長兄や弟がそれぞれ妻を伴って居間に集っていた。 「妙な匂いがしないかね」  次兄が、いたずらっぽい眼をして言った。  圭一も春子も、頭をかしげた。 「なにか田舎へ行ったような」  次兄の言葉に、弟たちの眼には笑いの色がうかんだ。 「そう言われれば、農村の田んぼ道を歩いているような匂いがする」  圭一は、あたりを見廻した。 「そうでしょう。驚いたことに、この家の庭にはこやしが一面に撒《ま》かれているのだ」  次兄が、ガラス戸越しに庭に眼を向けた。 「まだ匂いが残っているかね」  家の主である三兄が、部屋に入ってくると、笑いながら言った。  三兄は、二カ月ほど前オーストラリアに羊毛の買付けに行ったが、その留守に、農村出身の従業員が庭土を肥えさせる必要があると三兄の妻に進言して、市の衛生車をまわしてもらい糞尿《ふんによう》を庭に撒いたのだという。  次兄の説明に、三兄の妻が口をはさんだ。 「だって、庭に肥料を撒くと言ったので化学肥料かなにかかと思ったのよ。まさかそんなものを撒くなんて思わなかったわ」  三兄の妻は、はじけたような笑い声をあげた。 「ところで、この家の主は、その従業員を大いにほめて金一封を贈ったというのだ。実に泣かせるじゃないか」  次兄が、おどけたように言った。 「それはそうさ、さすがのおれでも糞尿を庭一面に撒く勇気はないよ。よくぞやってくれたと、礼を言ったのさ」  と、三兄は笑った。  弟は、運がつくから縁起がいいと言い、次兄は、 「昔、石上宅嗣という人が日本最古の図書館を作ったが、その名を芸亭《うんてい》と称した。庭に書庫でも建てたら芸亭という額をかけるといい」  などと言い、座はにぎやいだ。  長学寺の僧が、居間に入ってきた。 「坊さん、ばかにおそいじゃないか。肝腎のあんたがこないんで、今日の法事はとりやめにするかと言っていたんだ。又、どこかで一杯ひっかけて法事を忘れたのかと思っていた」  十分ほど前にやってきた長兄が、冷やかすように言った。 「ばかをぬかすな。坊主が、お布施をもらえる法事を忘れてたまるか」  僧は、仏壇の前に坐った。 「坊さん、片方の眼鏡のつるが大久保彦左衛門みたいに紐になっているけど、酔ってころんでとれちゃったんじゃないの」  弟が、可笑しそうに言った。 「ころんだりなどするか。お前たちのお布施の料が少いから眼鏡も新しく買い代えられないんだ」  僧は、法衣を着ながら言った。 「全くへらず口をたたく坊主だね。ああ言えばこう言う、こう言えばああいう。家を新築したのだから、少しはまわりを見てくれたっていいじゃないか」  三兄が言った。 「ばか言うな。おれはお経をあげにきたんだ。お経が終ったら、みてやるよ」  僧は、圭一たちを振向きもせずに言った。  長学寺は、富士山麓の永久雪の融水が随所に湧き出ている村にある。長兄は十代目だが、二代目の先祖が小さな寺をつくり、子供の一人を僧にした。つまり一族のみの小寺で、僧も世襲で親戚《しんせき》の間柄になっている。僧は多才な男で、戦時中は地方紙の論説委員になっていて終戦後追放になり、現在は高校の国語教師を兼ねている。  圭一の父母が健在の頃、僧は、上京しては圭一の家に十日ほど滞在することがしばしばだった。無類の酒好きで、父の後について夜の町へ出掛けたりした。そんな僧を、母は、 「仕様がない坊さんだね。あたしの死後、あんたのような人にお経をあげられては成仏もできそうにない」  と言って、苦笑していた。僧は、圭一の父母に甘えているようだった。  母が死んで葬式の終った夜、僧は酒を飲み、母の遺骨の前に坐って小唄や都々逸をうたった。そして、それがすむと美しい声で物につかれたように読経をつづけていた。  圭一が手術を受ける前に、僧が一人で病室へ見舞いにきたことがある。その頃圭一の病状は最悪の状態で、結核菌が腸をおかして体重もわずかに九貫五百匁(三十五キロ)に激減し、内科医から半年の命と断定されていた。  僧は、枕元に坐ると、 「圭一ちゃん、お葬式はいやだぜ」  と、言った。  思いがけぬ病気見舞いの言葉に、圭一は、咳《せ》きこみながら笑い出した。しかし、僧は真剣な表情で圭一の顔をのぞきこんだ。 「おれは、人の死に立会う商売だ。遺族の泣き悲しむ中でお経をあげねばならぬ身だ。あんたのお婆さんやお父さん、お母さんの死はまだいい。しかし、戦死したあんたの兄さんやあんたのような若い奴の死に立会うのは、辛《つら》いんだ。若い奴は、死んじゃいけない。葬式をだしちゃいけないんだ」  僧の眼に光るものが湧いていたのを、圭一は今でも記憶していた。  仏壇のおかれた部屋に、座ぶとんが敷きならべられた。  僧は、圭一たちが正坐するのを見とどけてから読経をはじめた。  圭一は、死んだ家族のことを思い出した。四歳の時に三歳年上の姉が死んだ。小学校に入学したばかりの姉の死を、母は長い間嘆き悲しんでいた。それから五年後に父の母である祖母が死んだ。当時としては高齢者である七十四歳で死を迎えたので、通夜、葬儀、納骨にも沈んだ空気はなかった。  しかし、その五年後に中国大陸の戦場から伝えられた兄の戦死は、圭一たちに深い悲しみをあたえた。気の優しい兄だったが、兄は決死隊員を志願し左胸部貫通銃創を受けて即死し、その戦死の状況と二階級特進が新聞に報じられた。  その頃、母はすでに子宮|癌《がん》の宣告を受けていて、兄の死を悲しみながら二年後に死んだ。またそれを追うように翌年父も死んだ。死が相つぎ、葬儀と法事が入り乱れて、僧はその度にやってきた。もしも圭一が死亡していたら、さらにそれらの催しは一層複雑さを増していたにちがいなかった。  僧の声は渋く、はりがあった。僧にうながされ長兄から焼香をはじめ、それが終ると僧の読経は長々とつづけられた。  読経がすむと、僧は法話をはじめた。「父母恩重経」を口にしながら生死の定めがたいことを説く。そして、南無妙法蓮華経を唱和して、僧の声はやんだ。  圭一たちは、僧に深く頭をさげ、膝をくずした。その瞬間から、僧はただの親族の一人になった。 「おい、長学寺の坊さんに酒だ」  三兄が、台所の方に声をかけた。  僧は、法衣をたたむと座卓の前にあぐらをかき、コップに銚子の酒を注いだ。そして、うまそうに口をつけると、 「寺のな、屋根を修復する必要があるんだ。九月の台風で屋根|瓦《がわら》が五枚もとんでな、この機会に手入れをしたいんだ」  と、言った。 「またかね、屋根瓦の五、六枚とんだからってどうということもないだろう」  三兄が、おどけたように顔をしかめた。 「勿体《もつたい》ないことを言うな。お前はこんな家を新築したが、家よりも寺の方が大事だ」  僧の言葉に、兄は笑った。  酒が入って、座が一層にぎやかになった。  三兄の妻の兄——義兄が、次兄と仕事のことを熱心に話している。  義兄は戦時中大本営陸軍部の若い少佐参謀で、暗号作成・解読を担当する部門に所属していた。  数学の才に恵まれていたが、戦争後は次兄の仕事と関係のある梳毛糸《そもうし》、紡毛糸を取扱う商社を経営している。が、会話には旧軍人の言葉づかいが残っていた。 「羊毛相場は下落傾向にあり、当然相手は全面攻勢に出てくる。それをこちらとしては一応やりすごし、機をみてこれを断乎側面からたたく。それが私の判断では最善の策だと思うがね」  などと、義兄は背筋ののびた姿勢で力説している。  圭一は、ひとりで杯を重ねていた。  嫂《あによめ》と春子が、盆に銚子をのせて部屋に入ってきた。そして、嫂が圭一の前に銚子を二本置くと、 「あなた、昇給したことが理由で春子さんと喧嘩をしたんですって。うちの人も変なことで怒るけど、あなたはうちの人にもっと輪をかけているわ。またあなた、怒って春子さんを川に投げこんだんじゃないの」  と、のぞきこむような眼をして言った。 「そんなこと、しませんよ」 「そうかしら。春子さん、今度は川へ投げこまれなかった?」  嫂は、春子の方へ顔を向けた。 「大丈夫です。今度は投げこまれませんでした」  春子が、明るい声で答えた。  今のアパートに引越して一週間ほどたった或る夜、圭一と春子は些細なことで口喧嘩をした。怒った春子が、外へ出て行った。  二十分もたっても帰ってこないので、圭一が外へ出て捜してみると、畠の中を流れる小川のほとりで春子が立っていた。圭一は、無性に腹が立って春子を小川の中に突きとばした。それを、春子はいつの間にか嫂に伝えたらしい。 「おい、おい、物騒な話をしているじゃないか」  僧が、身を乗り出してきた。  兄や弟たちも、話をやめてこちらに顔を向けた。 「春子は話を誇張しているんですよ。川といったって二メートルぐらいの幅で、深さは十センチもない踝《くるぶし》がようやくひたるくらいの流れなんですから……」  圭一は、笑いながら抗弁した。 「よし、よし。それではおれが被告、原告双方を訊問する。春子は、夫婦喧嘩をして腹を立て、小川のほとりに行ったのだな」  長兄が、まじめ腐った表情でたずねた。 「そうです」 「なぜ、川のほとりに行ったのかね。入水するつもりだったのか」 「浅い流れですから、それは不可能です。水がきれいなので、涼んでいました」 「怒りはすでにしずまっていたのか」 「はい、そうです」 「そこへ圭一が来たのだな。なぜ来たと思ったかね」 「心配して来たのだと思いました。連れて帰ってくれると思ったのに、いきなり川に突きとばしたのです」  春子が、笑いをこらえながら答えた。 「それはおかしい。それでは被告にきく。被告はなぜ原告を突きとばすような行為に及んだのかね」 「夜、女が小川のほとりに立っているなんて危いじゃないですか。なんという思慮のない奴だと急に腹が立って、肩を押したんです。突きとばしたなんて大袈裟《おおげさ》ですよ、春子はよろけて小川の底に膝をついただけなんですから……」  圭一は、照れ臭そうに笑った。 「すると心配の余りの行為というわけか。それは理解できぬこともないが、一応精神鑑定の要がありそうだ」  長兄の言葉に、僧たちは笑った。  実家《さと》のない女房は井戸でこわがらせ  という古川柳がある。川のほとりに立っている春子を眼にした時、圭一はふとその古川柳を思い起した。両親もなく実家のない春子が、江戸の女が井戸のふちに立って夫をおびえさせたと同じように圭一に対する威嚇《いかく》のようにも錯覚したのだ。 「おまえたち夫婦が喧嘩をした時は、常に圭一が悪い。それはおれたちがよく知っている。圭一のような変った男のところに嫁にきてくれて、誠に申訳ない」  と、長兄は春子に頭をさげた。 「そうだ、おれも同感だ」  三兄も、おどけたように畳に手をついた。 「ひどい話だな、一方的じゃないですか」  圭一は、杯をかたむけた。  春子は、兄や弟や嫂たちに評判がいい。それに兄たちは、貧しい圭一のもとに嫁してきた春子に申訳ないとも思っているのだ。 「ところで二人とも、小説は書いているのかい」  僧が、まじめな表情をしてたずねた。  圭一は、うなずいた。 「長学寺、二人とも一生懸命に書いてはいるがね、春子の小説の方が格段にいいんだ。圭一のものは、あれはなんだい。骨だとか死体だとかそんなことばかり書いている。薄気味悪くなるよ」  学生時代に同人雑誌をやっていたことがある三兄が、大袈裟に顔をしかめた。 「そう言えば、圭一君の小説には骨がよく出てくるな。なぜかね」  僧が、圭一の顔をのぞきこんだ。 「さあ」  圭一は、曖昧な笑いを顔にうかべた。 「それはね、坊さん。兄貴が手術で肋骨をとられたからですよ」  弟が、解説するように言った。  たしかに弟の言うように骨を書くのは、手術を受けたからなのだろう。少年時代からかれは小説を書こうなどという気は、全くなかった。映画監督や造船技師や考古学者などになろうと夢みたこともあるが、旧制高校に入学後は大学で美学を専攻しようと将来の希望もかたまっていた。  それが、病床に臥し、やがて手術を受けたことによって、かれの考え方は一変した。少年時代から読書は好んでいたが、文学書に読書傾向が集中し、いつの間にか小説を書くようにもなったのだ。  大学を中退することを三兄に報告に言った時、兄は、 「お前は手術を受けた身だし、将来どうやって暮しを立ててゆくつもりなのだ」  と、言った。  兄は、大病をわずらい辛うじて健康をとりもどした圭一の将来を気づかって、労力を必要としない商店でも開いてやりたいと口癖のように言っていた。実際は労力を必要とするのかも知れないが、カメラ店、茶商、書店などが候補にあがった。 「小説を書きつづけたいと思っています」  圭一が、思いきって言うと、兄は、 「お前は頭がどうかしている。そんな夢のようなことは考えず、地に足をつけて将来を真剣に考えろ。人の暮しなどというものは、もっと地味なものなのだ」  と、呆れたように言った。  圭一も、小説を書くことによって暮しがたつなどということはほとんどないことを知っていた。むしろ小説を書くことによって生活は、激しく圧迫されるにちがいない。しかし、小説を書くということを除いたら、自分にはこの世に生きる意味がないと思っていた。それは、ただ一つの自分を支えてくれる脊骨《せぼね》のようなもので、手術によって死をまぬがれた肉体もそれに捧げてこそ意義があるのだと、自らに言いきかせていた。 「ところで、圭一ちゃんはどこに住んでいるんだね」  僧が、たずねた。  圭一は、住んでいる東京郊外の町の名を口にした。 「地価はどのぐらいだ。家の敷地は何坪あるんだ」  僧が、立膝をつきコップにみたした酒を飲んだ。  圭一は、当惑した。地価は知っているが、そんなことは圭一に関係ないことだった。六畳一間のアパート住いなのだから三坪の土地の上に起居している計算になるが、僧の質問はもちろん別のことをさしている。 「和尚さん、圭一さんたちはアパート住いなんですよ」  嫂は、東京の神田生れらしい屈託ない口調で言った。 「驚いたわ、私。近くに行く都合があったので、その帰り道に圭一さんのアパートに寄ったんですよ。ところが六畳の部屋には家具ばかりで、やっとの思いで坐ることができたほどなんです。もっとも私が太っているからかも知れないけど……」  嫂は笑いながら言ったが、その眼には同情の色がうかんでいた。  居間に、沈黙がひろがった。僧は、釈然としないような表情で酒をのんでいる。三兄は大きな家を新築したというのに、その弟が坐る場所もないような部屋で暮していることが、僧には理解できぬにちがいなかった。 「和尚」  三兄が、沈黙を破った。 「誤解しないでもらいたいがね、おれたちがこいつの面倒をみないわけじゃないんだから……。こいつが自分でそういう生活を好んでしているんだ。無類のひねくれ者でね、病気をしてから、すっかり人が変ったんだ」  兄が、吐き捨てるように言った。 「大学に復学してからも、病気上りのよたよたした体で家庭教師を三軒もやって。それで学費をひねり出そうとしたって限度がある。それで中退したんだが、その間学費を出して下さいなどとは一度も言いに来ないんだから……」  兄の声は、激した。 「結婚すると言うんでおれの会社に勤めさせたら、式の数日前にやめてしまうし。それから春子を連れて北海道くんだりまで一年近くも行商のまねごとのようなことまでしやがって。今は会社勤めをして落着いているが、坐る所もないような部屋に住んでいる。なあ、兄さん、小さな家を建てたいからなんとかして下さいと言われりゃ、なんとかするよな」  兄が、長兄と次兄に顔を向けた。 「その程度のことはいたします。事業をやっていると余裕の金はないが、保証人になって銀行からでも金を引き出してやることぐらいはできます」  次兄が、落着いた声で言った。 「ところで、こいつはお願いしますとはひとことも言おうとしない。おれたちにあてつけのような生活をしているんだ」  三兄が、腹立たしそうに言った。 「でも、銀行から借りたって返済できませんよ」  圭一は、困惑したように答えた。 「だから言っているじゃないか。なんとかするということは、なんとかしてやるということなんだ」  三兄の眼には、憤りの色がみちていた。  兄の怒りにみちた声で居間の空気は冷え、台所で起っていたにぎやかな人声も絶えた。 「お前は、質屋通いもしているそうじゃないか」  三兄が、鋭い眼を向けてきた。  圭一は、苦笑した。春子が嫂に言ったのか、それとも生活のすべてを知っている弟が兄たちに伝えたのか。余計な告げ口をと思ったが、事実なのだから否定することもできなかった。 「お前は、いい気持だろうよ。兄貴にも世話になんかなっていないし、自力で生きているんだと思っているんだろう。お前は、それでいいさ。しかし、お前のひねくれ根性の犠牲になっている者がいることを考えたことがあるか。春子が可哀相だと思わないのか」  兄の声は、うるみをおびていた。  圭一は、春子の顔をうかがった。春子は、嫂に笑みをふくんだ顔を向けている。 「なるほど。ひねくれた弟に、面倒をみてやってもいいという兄貴たちか。母親の法事らしいいい話だ」  僧が、仏壇の方に顔を向けコップを傾けた。 「全く春子さんが気の毒よ。本当に驚いたわ、アパートに行ってみて……」  嫂が、溜息をついた。 「春ちゃん、すまないね、こんなひねくれた弟の所へ嫁に来てもらって。なにか相談ごとがあったら来てよ、こいつには内緒でね」  三兄が、春子に優しい声をかけた。 「その節はよろしくお願いします」  春子が、おどけたように頭をさげた。  座が、再びにぎわいをとりもどした。酒に弱い兄や弟たちは顔を赤く染め、圭一と僧は黙って酒を飲みつづけた。  日が傾き、庭に夕闇がひろがりはじめた。僧は三兄の家に泊ることになり、圭一たちは席を立った。  圭一たちは、三兄の会社の車で駅まで送ってもらった。  圭一は、切符を買って春子とホームにあがった。そして、ホームのはずれのベンチに並んで腰を下した。 「今日は、やられたな」  圭一は、頸筋をかいた。三兄に激しい言葉を絶え間なく浴びせかけられたが、後味は悪くなかった。 「お兄様たちからみると、あなたは可愛気のない弟なのよ」  春子の言葉に、圭一は、 「そうかも知れないな」  と、素直に答えた。  二人は、しばらくの間口をつぐんでいた。 「兄貴の言う通り、おれは少しひねくれているのかも知れないが、おれは生れてくる子供のことも考えているんだ。子供が物心ついて、兄貴たちの息子や娘から、あんたの父親は私たちの父母に金銭的な面倒をみてもらったのだ、などと言われたら、可哀相だろう。そんなことを言われぬためにも肩肘《かたひじ》はって暮してゆきたいのだ」  圭一は、駅前に立ちならぶネオン看板の点滅に眼を向けている春子に言った。  春子が、吐息をついた。 「遺産は受けなかったのだから少しは面倒をみてもらってもいいという考え方もあるけど、そんなことを考える人でも困るし……。まあ、あなたのいいようにしなさい。ひねくれた亭主が、私には合うのかも知れない」  春子の顔には、ネオンの光が変化しながら反映していた。  年が、明けた。  大|晦日《みそか》の夜は、ラジオで除夜の鐘の音をきいた後、近くの神社へ初詣《はつもう》でに出掛けることを少年時代からの習わしにしていたが、あいにくその町には神社がなかった。  かれは、未練気に外へ出てみた。冷気が、かれをつつみこんだ。遠くで寺院でうつのか鐘の音がかすかにきこえてきたが、それは近くの家のラジオからもれる除夜の鐘の音かもわからなかった。  一月二日は年始まわりの日なので、兄たちの家をまわり、春子の姉夫婦の家へも新年の挨拶に行った。  少年時代、年始まわりの日は路上を人々が往き交った。いつも前掛け姿で働いている米屋の主人などの商人が、袴をはき、小僧をつれて鹿爪《しかつめ》らしい顔つきで挨拶にくるのがいかにも年改まった感じで興味深かった。年始客の中には、家に上りこむ者も多く、部屋の襖《ふすま》をはらって設けた席で、父をとりかこんだ酒宴がにぎやかにくりひろげられた。  そうした光景は、すでに遠い記憶になってしまったが、圭一は、最小限年長者である兄たちへの新年の挨拶を欠かしたくはなかった。  春子の姉夫婦の家には、春子の妹夫婦も来ていてビールや洋酒の瓶がならんでいた。  圭一が、洋風の居間に入ってゆくと、 「よお、蜂須賀《はちすか》小六、来たな」  と、酔いに顔を赤く染めた姉の夫——義兄が立ってきて、圭一の手をなま温い手でにぎった。  義兄は、著名な船会社の営業課員で、春子の妹を同じ会社の技術関係の社員にとつがせた。つまり春子の姉と妹の夫は、同じ会社の先輩後輩の仲なのだ。  義兄の家は、祖父まで代々関西の神官であったと言い、春子の妹の夫は、船舶業界に功績のあった実業人を父にもっている。二人とも気さくな人間だが、圭一たち兄弟の言動には特殊な印象をいだいているらしく、 「まるで野武士の群れのごとくだ」  という義兄の表現が発展して、酔うと圭一を、蜂須賀小六などと呼ぶ。  また時には、肺結核という既往症がありながら酒もかなり飲む圭一を平手造酒といったり、どういう理由からか机竜之助と呼ぶこともある。  春子が、圭一の兄の新築した家の庭一面に糞尿がまかれてある話をすると、義兄は眼に涙をにじませて笑い、 「いかにもあの兄さんのやりそうなことだ」  と、息をあえがせた。  義兄は、職務柄三兄の会社でオーストラリアから買付けた羊毛の船積みに関係したこともあって、兄の会社にも出掛けたが、その折り、兄の行為にかなり驚いたらしい。  丁度、新しい工場が建てられている時だったが、それは旧海軍航空隊の格納庫を買い求めて組立てられていたものだった。 「旧海軍のものだから頑丈で、しかも不用のものになっているから価格も安いというのだ。突拍子もないところに眼をつける人だ」  と、義兄は言った。 「それにな、大きな工場の建設なのだから普通なら何十枚もある設計図をもとに作るのだが、ただ一枚のベニヤ板に墨で略図が書かれているだけなんだ。それを手がかりに東北地方の季節労働者たちが作っているんだ。おれは本当に驚いたよ」  義兄は、嘆声をもらした。  義兄に初めて会ったのは、圭一が大学生の頃だった。  その日、春子を家に送っていった圭一は、春子の姉のすすめで家に上り夕食を御馳走になった。そして、一時間ほどして帰ろうとした時、義兄が会社から帰宅した。  恋人である春子の父親代りをしている義兄に会うことは、圭一にとって恐しかった。義兄の、男としての眼が恐しかったのだ。  居間に入ると、義兄は大きな仏壇を背に坐って茶をのんでいた。圭一は、体をかたくして挨拶をしたが、義兄は屈託ない口調で応対してくれた。  その時の態度が気に入ったのか、義兄は圭一と春子の結婚に積極的に賛成してくれたということを、後になってきいた。  春子の家に行って、初めて春子の姉と妹がかなり目鼻立ちの整っていることを知った。そして、春子の妹の結婚式に出席した圭一は、披露宴のスピーチでそのことにふれ、 「私は不覚にも、三姉妹という三枚のカードのうち、まん中のババを引きぬいてしまい、今になって甚だ後悔しております」  と、酔った勢でしゃべってしまった。  圭一は、酔いがさめるとまずいことを言ってしまったと深く後悔した。春子をトランプのカードのババであると、多くの人々の面前で公言したことが、春子を激怒させると思ったのだ。  しかし、春子は、帰りの電車の中で、 「よくもババ扱いにしたわね」  と、圭一をにらんだが、別に機嫌をそこねた風もない。  圭一は、極度に警戒しながら春子の表情をうかがっていた。女性は、容貌《ようぼう》について少しでも悪しざまに言えばたけり狂ったように怒るものだ、と圭一は思いこんでいた。それだけに、春子が憤怒を胸にひめているようで落着かなかった。 「おかしな冗談を言っちゃったよ」  圭一は、不安に堪えきれずさりげない口調で言った。 「そんなことはないわ。私は、幼い時から姉妹の中で容貌が最も劣っていたのよ。殊に姉さんはきれいだったから影がうすれて大分損をしたわ」  と、春子はさりげない口調で答えた。  圭一は、油断は禁物とそのまま口をつぐんだ。その後も春子はババと言われたことに腹を立てている様子もなかった。  かれは、あらためて女の不可解な心理状態を思った。春子は、自分の容貌を悪しざまに表現されても、肉親をほめられたことが嬉しいらしい。その時から、圭一は、いかなることがあろうとも妻の肉親や親族を批判することがきわめて危険だということを身にしみてさとった。  圭一もウィスキーを飲み、義兄や春子の妹の夫と何度も乾杯した。 「春子、あと一カ月よ。余り出歩かない方がいいんじゃないの」  春子の姉が、眉をひそめた。 「そうね」  春子が、低い声で答えた。その顔には、妹らしい素直な表情がうかんでいた。 「そうだ、春子は子供を生むんだな。素晴しい子を生めよ。新しく生れる子に乾杯だ」  義兄の声は、すっかり呂律《ろれつ》が乱れていた。 [#改ページ]    父親意識のこと  春子は、定期的に渋谷の日本赤十字病院に通って検診を受けていた。そして、鳥が巣籠《すごも》るように、部屋の中でひっそり過していた。  圭一も春子も両親はいないので、春子は一人で出産の準備をととのえていた。病院の指示と春子の姉から送られてくる手紙を手がかりに、おむつや生れてくる子の下着、衣類、ふとんなどを用意していた。春子は、婚約前、子供をうむのはいやだと言った。それがいつの間にか妊娠し、出産を迎える身になっている。 「子供を産むのはいやじゃないのか」  圭一は、後めたい思いで、小さなガーゼの下着を縫っている春子にたずねた。 「だって、あなたは子供が欲しいんでしょう」  春子は、針を動かしながら顔もあげずに答えた。 「それはそうだが、どうしてもと言うわけじゃない。強制はしなかったはずだ」  春子が物憂げに顔をあげると、 「強制されたからと言って、子供が産めますか」  と、断定的な口調で答えた。  春子には、なんとなく物に動じない落着きのようなものがにじみ出ている。出産を前に、春子はすでに一人の子の母になりはじめているのかも知れなかった。  それに比べて圭一には、子の父になるという意識は全くと言っていいほどなかった。春子にそんなことを口にすれば激しい怒りを買うことはあきらかだったが、その出産は春子と生れてくる子だけの問題であるようにも思えていたのだ。  そうした傍観者的意識は、かれに春子と胎児に対する罪悪感に似たものをあたえていた。身ごもった春子は肉体的に消耗し、胎児も母体から栄養を吸収して出産の日を待っている。そのように母と子が厳粛な時期を迎えているのに、やがて父となるはずの自分がなんの犠牲もはらわずに日を送っていることが後めたかった。ただ圭一にとってわずかな慰めは、昇給とそれによって増額した年末のボーナスを家に運びこむことができたことで、出産に要する費用に事欠かぬ貯えも準備されていた。  一月下旬に入ると、遅い初雪があった。そして、夜も雪は降りつづき、翌日は積雪十五センチと新聞に報道された大雪になった。  圭一は、レインシューズをはき、雪をふんで会社へ出掛けていった。  その夜、かれは会社の同僚と酒を飲み、辛うじて終電車に乗って部屋へもどった。時刻は、午前一時を過ぎていた。  ドアをノックすると、洋服を着た春子がドアをあけてくれた。その時刻にはいつも寝ているはずの春子が洋服を着ているので、圭一は深夜おそくまで帰らぬ自分に腹を立てて家出する仕度をしていたのではないかと思った。 「なんだ、まだ起きていたのか」  圭一は、平静さを装いながらドアに鍵をかけた。 「それがね、なんとなく変なのよ」  春子が、不安そうに言った。 「なにが」 「体の具合が……」  春子が、頭をかしげ座ぶとんの上に坐った。  圭一は、春子の顔を見つめながら腰を下した。 「体の具合がおかしいって、どこがおかしいんだ」  圭一は、水入れからコップにみたした水を飲んだ。 「呆れた人ね、陣痛よ」  春子の声に、圭一は狼狽した。春子が外出着を身につけているのは家出のためではなく、病院に行こうとしていたことに初めて気がついた。 「そりゃ、大変じゃねえか」  圭一は、酔いも一時にさめる思いで顔色を変えた。 「それがね、陣痛だかどうかわからないのよ。私にも……」  春子が、不安そうな眼を向けてきた。 「なにを言っているんだ。そんな些細なことがわからないのか、女の癖に……」  圭一は、苛立った声をあげた。 「それがわからないのよ。女の癖にと言ったって、生れて初めての経験じゃないですか」  春子は、苦笑した。  圭一は、うろたえた。春子自身にもわからぬとすれば、出産は間近に迫っているのかも知れない。 「よし、とりあえずタクシーを探してくる。病院へ行こう」  圭一は、脱いだばかりのオーバーの袖に腕を通し、立ち上った。 「一寸待ってよ。予定日にはまだ十日以上もあるし、病院へ行って笑われたらいやだわ」  春子が、あわてて圭一を制した。 「笑うのは相手の勝手だ。まちがえて駆けこむ奴は珍しくないはずだ。ともかく行こう」  圭一は、春子をうながした。 「あなたってせっかちな人ね。本人の私がこうやって落着いて坐っているのに、どうかしているわ」 「しかし、肝腎の本人であるお前がわからないんじゃないか」  圭一は、腹を立てて言った。  春子は、黙って坐っている。そして、しばらく思案していたが、 「そうじゃないのかな」  と、悪戯《いたずら》っぽい眼をしてつぶやいた。 「しっかりしてくれよ。いったいどうなんだ」  圭一は、柱を背に腰をおろした。 「夕食をすませた頃から少し痛み出したので、いよいよ来たんだわと思ったのよ。でも、痛むようでもあるし、そうでもないようにも思えるし。今は、痛みも消えた」  春子が、明るい眼をして笑った。  圭一は、不機嫌になってオーバーを脱ぎ、ネクタイをはずした。  ふと、春子と生れる子を哀れに思った。共に両親のない圭一と春子には、出産を間近に控えても身近に相談する者はいない。春子は、かすかな腹痛を陣痛かと思いこみ、ただ一人部屋で圭一の帰宅を待っていた。なんの知識ももたぬ母と頼りなげな父を親として生れ出てくる子供が、はかない運命をもっているように思えた。  寝巻に着かえた春子が、長い髪を編みながら、 「ヘミングウェイの小説に、インディアンの夫が帝王切開する妻の苦しみにたえきれず咽喉をかき切って自殺する短篇があったけど、あなたはそんなことをしそうもないわね。私が臨月だというのに、あなたはいい御機嫌で午前様の御帰館なのだから……。ワタシ、白人信用シナイ」  と、妙な節まわしで言った。  それは、笑いをふくんだ声だったが、春子の冗談半分の言葉は、圭一の胸を刺した。ただ一人アパートで時間をすごす春子は、出産の気配がきざすことを恐れている。むろん彼女は、圭一だけを頼りにし、病院へも圭一に連れていってもらいたいのだ。  その夜から圭一は、急いで帰宅することにつとめた。不安にかられてアパートの外まで足早にたどりつき、ふと赤子の泣声がしてはいないかと耳をすましたこともあった。 「今度はまちがいないわ」  と、春子が言ったのは、幸いにも土曜日の午後十時頃で、むろん圭一は部屋にいた。 「なぜわかる」  前回のこともあるので、圭一は懐疑的だった。 「痛みが波状的にくるし、その間隔もせばまっているからよ。病院で看護婦さんに教えてもらった陣痛と同じなの」  春子は、確信にみちた声で言うと早くも身仕度をはじめた。  圭一はうろたえて、春子の用意しておいたスーツケースを手に、春子とともにアパートを出た。  タクシーの滅多に通らぬ道ではあったが十分ほどするとヘッドライトが浮び、近づくにつれて赤い空車の標識もみえた。圭一は、手をあげ、停ったタクシーに春子とともに乗りこんだ。 「妊婦だから静かにやって下さい」  と、圭一が言うと、運転手はうなずいた。  車が、暗い舗装路を走りはじめた。春子は、黙ったまま遠い人家の灯に眼を向けていた。  やがて車は、シャッターをおろした商店の立ちならぶ街の中に入り、信号機の赤い標識灯にしばしば停止した。そして、静かな一郭に入ると、大きな門をくぐった。  病院の入口に横づけした車から降りた圭一は、春子を連れて夜間受付の前に立つとベルを押した。そして、出てきた女事務員に入院のため来たことを告げた。  女は、うなずくと電話のダイヤルをまわした。  やがて廊下を担送車が看護婦に押されて近づいてきた。そして、看護婦が春子をその上に横たわらせ、再び廊下を引返してゆく。圭一は、スーツケースを手にその後からついて行った。 「御主人は、こちらでお待ちになっていて下さい」  肥満体の看護婦が、狭い待合室をさし示すと、春子をのせた担送車を押して廊下を去って行った。  かれは、待合室に入ると椅子に腰を下した。殺風景な部屋で、壁には静粛にして下さいと書いた紙が貼られているだけであった。なんとなく侘《わび》しい気分であった。ただ待つだけという無用の存在であることが、身にしみて感じられた。  三十分ほどした頃、看護婦がやってきた。 「いかがでしょうか」  圭一は、立ち上った。 「診断では、朝の六時頃だそうですから、このままお待ちになっていてもいいんですが、朝になってからおいでになっても大丈夫ですよ」  と、看護婦は言うと、圭一の手からスーツケースを受けとり、廊下を去って行った。  どこか別の所で夜明けを待つか……、かれは、待合室を出た。  圭一は、病院の外に出ると夜空を仰いだ。寒気はきびしく、星が氷の細片のように夜空一面に散っている。腕時計を星明りにすかしてみると、短針が一時近くをしめしていた。  どこで過すべきか、かれは思案した。アパートへもどっても二、三時間後には再びタクシーを飛ばして引返さねばならぬし、兄の家も遠い。  飲むか、とかれはつぶやいた。新宿には、会社の同僚と数度行ったバーがある。その店は、明け方まで営業しているときいていた。  かれは、道路に出るとタクシーを拾い、 「新宿」  と、行先を告げた。  無性に、気持がはずんでいた。妻が出産するまでの時間を深夜バーですごす思いつきが面白いし、妻に対する後めたさが、ひそかに悪事をたのしむような快感をあたえた。  新宿の通りに面した店は灯を消していたが、露地は客引きの女や酔客でにぎわっていた。その奥は青線地帯になっていて、圭一も何度か女に腕をとられたが、かれは目的のバーのドアを押した。店には、黒人兵が二人ビールを飲んでいるだけで他に客はなかった。 「お一人? 今夜は、ずいぶんおそいんですね」  未亡人と自称している女経営者が、カウンターの椅子に坐った圭一に言った。 「ここは、何時までやっているんだい」  圭一がたずねると、女経営者は、五時までと言った。  かれは、ウィスキーコークを頼み、煙草をとり出した。そして、琥珀《こはく》色の液を口にふくむとカウンターに頬杖《ほおづえ》をついた。  ほのぼのとしたいい気分であった。暗いバーの中には青や赤の淡い灯がともり、洋酒の瓶が灯を浴びて並んでいる。ジャズの旋律が低く店内を流れていたが、それは黒人兵たちの太い声としばしば起る笑い声に消されがちであった。  父となる瞬間までの時間を過すのには、最もふさわしい場所だと圭一は思った。イエス・キリストは馬小舎で生れたというが、わが子は設備の十分にととのった病院で生れる。薄給の身であることから考えて分不相応のことかもしれぬが、妻や子に対する父親としての責任の一端を果したような満足感もあった。  かれは、ウィスキーコークをお代りしながら腕時計の針の動きを何度も見つめた。天体の移動が時計の針の動きに象徴されているようで、かれは夜明けの近づく気配を感じた。  酔客が入ってきては、出て行った。色光に淡く映えた洋酒の瓶の列が、教会のステンドグラスのようにみえ、黒人兵の騒々しい歌声が霊歌のようにもきこえた。  腕時計に眼を向けた圭一は、勘定を払うとバーの外に出た。露地は静まりかえっていて、夜空には冴えた星の光が一面に散っている。  大通りに出ると、道の傍にとまっていたタクシーが動いてきて圭一の前にとまった。 「渋谷の日赤病院」  かれは、シートにもたれると運転手に言った。  タクシーは、車の影もない広い舗装路を勢よく走り出した。  病院についたのは、夜も明けきらぬ五時半すぎであった。圭一は、電灯のともった人気のない廊下を進み、せまい待合室に入った。バーでグラスを十杯近く傾けてきたのに、酔いは全く感じられなかった。  三十分ほど待合室で煙草をすって待っていたが、一度小柄な看護婦が廊下を通っただけであたりは森閑としている。出産は六時頃だと言っていたし、もしかすると子供がすでに生れているかも知れぬと思った。  圭一は、落着いてはいられぬような気持になって、待合室を出ると足音をしのばせて廊下の奥に進んだ。角をまがると、長い廊下がのびていて、両側に分娩《ぶんべん》室という名札のはられた小部屋がならんでいる。  ドアの開いた部屋を恐るおそるのぞいた圭一は、赤い格子|縞《じま》の寝巻を着た女がベッドに横たわっているのをみた。かれは、一瞬立ちすくんだ。分娩室は多いのに、偶然にもそこに妻を発見したことに驚いた。  かれは、部屋に入るとベッドの傍に立って、 「しっかりしろよ」  と、声をかけた。  妻は、圭一に白けた眼を向け、苦しげに低い呻《うめ》き声をあげている。そして、ベッドの枠をつかんでいた手をさしのべてきたので、圭一は、その手をしっかりとつかんだ。インディアンの夫は妻の産みの苦しみを同時に味わうと妻は言ったが、圭一は、自分もインディアンの夫と同じ立場に身を置いているのだと思った。  その直後、隣室との間にあるドアがひらいて、当直らしい若い看護婦が、二人連れ立って入ってきた。  圭一は、春子の手をつかんだまま、 「これは、いつごろ出産でしょうか」  と、たずねた。  看護婦の一人が、 「もうすぐです」  と答え、ベッドの傍におかれたカードに眼を走らすと二人連れ立って部屋を出て行った。  妻は、呻き声をあげながら圭一を見つめている。  かれは、出産ということがいかに女にとって大きな肉体的負担であるかを知った。妻は痩せぎすであったが、ベッドに横たわっている妻は、いつもより肉付きがよくみえた。出産直前なので、むくんでいるのだと、かれは思った。  かれは、自分の手をにぎっている妻の手に視線を落した。細い妻の指にもむくみが出ていて、指のつけ根にえくぼ状のくぼみまでできている。 「辛いだろうが、今に楽になる」  と、圭一は妻に言った。  かれが八年前、五時間五十分にわたる肺結核の手術を受けた時、激痛の中で唯一の救いは時間の経過だった。時間は確実に流れ、やがて激痛から解放される時がやってくるという思いが、かれを支えてくれた。その時と同じように、やがて妻の苦痛もしずまる時がやってくる。  圭一は、妻の顔を見つめた。が、一瞬、かれの頭に錯乱が起った。かれは妻の顔をあらためて凝視した。かれの眼は、妻の右眼の下にすえられたまま大きくみひらかれていた。  意外なことに、ベッドに横たわった妻の右眼の下に大きなホクロがある。圭一は、自分の眼を疑った。大学時代に春子と知り合ってからすでに四年が経過し、結婚してからも二年余がたつ。その間、圭一の知るかぎり春子の眼の下にホクロはない。  かれは、あらためてベッドの上の妻の顔に眼を据えた。  しまった、とかれは思った。寝巻の柄が、妻の用意していた赤い格子縞のそれと酷似しているので錯覚したが、眼前の女は、春子ではなかった。女は、春子と同年齢程度で顔立ちも似ていたが、顔はふくよかで小太りであった。  圭一は、羞恥で体を熱くし、さりげなく手をはなそうとした。が、女は、意外なほどの力で圭一の手をしっかりつかみ、はなそうとしない。  圭一は、狼狽した。  女は、呻き声をあげ、眼球のつり上った眼を圭一の顔に据えながら一層手を強くにぎりしめてくる。苦痛に意識もかすんで、圭一を自分の夫と錯覚しているのか、それとも医師とまちがえているのか、いずれにしても圭一の手をにぎりしめることによって苦痛を幾分でもやわらげようとつとめているようであった。  圭一は、恐怖におそわれた。このまま女に手をつかまれていれば、やがて女の苦痛はさらに増し、指がくだかれるほどにぎりしめられて離れなくなるだろう。そして、やがて眼前で未知の女の体内から胎児が出産する光景をも眼にすることになる。その頃には、医師や看護婦も駈けつけていて、妊婦と手をつなぎ合っている圭一を女の夫と信じ、出産と同時に、 「おめでとうございます」  などと挨拶して、生まれたばかりの胎児を見せるにちがいない。  また十分に予想されることだが、女の夫が現れて、妻とかたく手をにぎり合い出産にも立ち合っている圭一に不審感をいだき、険悪な空気が分娩室にはりつめるだろう。 「私は、ただ通りすがりの者で……」  などと弁明しても、病院の者たちも女の夫も諒承せず、分娩室に不法侵入した不審者として警察に突き出されるかも知れない。  圭一は、そうしたことを予想し、眼の前が真暗になるのを意識した。  ともかくこの手をはなしてもらわねばならない。かれは、渾身《こんしん》の力をこめて手をひいた。が、女は呻き声をあげて手をはなさず、手をつかんだまま半身をもちあげた。恐怖が、さらに募った。このまま手を強くひけば、女が自分に抱きついてくるにちがいなかった。  かれは、顔色を失い、手をひくことをやめて、右手をつかんでいる女の指を一本一本ほぐしにかかった。が、女は、歯をくいしばってそうはさせまいと、はずした指を再びからみつけてくる。かれと女の間で、必死の争いがつづけられた。  やがて、かれの手がようやく女の手からはなれた。その瞬間、女の口から太い呻き声が長々ともれた。  かれは、後ずさりすると部屋を走り出た。手が完全に麻痺していて、指の関節に激しい疼痛《とうつう》が起っていた。  圭一は、廊下の角を曲った。女の苦痛にみちた形相が眼の前にちらつき、かれは逃げるように廊下を引返した。  待合室の前に、分娩室でみた二人の若い看護婦が立話をしていた。彼女たちは、妊婦の手をかたくにぎりしめてやっていた圭一を、妊婦の夫と思いこんでいるにちがいなかった。  圭一は、彼女たちの誤解をといておく必要を感じた。かれの妻も入院していて、圭一が春子の部屋を訪れたりすれば、圭一が自分の子を宿した二人の女を同時に入院させていると思いこむかも知れない。しかも、春子の出産時は午前六時頃だというし、出産もほぼ同時刻だとすれば病院内では珍事として大きな噂になるにちがいなかった。  かれは、看護婦たちに近づくと、 「あれは、私の家内ではないのですね」  と、言った。看護婦が、いぶかしそうに圭一を見つめ、 「あの方は××さんですよ」  と、聞きなれぬ姓を口にした。 「ですから、私の家内ではないんです。似ていたものですから女房だと思ったんですが、ちがっていたんです」  圭一は、どもりがちに言った。  不審そうな表情をしていた看護婦たちは、呆気にとられたように口を半開きにして顔を見合すと、背の高い方の看護婦が眼を異様に光らせて圭一の顔を見つめながら、 「すると、あなたは奥さんとまちがえてほかの妊婦の手をにぎってやっていたんですか」  と、甲高い声で言った。 「そうなんです」  圭一が仕方なく答えると、看護婦たちは眼を大きくみひらいて顔を見合せた。そして、急に抱き合うと体をはずませながら笑い出した。  圭一は、薄ら笑いをつづけた。その顔を看護婦たちは眼に涙をにじませて笑いながら廊下を足早に去っていった。  なんという迂闊さだと圭一は思った。にぎりしめられていた指にようやく血がもどって、血管が波打っている。 「あなた」  という声がして、圭一は振返った。  赤い格子縞の寝巻を着た女が、明るい眼をして歩いてくる。それは、春子であった。 「まだ待っていてくれたの」  春子は、感謝するような眼をして言った。  圭一は、無言のままうなずいた。 「生まれるのは夕方ですって。あなたに来てもらっているのも大変だから、妹に連絡して下さい。その方が、私も気楽だから……」  と、春子は言った。 「じゃ、そうする。元気でな」  かれは、口早に言うと廊下を歩き出した。そして、角を曲る時ふり返ると、廊下に春子の立って見送っている姿がみえた。  かれは、病院を出た。すでに夜は明けていて、路上を歩く人の姿もみえる。  萎縮した気分で、かれは道を駅の方へ急いだが、急に笑いがこみ上げてきた。 「なんということだ、なんということだ」  かれは、つぶやきつづけた。  子供が生れたのは、その日の夜おそくであった。  圭一は、寝具会社を経営している次兄の家に行っていたが、いつまでたっても報せがこないので兄の家に泊ることになった。兄は、社員や友人と麻雀に熱中していた。  眠って間もなく、圭一は歓声とともに自分の体が宙に浮いて揺れているのを感じ、眼を開けた。兄たちが、圭一の身を横たえている敷ぶとんの四隅をつかんで持ち上げながら、 「男だ、男の子が生れたぞ」  と、ふとんをハンモックのように揺らしていた。  電話がかっていて、受話器をとると、 「お兄様、おめでとうございます。一寸前に男の子が生れました。母子共に健全です」  と、春子の妹のあらたまった声が流れてきた。  妹は、春子に付添って病院に泊るから心配しないで欲しいと言って、電話をきった。 「圭一さん、とうとうお父さんになったのね」  次兄の妻が、感慨深そうな表情で言った。  圭一は、翌日社長の許可を得て病院へ行った。  春子は元気で、看護婦に抱かれて運ばれてきた嬰児《えいじ》を自分の傍に横たえた。嬰児は、半ば眠っているらしく眼を閉じ、首に数字を記した札をさげ、足の裏にも同様の数字が書かれていた。  圭一は、嬰児の顔を見つめた。やがてこの小さな生き物が自分よりも背丈が高くなり、父である自分の叱責にも耳をかさぬ不逞《ふてい》の男になるかも知れぬと思うと、空恐しい気もした。  春子は、一週間入院していたが、圭一はその日を最後に病院を訪れなかった。見知らぬ妊婦の手をにぎりしめていたことを知っている二人の看護婦に会うことが恥しかったし、さらにその妊婦と出会うことが恐しかったのだ。  退院は日曜日で、圭一は嬰児を抱いた春子をタクシーに乗せてアパートに連れ帰った。  春子は、部屋に入るとすぐに子供用に準備しておいたふとんを敷き、嬰児を横たえた。そして、なれぬ手つきでおむつの交換をはじめた。  圭一は、奇異な光景を見るような思いで春子と嬰児を見つめた。この部屋に住んでいたのは自分と春子の二人だけであったが、そこに一個の生き物が加わってきている。それは、自分の息子ではあるが、突然見知らぬ者が自分たちの部屋に当然の権利のように同居してきたような違和感を抱いた。  春子は、嬰児に声をかけながらおむつをあてがい、 「寒い、寒い。ごめんなさいね」  などと言って、嬰児にふとんをかけてやっている。すでに春子は、母親として嬰児との間に親密な小世界を形作っているようにみえた。  圭一は、珍奇なものでもみるように春子と嬰児の姿をながめていたが、不意に恐怖に似た感情におそわれた。  嬰児は、口をわずかに動かしながらふとんの襟から顔を出している。その無心な顔には、安らいだ表情が浮んでいる。圭一は、果して自分が嬰児の信頼にこたえられる存在かどうかを思った。かれは、狼狽した。自分には、一人の人間の信頼にこたえ得る父親としての資格をそなえているようには到底思えない。精神的にも未熟だし経済力も乏しい自分が父親になるのは、早すぎたようにも思えた。  かれは、萎縮した気分で嬰児の顔を見つめていた。  子供には、工という名をつけた。鉄道のレールを縦割りにすると工という漢字と同じ断面が露出する。それは、列車の重量に十分堪え得る力学的に安定した形で、どのような重圧にもおしひしがれない意味をこめ、工と名づけたのだ。  工は|たくみ《ヽヽヽ》と読み、幼児期に「タクちゃん」と呼ぶのも愛らしい響きがあると思った。 「簡単に呼ぶ時は、タクね。悪くはないわ」  と、妻は圭一の意見に賛意をしめした。  子をまじえた新しい生活が、はじまった。  狭い部屋なので、畳の上に工を横たえたふとんを置くと、圭一たちは枕もとを歩いたり、ふとんをまたいだりしなければならない。それは、畳の目にある埃をまき立てることにもなるので、いつの間にか部屋の中央におかれた一メートル四方の卓袱台《ちやぶだい》の上に工のふとんを置くようになった。  比較的大人しい嬰児であったが、深夜になるとよく泣いた。帰宅後、小説を書く習慣の圭一には、その泣声がたえられなかった。  昼間会社勤めをする圭一にとって、帰宅後深夜二時までは、小説を書く貴重な時間であった。それが、顔を充血させて泣く嬰児にかき乱されるのは辛かった。 「おい、なんとかしろ」  圭一は、怒声をあげる。  眠っていた春子が眼をさまし、嬰児を引き寄せてあやすが、それでも泣きやまない時は、嬰児を毛布にくるんでアパートの外に出て行った。  圭一は、春子がアパートの外を往ったり来たりしながら子守歌をうたっているのをきいていた。夜気は冷く、嬰児を抱いて歌をうたう春子の辛さが身にしみて感じられた。自分の身勝手なわがままだということは、知っていた。春子も、家事と育児で心身ともに疲れているはずだった。そして、夜疲れきって眠っていたのに、夫の怒声で起され、子を抱いて戸外を歩いている。  妻にすまないという気持はあったが、かれは、その貴重な時間を創作のためのみに費したかった。妻の悲しみも無視して、時間を自分のものだけにしたかった。そうした利己的な考えから、かれは春子を呼びにアパートの外へ出ることは一度もしなかった。  結婚すれば家事に追われて小説は書けなくなると言って結婚を逡巡《しゆんじゆん》していた春子の危惧《きぐ》は、的中したのだ。子供を生んでから春子は、育児にかかりきりで原稿用紙をひろげることもない。圭一は、そうした春子を見るに忍びなかった。子供を産む前は創作をつづけていたが、出産と同時に春子は一般的な家庭の主婦になってしまったように思えた。  春子は、それについて不服そうな態度はみせなかった。むしろ嬰児との生活に満足しきっているように、鼻唄をうたったりして明るい表情で日を過していた。一児の母になった春子は、母性本能が創作意欲をおしつぶしたのだ、と圭一は思った。  しかし、その予測ははずれていた。或る土曜日の午後、部屋のドアを開けると、子供を背負った春子が茶ダンスの傍に立っていた。 「早かったのね」  春子が、笑顔を向けてきた。  圭一は、茶ダンスの上に原稿用紙が置かれているのを見た。春子は、嬰児を背負い、茶ダンスを机代りに立ったまま小説を書いていたのだ。かれは、春子の創作に対する執着の強さをあらためて知った。春子が、無気味に感じられた。恐らく春子は、死を迎えるまで原稿用紙に向いつづけるだろう。それをさまたげるものはなにもないのだ、と思った。  嬰児は順調に育ち、あやすと笑うようにもなった。春子は、昼間嬰児を抱いて銭湯につれていっていた。  夜泣きすることも少くなって、圭一が帰宅する頃には卓袱台の上に敷かれたふとんの中で眠っていることが多かった。部屋の中には、甘い乳の香がただよっていた。  嬰児が可愛らしく思えた。柔い頬を指先で軽くふれると、自動装置の玩具のスイッチを押したように必ず顔をくずして笑う。圭一の姿をみると、抱かれようとして小さな両手をさしのべてくる。  そうした嬰児を見るたびに、圭一は息苦しさを感じた。生活を辛うじて維持できる程度の収入は得ているが、将来これ以上の生活をできる目安はない。質屋通いをする必要はなくなっていたが、自分と春子の同人雑誌に納める費用は相変らず家計を圧迫していた。嬰児に費されるべき金銭を、圭一夫婦は同人雑誌に納付していたのだ。  風変りな両親のもとに生れたのだから、宿命と思って諦めてくれと、圭一は、抱いた嬰児につぶやいた。  圭一は、子供に父親らしいことをしてやりたいと思った。春子は、おむつを洗濯し、湯浴みをさせ、乳をふくませている。母親としてのつとめを十分に果しているが、圭一もその一端を負担したかった。  晩春の日曜日——空は晴れていたので、春子は、アパートの裏手で洗濯をするため部屋を出て行った。  圭一は、ふと思いついて兵児帯をとり上げた。そして、嬰児を抱き上げると帯の上に横たえ、自分の体を仰向けにのしかからせて帯を強くひき上体を立たせた。  かれは立ち上ると、嬰児の小さな腰にひろげた帯をまわした。嬰児を背負ったのは生れて初めての経験で、その感触は異様だった。生温い小さなものが、背面を動いている。手を後にまわしても嬰児の臀部《でんぶ》にかすかにふれる程度で、その体は肩の方にせり上ってくくりつけられている。  帯から嬰児の体がぬけ落ちそうな予感がして、かれは、おずおずと部屋のせまい空間を歩きまわった。  そのうちに、かれは幾分大胆になって、たたきにおかれた下駄をはくとドアを押した。嬰児は、機嫌よさそうに体をはねさせ、 「あっ、あっ」  と、声をあげている。  圭一は、アパートの外に出た。青く澄んだ空がひろがっていて、薄い雲が白く輝いて動いている。 「よし、よし」  圭一は、背中の嬰児を軽くゆすりながら露地を往き来した。  ねんねんころりよ、と子守歌をうたいかけたが、子供を寝かしつけるのではないから不適当だと気づいて、 「よし、よし」  という言葉だけをくり返した。  露地をへだてて建っている小住宅から子供を連れて出てきた主婦が、ためらいがちに挨拶をし、圭一も頭をさげた。 「あらっ」  背後で声がし、振返るとバケツを手にした春子が立っていた。その顔は、可笑しそうに笑っていたが、急に表情をひきしめると、 「そんなこと、やめてよ。あなたって、子供を背負うのがまるで似合わない人なのねえ」  と、呆れたように言った。 [#改ページ]    同人雑誌のこと  子供を出産した病院で見知らぬ妊婦の手をにぎりしめたことを初めて春子に話したのは、夏に入ってからであった。  その告白は、想像以上に春子を驚かせた。 「まあ、あれは、あなただったの」  春子は、呆れたように甲高い声をあげた。  他の妊婦を妻とまちがえて手をにぎっていた男の話は、院内でもかなりの噂になって笑いの種になっていたという。その話を春子にしてくれたのは担当の看護婦で、 「御主人はどなたもうろたえるのでしょうけど、奥さんとまちがえて他の方の奥さんの手をにぎってやっていたなんて前代未聞ですよ。そそっかしい人がいるもんですね」  と、看護婦は笑い、春子も可笑しくてたまらなかったという。  圭一は退院時まで一度しか春子を見舞いにゆかなかったが、看護婦は、 「それに比べてお宅様の御主人は落着いていらっしゃいますね」  と言っていたともつけ加えた。 「それであなたは、恥しくて一度しか病院へ来なかったのね。冷い人だと思っていたけど、そうだったの」  と、春子は笑いながら、 「いやだ、いやだ。あんたという人は……」  と、頭を激しくふっていた。  その年の夏は暑く、西日の当る部屋の内部は蒸風呂のようだった。嬰児の皮膚には汗もが湧き、春子も食欲を失って一層痩せてしまっていた。  その年の会社の売上げ業績は好調で、夏のボーナスは二カ月分が支給された。それに月給も四千円昇給し、家計はかなり楽になっていた。  その頃から、春子も、圭一とともに同人雑誌の会合に出るようになった。嬰児を姉夫婦の家にあずけて出掛けてゆくのだ。  同人雑誌は三カ月に一度定期的に発行されていて、圭一も春子も必ず作品を発表していた。それらは、幸いにも文芸雑誌の同人雑誌評にとり上げられ、例外なく好意的な批評を受けていた。  同人たちは、子供の養育をしながら小説を書く春子に同情的で、殊に年長の淡路容子は、 「圭一さん、春子さんを大事にしてやらないと罰が当るわよ」  と、圭一をたしなめたりした。  圭一も春子も、その同人雑誌が気に入っていた。  初めに加わった雑誌は大学の文芸部の機関誌であった。純然たる同人雑誌ではなかっただけに、数名の者をのぞいては、小説も評論も書かぬ文学好きの学生たちで、小説を一生書きつづけようと思っていた圭一と春子には、物足らなかった。さらに大学を中退後加わった同人雑誌も、奇怪な雑誌で圭一たちには不満だった。新進作家として一部で認められていた人が主宰者だったが、かれはきわめて独裁的であった。かれは、歯の根の浮くような気障な規則を作って得意がっていたが、かれ自身は同人費を支払う必要はなく、同人誌の末尾にはその号に発表された作品についてのかれの批評が印刷されていた。つまり同人の作品は、発表と同時にかれの評価を受けるのだ。  第二号が発刊された時、圭一はその雑誌から去ることを決意した。その号に発表された小説は主宰者である新進作家の意志で作者名はけずられ、ただA、B、Cなどという記号に代えられていた。 「フランスでは、このようなシャレたことをするのだ」  と、作家は言っていたが、圭一には、それがシャレたことなどとは到底思えなかった。文学の世界は極めて地味なもので、新しさをてらい人の耳目をひきつける工作をするようなものとは無縁のものと思っていた。かれは、腹立たしい思いで春子と脱退の手紙を送った。  三度目に参加した同人雑誌は、発行部数の多い著名な雑誌だった。  合評会には百名以上の同人が集り、その月の同誌に発表された作品について、司会者に指名された同人が立って批評を述べる。高名な作家や批評家も同席していて、会は熱気にみちていた。  圭一は、同人の一員になると、編集委員である作家の石山氏に五十二枚の短篇を郵送し、幸いにも採用された。  かれにとってその雑誌に自作が発表されることは、眼前が急に明るくなったような喜びであった。合評会での批評もよく、石山氏は、 「次作をすぐに書け」  という葉書をくれた。  圭一は、ふるい立つような思いで手術時のことを素材にした短篇を書き、再び郵送した。その返事はこなかったが、或る日送られてきた同人雑誌に作品が掲載されているのを知った。  圭一は、興奮し、新たな作品の執筆にとりくんだ。  しかし、一カ月後に出席した合評会で、編集委員の口から、 「今月号をもって、雑誌は休刊する」  という発表があった。  圭一は、落胆した。ようやく得た発表誌に作品をつづけてのせてもらおうと意気ごんでいただけに、圭一は一時に力のぬけたような失望感を味わった。休刊の理由は、圭一などにわかるはずもなかった。ただ主宰者とも言うべき高名な作家である醍醐氏が、同人雑誌の弛緩した空気を一新させるために一時休刊を主張したということを仄聞《そくぶん》するにとどまった。  同人雑誌の休刊によって、同人たちは小グループに分散し、それぞれに同人雑誌をはじめているようだった。元編集委員の一人であった仁戸部も同人雑誌を作り、圭一と春子に参加をすすめてくれたのだ。  仁戸部は、つかみどころのない人物だった。かれが数年前に書いた抽象小説は、かなり高い評価を受け、圭一も発表誌を古本屋で捜して読んだことがあった。  同人会で、仁戸部は、いつも茶碗《ちやわん》酒を飲んでいた。そして、呂律の乱れた口調で圭一たちの作品を容赦なく批評したが、その底には温みが常にひそんでいた。かれは、同人たちにも公平で、同人会はかれを中心によくまとまっていた。  しかし、秋も深まった頃、仁戸部は突然のように同人雑誌の廃刊を告げた。 「これ以上雑誌をつづけると必ず安易な空気が生れる。この雑誌の使命は予期通り果せたと思うから、未練はあるがいさぎよく廃刊すべきだ」  と、仁戸部は断定的な口調で言った。  主宰者の仁戸部の言葉だけに、同人たちの間から反撥の声は出なかった。 「さあ、別れの宴だ」  仁戸部は、一升瓶をかかえると圭一たちの茶碗に酒を注いだ。  にぎやかな談笑がつづき、同人たちは、 「いい雑誌だったなあ」  と、口々に言い合った。  かれらは陽気にはしゃいでいたが、別れの淋しさがだれの顔にもにじみ出ていた。  仁戸部の主宰する同人雑誌が廃刊になって、圭一は小説の発表舞台を完全に失った。他の同人雑誌に参加することも考えたが、すでに定まった空気をもつ同人雑誌に割りこんでゆく気にはなれなかったし、仁戸部に対する背信行為のようにも思えて初めからその気持はなかった。  書かれざる傑作というものがあると高言して、小説を書かない友人がいた。また画家のモジリアニのように、死後認められる名作を書いておけばよいのだと、原稿のまま同人雑誌に発表しない者もいた。しかし、圭一は、書かれざる傑作は傑作であるはずはないし、すぐれた作品を発表すれば、死後のみではなく生きている間も認められる機会のあるのが現在の文学の世界だと信じていた。そのようなことを口にする者の意識の根底には、自分の乏しい才能を糊塗する軽薄な卑劣さがひそんでいることはあきらかで、圭一は、そうした幼稚なことを口にする者たちがきらいであった。  たしかに自分の作品を活字にすることは、裸身を公衆の面前にさらすことと同じように自らの能力を恥らいもなく示すことである。それは、他者からの冷笑と侮蔑を浴びることにもつながり、勇気を必要とすることであった。しかし、圭一は、その勇気こそ小説を書く素朴な基本姿勢だと思っていた。  かれは、最も理想的な形として新しく同人雑誌を興すことを決心した。そして、それは三号で廃刊にすることを前提にした同人雑誌で、仁戸部の指摘した雑誌の空気の弛緩も防げるはずであった。  別に声をかけたわけではなかったが、谷々から湧く霧のように未知の男や女たちがどこからともなく集ってきた。その中には詩を書く若い画家もいて、表紙とカットを引受けると約束してくれた。  同人は八人で締切り、誌名は「炎舞」ときまり、画家は表紙に炎の中で舞う蛾の群を描いてくれた。後は、各人の書く作品を持ち寄ればよいだけになった。  圭一は、新しい小説の執筆に入ったが、或る日の午後、見知らぬ町に足を向けた。  その町には、高名な文芸評論家が住んでいるはずであった。圭一は、その評論家の評論を愛読していた。そして、その辛辣な文芸時評も、ことごとく納得できるように思え、それは自分の小説がその評論家によって認められるにちがいないという期待にふくれ上っていった。  圭一は、学生時代に数人の作家の自宅を訪れたことがある。それは、かれの所属している文芸部主催の講演会に出席を乞う目的をもったもので、大学を背景にした半ば公的な意味をもっていた。つまり私的な目的で、作家や評論家の自宅を訪れたことはなかった。  かれは、長い間思いまどったが、自作を読んでもらいたいという欲望を抑えつけることができず、住所を手がかりに評論家の住む町に足をふみ入れたのだ。  その町の所番地は複雑に入り組んでいて、かれは町の中を長い間さ迷い歩いた。そして、ようやく目的の家の前に立ったのは、夕闇が濃くひろがりはじめた頃であった。  急に臆する気持がひろがって、かれは、しばらくためらっていた。帰ってしまおう、とも思った。が、かれは、勇をふるって恐るおそる指を伸すと少し斜めに突き出たブザーの疣《いぼ》を押した。  と、すぐに家の中から返事があって、玄関の戸がひらいた。眼の前に立ったのは、思いがけず、写真で何度も見たことのある評論家だった。  圭一は狼狽し、体をこわばらせて頭をさげた。そして、氏名を口にし、 「お忙しいことは重々わかっておりますが、もしお手すきの時がありましたら、私のものをお読みいただきたいのですが……」  と言って、自作を掲載してある同人雑誌をさし出した。  評論家は玄関の戸をあけて一瞥《いちべつ》した時から圭一の来意を見ぬいていたらしく、圭一の言葉が終ると同時に、 「折角おいでいただいたのに申訳ないが、個人的な依頼によるものを読む時間がありません」  と、淀みない口調で言った。  圭一は、自分の顔が赤く染まるのを意識しながら、 「それでは、置いてゆくだけにいたします」  と、どもりがちに言った。 「いや、置いて行っていただくと読まなければならぬという気持の負担になりますから、誠に申訳ないが……」  と、評論家は手で制した。 「わかりました。不躾に参上いたしまして失礼いたしました」  圭一は、頭を深くさげると玄関の前をはなれた。  路上に出た圭一は、よろめいた。恥しかった。なんという愚しいことをしてしまったのだ、と思った。  評論家の家には、しばしば文学志望者が前ぶれもなく訪れてくるのだろう。評論家の態度には、それらの者たちの応接になれた落着きが感じられた。が、その平静さには不思議に冷さは感じられなかった。評論家も文学志望者の苦しみや焦りは知っていて、それに対する思いやりもあるのだろう。と同時に、文学志望者の中に時折みられる、自己の才能に対する失望感とそれとは逆の自信過剰との間を振子のように往き来する振幅の度の激しい者への警戒心もあるにちがいなかった。そして、このような扱いかねる者は、紹介者もなく作家や評論家の自宅に突然訪れる者の中に多いはずだった。  圭一は、夜道を足早に歩いた。決してしてはならぬことをしてしまったような自分に対する激しい嫌悪感が、体中にみちていた。  自分は、ただ小説を書き同人雑誌にのせればよいのだ。それがもしすぐれたものであったら、評論家や編集者の眼にもとまって相応の評価を受けるにちがいない。が、もしも、かれらの眼にふれぬことがあったとしても、それは不運として諦め、さらに次作の発表に努めればよい。それを何度か反復してゆけば、いつかはかれらの眼にとまる機会も生れるにちがいない。ただ一作のみを後生大事にかかえて、それを能動的にかれらの前に突き出すことは、なすべきことではないのだ。  そうした信条に近い考え方をひそかにいだいて今までもやってきたはずだし、将来も同じでありたいと思っていたが、それを自ら破ってしまったことが情無かった。  かれは、アパートに帰ってからも呻き声をあげ、溜息をつきつづけた。 「どうしたの。なにか気になることがあったの」  嬰児を抱いた妻が気づかわしげに言ったが、圭一は返事もせず呻き声をあげつづけた。 「炎舞」の創刊号が刷り上り、圭一は他の同人とともに作家、評論家や出版社に発送した。  幸いにもその反応は一カ月ほどたった頃からあらわれはじめ、同人の作品はおおむね好評だった。殊に春子の作品は、文芸雑誌の同人誌評で今月第一の秀作という評価を受けていた。 「当分奥さんに頭が上らんね」  同人の一人が、圭一を冷やかした。  圭一は、苦笑し、黙っていた。  結婚前は、妻が小説を書いたりしてはたまらぬという気持が強かった。その意識の底には、妻が万一すぐれた小説を書いて世に認められ、自分だけが取り残されはしまいかという恐れがあった。妻は女流作家になり、自分はただその夫となるわけだが、かれにはそうした場に安んじて身を置けそうにもなかった。亭主はあくまで亭主であって、家長としての矜持《きようじ》を保ち得る人間でありたいと思っていたのだ。  しかし、結婚後三年、かれの心情には大きな変化が起っていた。と言うよりは、自分に意外な一面があるのに気づいたと言った方が適切だった。同人雑誌の仲間は、それぞれすぐれた作品をかかげて世に出たいという強い願望をいだいている。それだけに、仲間が作品を認められて注目されるようになれば動揺することは自然であった。羨望が、そのまま嫉妬となることも多い。  仁戸部の主宰する同人雑誌では、淡路容子と石塚誠が同人雑誌賞を受けて、文芸雑誌からの依頼を受ける身になった。それは、圭一の身近に起った一事件であったが、その折にかれは、初めて自分の奇妙な感情の動きに気づいたのだ。  それはかれ自身にとっても意外だったが、かれは淡路にも石塚にも羨望は感じたものの嫉視する感情はいだかなかった。その不思議な現象を自分なりに分析してみると、他人は他人、自分は自分という意識が、海底に投じられた碇のように根強く胸の中に根を下しているらしいことを知った。  妙な連想だが、かれは、小説書きが専門店街に並ぶ店のように思えた。その一郭には同じ品物を扱う店はなく、それぞれに独得の個性をもった品物を商っている。それと同じように、小説も他に類似のない個性をもつものでなければ存在価値がないに違いなかった。  淡路も石塚もその作品が個性的であった故に評価を受けることができたが、それは圭一の作品の個性とは全く別種のもので、いわば嫉妬する対象とはならないはずだった。  春子は、そうした圭一を、 「あなたは自信が強いからよ」  と言ったが、それとも幾分ちがっているように思った。  春子の作品が好評だったことにも、圭一は真実なんの嫉妬も感じなかった。春子は春子、自分は自分という意識がはたらいていて、福神漬の好きな者が専門店街の福神漬を扱う店に立寄るように、同人誌批評家が春子の個性に正直な好意を寄せたにすぎないと思った。  圭一は、そうした自分の平静さに感謝したい気持だった。それが決して自らに強いたものではなく自然に生れたものだけに、安堵の気持が強かった。  これならなんとか、小説を書く春子との間もうまくゆきそうだ、と圭一は思った。すでに子供にも恵まれている間柄であり、その根底をゆすぶるような家庭の崩壊は避けたかった。 [#改ページ]    支出増大のこと 「炎舞」の同人中には、大学時代の友人である望月もいた。かれは、冬の気配がきざした頃、 「今のアパートに引越したのは去年の九月ですから、もう一年以上もたっていますね。そろそろ引越しの時期じゃないんですか」  と、笑いながら言った。  圭一夫婦は、結婚以来十カ月に一度の割で転居してきた。その度に望月は引越しを手伝ってくれたが、過去の経験から圭一夫婦の転居の時期が近づいていることを察知しているらしかった。  圭一は、望月に言われて急に落着かない気分になった。十カ月に一度転居することを習わしにしてきたかれは、新たな町に移住したくなったのだ。  その夜、アパートにもどった圭一は、春子に転居のことを口にした。 「また引越し?」  春子は、疲れたように言った。  圭一は、春子に転居の必要があることを熱心に説いた。この町から会社まではかなりの時間がかかる。それに、子供が生れたのに部屋が余りにも狭すぎる。現在の収入は過去一年間に二倍近く増しているので、都心に近く、しかも広い部屋を借りることは可能であると説いた。  春子は、子供のことにふれた圭一の言葉に動かされたようだった。そして、卓袱台の上に寝ている子供の顔を見つめながら、 「そうね、また引越しますか」  と、言った。  翌日、会社からの帰途、圭一は新宿に近い京王線の幡ケ谷駅におりると、駅前の不動産屋に入った。そして、二室つづきのアパートの部屋がないかとたずねると、五十年輩の男が、 「新築のきれいなアパートがありますよ」  と言って、複写された見取り図をひろげた。  それは六畳、三畳の二間つづきで、部屋と部屋の間に炊事場があり、三畳の部屋の傍に手洗いもある。部屋にはそれぞれ押入れもあって、炊事場も手洗いもない六畳一間のアパートに暮している圭一には、かなり広い空間に思えた。  敷金七万円、礼金三万円で高かったが、家賃六千八百円で手頃であった。 「案内しましょうか、すぐその横丁です。駅前と言ってもいいくらいです」  男は、図面をまるめると腰をあげた。  たしかに男の言葉通り、斜め向いの酒類店の横を入ると、道の左側にモルタル二階作りの新しいアパートが立っていた。 「電気はまだとめてあるんで……」  と言って、男は、ライターでローソクに火をともすと、急な階段を上り、右手のドアを鍵であけた。左手にもドアがあって、階段は二世帯で兼用になっている。ドアをあけると、新しい木肌の香と壁の匂いが流れ出てきた。  圭一は、男の後から靴をぬぎ部屋に入った。  ローソクの灯をかざしながら、男は、押入れを開け、手洗いの内部をしめした。三畳間が、炊事場をはさんで六畳間とはなれているのが好都合だった。 「ここは、おれの書斎にもってこいだ」  と、圭一は、ひそかに思った。そして、ガラス窓から下の通りを見下すと、医院の看板がみえた。  医院が前なら心配ない、と、かれは、内科、小児科と書かれた看板の文字を見つめていた。  その夜、アパートにもどった圭一は、 「引越し先をきめてきたぞ」  と、春子に言った。  突然のことで、春子は驚きの声をあげた。が、圭一は、手持ちの金を手付金として不動産屋に渡し、三日後の日曜日に入室すると決めてきたことを告げた。  気短な圭一の性格に半ば諦めている春子も、さすがに三日後に引越しするという言葉に顔色を変えた。しかし、圭一が便箋に間取りの略図を書き、家賃その他の条件を説明しているうちに、春子の眼も輝きはじめた。 「買い物の便は?」 「十メートルも露地を出れば、駅前のにぎやかな商店街だ。電車に乗れば十分ほどで新宿に出られるし、アパートの前には小児科の医院もある。子供が熱を出したりしても心配ない」  圭一は、熱っぽい口調で説明した。  春子は、次第に興奮し、 「よし、引越すか」  と、男の口調をまねて卓袱台を勢よくたたいた。  翌日、圭一は望月に電話をかけ、 「また引越しだ。君がそろそろ引越しの時期じゃないかと言ったのでその気になったんだ。君にも責任があるんだから、また手伝いに来てくれよ」  と、言った。 「はい、はい。承知しました」  望月の笑いをふくんだ声が流れてきた。  約束通り、望月は、三日後の朝早くアパートに姿をあらわし、運送店の中型トラックもやってきた。  前回の引越しの折には三着の背広すべてを途中で落してしまった苦い経験があるので、荷物は満載にせず二回にわたって運んだ。家具は、前回の転居時と同じように、春子の作成した配置図にしたがって整然とおさめられた。  春子は上機嫌で、圭一が、 「広いなあ」  と、ダンボール箱や風呂敷包みのおかれた部屋の中を歩く姿を、笑いながら眺めていた。  そのアパートの生活に、圭一も春子も満足だった。炊事も自室で出来るし、手洗いも室外に出る必要はない。家具の列に圧迫されることもなく、畳の上に大の字になって寝ころべることもありがたかった。  夜になると、子供を抱いた春子と連れ立って近くの銭湯に行った。春子の言によると、圭一の入浴は、 「烏《からす》の行水なんて生易しいものじゃない。烏の入浴競争でも優勝確実よ」  と言うほど早いという。  圭一には、そうは思えぬが、頭を洗い体を洗って髭を剃ったりしても、おなじ頃入浴した男たちは依然としてカランの前に腰を下したままでいる。圭一は、浴室を出て縁台に腰を下し、煙草をすいながら小さな池の金魚をながめたりして時間を費すが、外へ出て待っていても、春子は出てこない。  銭湯の外で、石鹸箱をつつんだタオルを手に立っているのは意外にも楽しかった。男は男湯に、女は女湯にいそいそと入って行き、男は男湯から、女は女湯から上気した顔で出てくる。それは当然のことだが、その当然のことをくり返す男女の動きが面白かった。春子が子供を抱いて女湯から出てくるのは、かなりたってからであった。  年が明けて間もなく、作家の石山氏から葉書をもらった。そこには、今まで書いたものを一冊にまとめた短篇集を自費出版したらどうかと書かれていた。単行本にすれば、精神的に一区切りついて、新たな気持で創作にとり組むことができるというのだ。  圭一は、思いもよらぬ勧めに驚いた。自分の書いたものを単行本にするのは面映ゆいし、第一出版に要する費用を予想して、到底自分には分不相応のことに思えた。  圭一は、葉書を妻にも見せず日をすごしたが、或る日帰宅して過去に同人雑誌に発表した短篇の数を調べてみると十分に単行本におさめ得る分量があることを知った。  かれは、翌日試みに親しい印刷所に電話をかけ、一応見積りをして欲しいと頼んだ。そして、二日後に印刷所へ電話をしてみると、十三万円程かかるという。 「そうだろうね。僕には縁のない大金だ」  と言うと、印刷所の主人は、 「私の方はね、別に儲け仕事でやるんじゃないから、ある時払いでいいですよ。月払いでもいいし、出そうと思う時には、出しなさい」  と、言ってくれた。  しかし、月払いと言っても十三万円もの金を返済することは辛かった。新しいアパートに入居するのに敷金・礼金合せて十万円も支払っているし、アパート代も転居前の倍以上になっている。自費出版の費用を捻出できる余地はなかった。  その夜、圭一は、石山氏からもらった葉書を春子にみせ、印刷所に見積りをしてもらった結果を打明けた。 「それなら出せばいいじゃないですか」  春子は、あっさりと言った。 「冗談を言うな。そんな金が出せるか」  圭一は、苛立って叫んだ。 「でも、八万円ならすぐ払えるわよ。残金は、印刷所の御主人の好意に甘えて、月払いにするか、ボーナス払いにしてもらったらいいじゃないですか」 「なんだって。八万円を払える?」 「そうよ。そのぐらいは貯金してあるわ」  春子は、笑いをふくんだ表情で言った。  圭一は、呆然とすると同時に春子に一種の恐れを感じた。  かれは、月給もボーナスも袋に入れたまま封を切らず春子に渡すのが常であった。それは、中身が乏しいからではあったが、妻に内緒で金をぬき取る行為がいやだからでもあった。  かれの小遣いは残業手当をあてていたが、それでも不足の折は、 「おい、出せ」  と、追剥ぎでもするような荒っぽい声を出して妻に要求した。  そうした生活の中で、転居時の敷金と礼金を支払ったばかりであるのに、まだ八万円も貯えがあるとは思ってもいなかった。  かれは、のほほんとした春子に世の妻たちと同じへそ繰りの才があることに驚いた。日頃家計の苦しさを口にはしない女だが、その陰で営々と貯えを積み重ねていた妻に女の本質を見たような無気味さを感じた。  春子が、タンスの奥から貯金通帳を出してきた。たしかに残高は九万円には満たなかったが、八万円台の数字が通帳の紙面に少し曲ってスタンプされていた。  圭一は、会社の帰途印刷所通いをするようになった。  自分の原稿が、同人雑誌のゲラ刷りよりも小さい単行本のゲラ刷りで刷り上ってくるのが気恥しかった。かれは、校正に専念したが、印刷所には古い活字しかないらしく、太目の漢字が随所にみえた。 「胡麻をばらまいたみたいですな」  と、印刷所の主人も気の毒がったが、印刷費も安くしてもらっている事情もあるので、 「いいですよ。読んでもらえさえすればそれでいいんだから……」  と圭一は言って、校正を進めた。  表紙の絵とカットは「炎舞」の同人である画家の谷藤潔が描き、作家の石山氏が解説を、以前に所属していた同人雑誌の主宰者である作家の醍醐氏が序文を書いてくれた。  圭一は、二百部も刷れば十分と思ったが、 「費用の大半は組み代ですから、千部刷ったって余り変りませんよ」  と、印刷所の主人は言って、いつの間にか千部印刷することになった。書名は、おさめられた短篇の中の比較的長い短篇の題名をそのまま使い、「青い骨」とした。  自費出版の「青い骨」が出来上ってきたのは、最後の校正刷りを渡してから一カ月後であった。  印刷所の主人がアパートに運びこんでくれたが、圭一はその量が余りにも多いのに驚いた。書斎として使っていた三畳間の四分の一ほどの空間に、それは堆高《うずたか》く天井まで積み上げられた。千部という書籍が、これほど多量とはかれも知らなかった。初めの予定通り二百部程度にしておくべきだったと後悔した。  それでも、自分の作品がたとえ自費出版であろうと単行本という形になったことは嬉しく、その夜おそくまで短篇集を数冊枕もとに置いてページを繰りつづけていた。  翌日から短篇集の発送にとりかかった。作家の石山氏の指示で各方面に贈呈し、親族や友人にも思いつくままに郵送した。が、短篇集の山は、二百部ほど消えただけであった。  圭一は、当惑し、春子も三畳の部屋の畳の上に積み上げられている単行本を無言で見つめていた。かれは、不安になって短篇集の重量をはかってみた。一冊の重みは三五〇グラムで、八百部では二八〇キロという計算になる。圭一の体重が約五十キロあることから考えて、その畳の部分に自分と同じ体重の人間が六人弱も常に寄りかたまって立っているのと同じであった。  アパートの設計者は、一個所にそのような重量がかかることを予想しなかっただろうし、床をささえている根太が重量に堪えきれず、八百部の「青い骨」を階下の部屋に落下させるおそれもあった。それにようやくヨチヨチ歩きをはじめた子供が三畳間に入って本の山にふれ、崩れ落ちた本の下敷きになることも想像された。  本を処理するのが最も好ましいが、その方法もなく、圭一は、根太の折れることをおそれて短篇集を分散して置くことにし、六畳間へも運びこんだ。そして、百冊ずつ積むと、部屋の所々に置いた。 「まるで墓石が並んでいるみたいね」  と、春子は、所々に出来た本の山をながめていた。  短篇集を自費出版したことを知った「炎舞」の同人たちが、出版記念会を開こうと言い出した。圭一は、自分が勝手に出した短篇集のために多くの人の来席を乞うのが気持の負担になるような気がして、 「自費出版ではなく、将来おれの本が正式に出版社から出るような時に、お願いすることにするよ」  と、辞退した。 「その見込みがあるかどうか。これが生涯最初で最後の本かも知れないぜ」  同人の一人が、冷やかした。 「いずれにしても、処女出版なのだから素直にお祝いの会をやってもらったらどうだ」  年長の同人が、さとすように言った。  圭一は、ためらう気持が強かったが、さからう気持も失せていた。  その頃、作家の石山氏からも出版記念会を開いたらどうかという葉書があった。「だれでも照れるが、最初の本の出版を祝う会は開いてもらうべきだ」とも書いてあった。  その葉書の文面で、圭一は同人たちの好意を受ける気持になった。  出版記念会を開くための打合せに、同人や大学時代の同人雑誌の友人たちがアパートに集ってきた。  記念会の実務進行の中心になったのは、旧制東京商大を卒業し小説を書いている寺井だった。かれは、世話好きな人柄で、多くの出版記念会の実務を手がけてきた男だった。かれは、記念会の案内状の発送先を吟味し、どの程度出席の返信がくるかを予想する。さらに出席の返信枚数から実際に会へ出席する者が何十名かを推定する。その予測は、例外なく正確に的中するという特殊な能力をもっていた。  打合せ会でも、かれの言葉を一同傾聴するだけで、日時、会場、案内状の文面と発送枚数が決定した。 「商大出の学士様が采配をふるってくれるのだから、心強い」  同人は、寺井を信頼しきった眼でながめていた。  打合せも終って、酒になった。 「どうかね、単なる出版記念会じゃ面白くないから、藤崎圭一を励ます会としたら……」  同人の一人が、言った。 「それも悪くない」  寺井が、答えた。  かれらは、思案するようにうなずいたりしていたが、大学時代の同人雑誌仲間である東海林が、 「さあ、それは大問題だぜ。本人がなんというか」  と、眼を輝かせて圭一の顔をみつめた。  東海林は、駄じゃれを連発する男で、眼を光らせる時は必ずしゃれを口にする。やられる、と圭一は思った。東海林がなにを言おうとしているのか、かれは気づいた。 「頭だろ」  圭一が機先を制して言うと、東海林は可笑しそうに声をあげて笑った。 「頭髪の薄れるのを気にしているおれが、禿げます会なんかやってもらうのは変だと、東海林は言いたいんだ。そうだろ」 「そうそう。禿げます、禿げますなんていやだものな」  東海林の言葉に、友人たちは笑った。 「しかし、薄くなんかなっていないじゃないか」  生真面目な寺井が、圭一の頭をみつめた。  ……出版記念会は、早春の或る夜ひらかれた。  その日は、妙に煙草と縁のある日だった。  かれは、会社を定時で退社すると駅へ急いだ。ホームで煙草をすいながら電車のくるのを待っていると、中年の男が近づいてきて頭を軽くさげ、 「一寸《ちよつと》、火を貸して下さい」  と、言った。男の指には、煙草がはさまっている。  懐しかった。終戦前後のことが急によみがえった。その頃、「一寸、火を……」という言葉は日常多用されていて、一人が煙草をすっていると、二人も三人も煙草を指にはさんで火を求めてくる。マッチは貴重品で所持する者が少く、たがいに火を貸すのが礼儀になっていたのだ。  圭一は、嬉しくなって、 「どうぞ、どうぞ」  と、あらん限りの好意をしめし、煙草の灰を落すとさし出した。  男は、前かがみになってくわえた煙草を圭一の煙草の先端に押しつけると、二、三回煙をふかして火のついたことをたしかめ、無言で頭をさげると圭一の傍をはなれて行った。男は、きちんとした背広を着た勤め人風の男だった。が、煙草の火を借りるしぐさは物慣れていて、圭一は、その男も終戦前後の物資の枯渇した時代をくぐりぬけてきたのだと、強い親近感をいだいた。  会場に赴くと、すでに受付の仕事を引受けてくれた同人たちが来ていた。そして、定刻になると、出席者が集ってきた。出席者は、七十名ほどであった。  圭一は、メインテーブルの中央に坐らされた。横の席には、序文を書いてくれた作家の醍醐氏が大きな体をゆったりと椅子の背にもたせかけていた。  作家の石山氏が司会を担当し、スピーチがはじまった。圭一の短篇集に対する好意的な批評、批判、激励がつづき、その一語一語が圭一の胸にしみ入ってきた。或る人は、 「骨や死体のことばかり書かないで、視野をひろげて書くように」  と言ったが、次に立った人が、 「骨と死体だけ書くだけでも、一生の仕事としては十分すぎる」  と、反論したりした。  圭一は、身を竦《すく》めて坐りつづけていた。来会者は退屈しているのかも知れなかったが、圭一にとっては一刻一刻が光り輝いたものに思え、その中心に身をさらしていることが面映ゆかった。それに、傍に近づいたこともない作家の醍醐氏が坐っていることにも一層萎縮した気分を味わっていた。  圭一は、眼前の食物にも手をつけず、時折煙草に火をともしていたが、そのうちに或ることに気づいた。かれは、スピーチがはじまると火をつけて一、二服したばかりの煙草を右手前にある灰皿に置いてスピーチに耳をかたむけるが、醍醐氏がその煙草を口にくわえてしまう。醍醐氏は、自分の煙草とまちがえているのだ。  圭一が、煙草に火をつける。それを氏が、すう。それが、何度もくり返される。申訳ない気持だったが、それは私のですとも言えぬ。  病もいえて十年たつ圭一に菌は出ていないが、結核患者であったひけ目で自分のくわえた煙草をすう醍醐氏にはらはらした。が、氏は悠然と圭一の置いた煙草をすいつづけていた。 [#改ページ]    スポーツのこと  自費出版した短篇集の反響は、全くと言っていいほどなかった。ただ残されたのは、八百部にも及ぶ短篇集と、印刷所へ支払わねばならぬ残金だけであった。  しかし、それまで書いてきた短篇集を単行本にまとめたことは、作家の石山氏も指摘した通り圭一自身に、過去の仕事とは別の新しい領域にふみこむ勇気をあたえた。  かれは、ヘミングウェイの短篇が好きであったが、その中の「拳闘家」という短篇に強く心をひかれた。  それはニックという貨物列車に無賃乗車した男が、列車の制動手に殴られ線路ぎわに落された描写からはじまる。ニックは、線路づたいに歩き、鉄橋を渡り、土手の下にみえる焚火に近づく。火の傍に顔面のこわれた男が坐っていて、やがてそれが著名な元ボクサーであることを知る。  このボクサーの描かれ方が無気味で、圭一は、戦後見た拳闘試合を思い起した。  それは、テント張りの安直な見世物のようなもので、メインエベントは引退同然の元チャンピオンと若いボクサーの試合であった。リングに上った元チャンピオンの姿は無残で、顔は醜くつぶれ耳朶もちぢれている。体の筋肉もだぶつき、腹も突き出ていた。元チャンピオンの動きは鈍く、ひたすら若いボクサーに叩かれるままだった。顔は血に染まり、何度か倒れたが、ふらつく足で立ち上る。その姿と焚火の傍に坐る拳闘家との姿が重り合った。  それらの拳闘家は、脳にも障害のある癈人にひとしい。が、かれらは、短い一時期ではあるが、自分の体力のすべてを傾けて狭いリングの空間の中で他の男と闘った。つまりかれらは、その一時期に自分を完全燃焼させたわけで、その後には灰になった肉体しか残っていない。  圭一は、人間すべてが確実に死を迎えるかぎり、たとえ短い時間ではあっても自らの能力を注ぎつくせる対象を見出すことのできた人間は、幸せだと思った。それは、生きることとはなにかという圭一自身への問いにも通じるもので、かれは、拳闘家を主人公にした小説を書きたいと思った。  かれは、ボクシングを観るのが好きであったが、その内情には全く無知であった。ボクシング界には独得な世界があり、拳闘家にはそれなりの生活があるはずであった。  かれは、ボクシングの初歩的な解説書や雑誌類を買い漁《あさ》り、ボクシングの試合も丹念に見て歩いた。  或る土曜日の夜、かれはボクシング解説書の末尾にあるジムの一覧表を手にして、未知の町に足をふみ入れた。住所をたよりに捜しあてたジムは、予想に反して十坪ほどの広さしかない粗末な家であった。  ガラス戸が半分開いていて、中をのぞくとロープをめぐらした仮設リングがみえ、数人の少年をもふくめた若い男たちが、パンチングボールをたたいたり縄とびをしたりしていた。  圭一は、勇をふるってサンダルや下駄の散らばっている土間に身を入れ、ノートにメモをはじめた。リング上では、一人の若い男がコーチらしい男の手にするミットをしきりにたたいている。若い男の体には汗が光り、ミットを打つたびに汗が飛び散っていた。  仮設リングの上での練習は、荒々しかった。ミットをかざしたコーチは、粗野な怒声をあげ、時折ミットで練習生の頭や顔をなぐりつける。その姿は、練習生の人格を無視したものにみえたが、狭いリング内で相手と闘いをつづける一人前のプロボクサーになるためには、当然の訓練にちがいなかった。  三分間の練習が終ると、一分間の休息をとる。コーチは、練習生にきびしい注意をあたえながらも、土間に立つ圭一が気になりはじめたらしく時折視線を向けてくる。そして、休憩が終ると再び練習生と活溌に動きはじめた。  練習が終り、コーチがミットをはずしながら圭一に近づいてきた。頭髪の短い、瞼に古傷の刻まれた二十六、七歳の男だった。  圭一が、軽く頭をさげると、 「なにか用かい? まさか、その年じゃ入門じゃないだろうね」  と、男は、圭一の体を品定めでもするようにながめた。 「いえ、一寸、見せていただきたいと思って」  圭一は、あわてて言った。 「なにを見るんだい? 新聞記者かい、あんた」  男は、圭一の手にしたノートに眼を落した。 「そうじゃないんですが、調べているんです」 「調べる? なにを」  男の細い眼に、険しい光がやどった。圭一は、その眼の光に恐怖を感じ、 「小説を書こうと思いましてね」  と、口早に言った。  男はうなずくと、 「そうかい、小説家か、あんた」  と、圭一の顔を細い眼でみつめた。 「小説家というほどでもないんですが……、ただ調べてみたいと思って」  圭一は、顔を赤らめて答えた。  男は、釈然としない表情で圭一の顔をながめていたが、興味もなさそうにリングの方へ歩いていった。圭一は、萎縮した気分になった。男からみれば、自分は得体の知れぬ人間に見えるのだろうし、素気ない扱いをされるのも当然だと思った。  帰ろうと思ったが、すぐに立去るのも男の手前おかしいので、身を硬くしてジムの内部をながめていた。 「おじさん」  不意に声をかけられた圭一は、サンドバッグをたたくのをやめた坊主刈りの若い男に眼を向けた。  その男の顔には、見覚えがあった。それは、六回戦の試合で、打たれても遮二無二進むことをやめぬ選手にちがいなかった。 「ボクシングの小説を書くのかい」  男は、興味深そうな眼をして言った。 「ええ」  圭一は、苦笑した。  男は、グローブをだらりとさげて近づいてくると、 「それなら、こっちへ上ってさ、やってみたら……。今、おれ、手があいてるからよ」  と、人なつっこい眼をして言った。  圭一は、狼狽した。ボクシングは観るだけで、グローブをいじったこともない。鼻の骨がくだけ耳朶のちぢれるようなボクシングなどしたら、体がたちまちこわされてしまう。 「いえ、ぼくはいいですよ」  圭一は、顔色を変え手をふった。 「遠慮はいらない。こっちへ上んなよ」  若いボクサーが、眼を光らせて言った。 「いえ、遠慮じゃないんです。グローブをはめたこともないし、出来ませんよ、ぼくには……」  圭一は、こわばった顔を無理にゆるめながら言った。 「でも、それじゃ、ボクシングの小説なんか書けないぜ。グローブをはめてさ、叩かれる味も知らなくちゃ。上んなよ、教えてやるからよ」  男は、圭一の腕にグローブをはめた手をからめてきた。  圭一の顔から血がひいた。男は、真剣な表情をしている。決して圭一をからかっているのではなく、小説を書く圭一に出来るだけの便宜をはかろうとしているのだ。  圭一は、青ざめた顔で男の申出をことわりつづけた。が、男は、好意的な眼をして圭一をしきりにうながす。その執拗さに、圭一は、引きずられるように板張りの床に上らされてしまった。  男は、いそいそと板壁の釘にぶら下った黒ずんだグローブを持ってくると、 「はめなよ」  と、優しい口調で言った。  圭一は、今さらのがれることもできず、覚悟をきめ、グローブを手にした。男の言う通り、グローブをはめた経験もなくてボクシングの小説を書くことはむずかしいかも知れない。少くとも実際にグローブの感触を知った方がいいにちがいなかった。  男がグローブの紐をきつくしめてくれた。想像よりもグローブは、重かった。 「おじさん、構えてみな」  男は、圭一に姿勢をとらせ、顎をひけとか足の位置を直せとか指示した。 「それじゃ、おれが打ってみるからな」  男は言うと、急に体の動きを早めて足を使いながら圭一の前を動きはじめた。上眼づかいに射てくる眼の光に、圭一は恐怖を感じた。手術して切除した肋骨は、再生してはいるがもろく、そこに衝撃が加わればたちまち折れて肺臓に突き刺さるかも知れない。 「左ストレート」  男の口から声が出ると、グローブが瞬間的に伸びてきた。それは頬に軽くふれただけであったが、圭一はよろめいた。革の匂いが、鼻孔の中にひろがった。  ワンツウ、アッパー、ジャブなどと男は口走りながら、グローブを顎やこめかみに伸ばしてくる。その度に、圭一は体をふらつかせた。  男の眼の光は次第に鋭さを増していて、突然思い切った打撃が加えられてくるような恐怖に襲われた。 「なるほど、なるほど」  などと圭一は相槌を打っていたが、口の中はすっかり乾き、頭がしびれてきた。 「おい、坊主」  突然、鋭い怒声がきこえた。  仮設リングのロープをくぐっておりてくるコーチの姿がみえた。 「お前、そんな素人を相手にしているひまがあるのか」  近づいてきたコーチが、ミットで荒々しく男の顔を叩いた。そして、圭一に憤りのみちた眼を向けると、 「なんだ、この野郎。図々しく上りこみゃがって。邪魔だ、帰れ」  と、怒鳴った。  圭一は、グローブをはずしてもらうと匆々《そうそう》にジムの外へ出た。  その夜の苦い経験にこりて、圭一はジムを歴訪することをやめ、知人を介して小さな拳闘クラブの会長を紹介してもらった。そして、プロボクシング界の実情について話をききたいと申出たが、会長は、 「それならうちのコーチがいい」  と言って、橋口という男の名を口にした。 「今夜後楽園の試合場にも必ず顔を出しているはずだから、案内の者にでもきいて会ってみなさい。橋口はね、元バンタム級のチャンピオンで強打者として実戦の経験もあるし、親切に話をしてくれると思いますよ」  と、言った。  圭一は、会長の指示にしたがって、その夜試合場に行った。 「ああハーさんね」  案内の男は、先に立って歩くと、 「あそこにいる青いハットをかぶった人です」  と、指さし、あわただしく去って行った。  観客席には所々空席がみえ、その最下段の椅子に二人の男が坐っている。一人は、圭一も何度かリング上で眼にしたミドル級のチャンピオンで、その左隣に色白の男が坐っていた。薄青い背広と同色の真新しいソフトをかぶっているが、縁がカウボーイの帽子のように驚くほど広い。童顔をしているだけに、名のあるヤクザのようにもみえた。  圭一は、たじろいだ。小説を書くためには、ボクシング界の陰の部分についても知らなければならない。もしもそれについて質問をし、男が急に不機嫌になったらなにをされるかも知れない。  弱ったな、と圭一は思った。もしかすると、その日会ったジムの会長は、圭一の調査がボクシング界にとって不利益になると予想し、それを阻止するため橋口を紹介したのかも知れないとも思った。  圭一は、ためらったが、他に適当な人を捜すあてもないので、思いきって青いソフトの男に近づいて行った。そして、男の横の空席に腰を下すと、 「橋口さんですね」  と、恐るおそる声をかけてみた。 「そうですよ」  男は、気軽に答え、圭一の顔に眼を向けた。  圭一は、小説を書く必要からジムをたずねたが、会長が橋口を紹介してくれたことを告げた。 「ああ、そう。いいですよ。会長がね。会長に言われちゃ、いやというわけにはいかないからな。どうお、あんた、まだこの試合見る? こんな調子じゃもうKOはないね。ただグローブで互いっこに顔をなぜ合うだけだよ」  橋口は、リングの動きに眼を向け、 「外に出て話しましょうか」  と、歯切れのよい口調で言った。  圭一が同意すると、橋口は、ミドル級チャンピオンの選手に、 「またね」  と、手をあげ席を立った。  圭一は、肩をゆすりながら悠然と歩く橋口について行った。ボクシング関係者らしい男たちと眼が合うと、橋口は軽く手をあげながら会場の外へ出た。  エレベーターが来て、圭一は橋口の後ろについてドアの中に入った。橋口は、階数をしめす数字の動きを眼で追っている。その瞼に、かなり深い古傷が筋をひいているのを圭一は盗み見た。  圭一は、喫茶店で橋口と向い合った。 「なんでもきいて下さい」  橋口は、広いふちのハットをかぶったまま体を横に向け、足を組んだ。  圭一は、当りさわりのないことから質問をはじめた。  橋口が急に怒り出しはしないかという不安を感じながら絶えず顔色をうかがっていたが、橋口はにこやかな表情をくずさない。時折橋口は笑顔をみせたが、その顔はひどく子供っぽく、圭一は徐々に恐怖感から解放されていった。  圭一は大胆になって、ファイトマネーや選手と会長との因習にみちた関係について質問をはじめた。それに対して、橋口は、なんのこだわりもなく答えてくれる。それは、決してボクシング界に対する一方的な内部告発ではなく、悪い因習とは認めながらも、そうならざるを得ない事情をも説明してくれた。  一時間ほどすると、橋口は用事があると言って席を立った。 「また話をききたけりゃ、ここに電話して下さい」  橋口は、太い指にはさんだ名刺をくれた。  圭一は、肩をゆすって去ってゆく橋口の後姿をながめながら、橋口がいわゆる善い人なのだと思った。服装は常人とちがったヤクザ風の派手なものだが、気持のきれいな純粋な男なのだと思った。  その後、圭一は橋口と三度会って話をきき、一層突っこんだ質問をした。橋口はそれにも快く応じてくれ、圭一もボクシング界の内情について一応の知識を得ることができた。  圭一は、お礼の意味もあって橋口を行きつけの小料理屋に誘った。その席でも圭一は質問をつづけたが、橋口の雑談は興味深かった。  橋口は、行きつけのキャバレーに行こうと言った。 「そこの勘定は私だからね、いいね」  と橋口は、圭一の言葉を封ずるように眼を据えて言った。  キャバレーに入ると、橋口はマネジャーを呼び数人の女の名を口にした。 「ここは、みんな知っていてね。私にまかしといて下さい」  橋口は、ハットをあみだにしてゆったりとソファーに背をもたせかけた。  女がつぎつぎにやってきて、圭一と橋口はたちまち女の体にかこまれた。テーブルの上には、ビールが林立し、果物をのせた大きなガラス器も運ばれてきた。橋口は、子供っぽい笑いを絶えず顔に浮べ、女にビールをついでやったりしている。 「この人はな、本を書いている先生だ」  と、橋口は女たちに得意気に言った。  圭一は、頸筋をかいた。 「小説家? なんておっしゃる方?」  痩せぎすの細い鼻梁をした女が、圭一を真面目くさった表情でみつめた。  圭一は、あわてて手をふった。 「有名な小説家の先生だよ。お前ら、名前をきいたらびっくりするぞ。この人はな……」  と言って、橋口は急に絶句し、圭一の耳もとに口を寄せると、 「なんていう名だっけな」  と、低い声でたずねた。  橋口は、酔いがまわるにつれて、一層上機嫌になった。そして、女たちもはしゃぎながら、フォークで果物を突きさすと、ビールを飲みつづける橋口の前に持ってゆく。その度に、橋口は、口を赤ん坊のようにあけて果物を食べていた。  圭一の顔の前にも、傍に坐っている女が果物を突き出してきた。 「いいよ、おれは自分で食べるから……」  圭一は、手で制した。  女は、いぶかしそうな表情をすると、フォークを刺した果物をガラス器の上に無言で置いた。  圭一は、キャバレーなどで女から食物を口に入れてもらうのがいやであった。もっと正確に言えば、身ぶるいするほど不快であった。それは、絶対安静で病臥していた十年前の記憶がよみがえってくるからであった。  かれは、その頃、終日ふとんの上に仰臥した生活をつづけていた。用便も寝たまま便器ですませ、体も朝一度付添婦にタオルで拭ってもらうだけで、寝返りをうつこともせず頭を枕からはなしたことはなかった。  食事時になると、付添婦が枕もとに食器をのせた盆を持ってきて、タオルを圭一の顎の下にさしこむ。そして箸で食物をつまみ圭一の口に入れはじめる。食物の選択はもっぱら付添婦の意志通りで、圭一に自由はなかった。  一々口に出してなにが欲しいと言えば、むろん付添婦もそれに従ってくれたはずだった。しかし、食物のことを口にするのはいやしく思えたし、それに食べさせてもらっているという卑屈感から、かれは突き出される食物を黙々と咀嚼《そしやく》していた。  自由に食べ物を選べぬことは、辛かった。味の濃い副食物が口に入れられた後は、粥《かゆ》でも食べて舌に残った後味をうすめたかった。が、付添婦はそうした圭一の気持を察することもなく、さらに味の濃い食物を口に近づけたりしてくる。その度に、なんという無神経な女だと、かれは苛立った。が、突き出された食物をこばむわけにもゆかず、眼を閉じてのみこむ。  すくった粥がこぼれて頬に落ちることもあったし、汁が鼻孔に入ったこともある。  それに付添婦が、熱い粥を匙《さじ》にすくって、フウフウ息をはきかけさますのもいやであった。粥が彼女の呼気のかたまりのように思え、不快感で嘔吐しそうにもなった。また付添婦は、圭一の口に食物を入れる時、連鎖反応のように彼女も同時に受け唇《くち》の口をひらく。そんなことも圭一の神経を苛立たせた。  そんな記憶が、キャバレーなどで食物を口に近づけられるたびに重苦しくよみがえってくるのだ。  それに、口をばっくりあけて女の突き出す食物を口に入れる男の顔は、滑稽なほど愚しくみえる。戦前の動物園では、細長い鉄線にニンジンやサツマ芋をつきさし、檻の中の猿などに与えていたが、フォークにつきさした食物を食べる男たちが檻の中の動物のようにも感じられた。  橋口は、食物が近づくたびに口をあけ、果しなく食物を咀嚼している。それは食べる機械のようでもあったが、その顔には邪気のない無心な表情がうかんでいた。  酒癖の芳しくない人がある。そうした類の人を観察していると、初めは大人しくにこやかな表情で酒を口に運んでいるが、或る瞬間に言動が一変するらしい。  圭一は、自然に中学時代眼にした理科の実験の光景を思い出す。その詳細は忘れたが、無色のアルカリ性液に試薬を一滴たらすと瞬間的に液が鮮かな朱色に変った。それと同じように、杯いっぱいほどのわずかな量の酒がいちじるしい作用を起して、それを境にたちまち変化する。  このような酒癖の芳しくない人は、例外なくシラフの時は大人しく、ひどく愛想のよいのが通例である。  圭一は、橋口の顔色をうかがいつづけていた。気さくな橋口が、酒乱ではないかという恐れを感じていたのだが、幸いにもかれにはそのような気配は感じられなかった。かれは、ビールを飲み、女がフォークに刺した果物を果しなく食べつづけ、陽気にはしゃぐだけであった。  圭一は、安心してビールを口に運んでいたが、女が一人二人と席を立ってゆくうちに情勢があやしくなってきた。橋口の顔から徐々に笑いの表情が消えはじめたのだ。そして、七、八人いた女が中年の肥満した女一人きりになった頃には、橋口の顔はすっかりひきつれていた。  橋口は、通りかかるボーイに、 「おい、マネジャーに一寸来いと言え」  と、声をかける。  ボーイは、慇懃《いんぎん》にうなずくが、マネジャーはなかなかやってこない。  やがてマネジャーが姿を現すと、 「なんだ、お前は。せっかく本を書く先生を連れてきたのに、女はみんないなくなったじゃねえか。おれの立場はどうなるんだよ」  と、呂律の乱れた声でどなった。  マネジャーが恐縮して去ると、橋口は、 「すみませんね、先生。淋しがらせちゃって」  と、圭一に笑顔を向け頭を下げた。  しかし、圭一は、橋口の顔は笑っているが、その眼だけは笑っていないことに気づいた。これ以上酒を飲むと、橋口がどのような動きをしめすか不安になった。橋口は、強打者として鳴らした元バンタム級チャンピオンでKO率はきわめて高かったという。もしもかれが気分を損ね、その拳《こぶし》を使うようなことでもすれば、たちまち修羅場が出現する。  マネジャーが去って間もなく、二人の女がやってきた。それは器量の悪い女たちだったが、マネジャーに言いふくめられてきたらしく、橋口の体に嬌声をあげて両側から抱きついた。  橋口は、たちまち機嫌を直し他愛ない笑顔になった。 「こちらは?」  女の一人が言うと、 「この先生を知らねえのか。有名な本を書く先生だ」  と橋口は言って、圭一の氏名を一字まちがえて女たちに伝えた。  女は、圭一の顔を酔いのよどんだ眼でながめると、 「私、まだこの人のもの読んだことないわ」  と、言った。  橋口は、圭一に顔を向けると、 「こいつら、学がないんでね。気を悪くしないで下さいよ」  と、慰めるような眼をして言った。  プロボクサーを主人公にした小説の構想は定まった。  ヘミングウェイの短篇「拳闘家」が創作意欲を誘ったのだが、アメリカの短篇作家アンブロウズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」という短篇にも心がひかれていた。それは鉄橋上で絞首刑を受ける一兵士の死を扱ったもので、ヘミングウェイの短篇にも鉄橋の描写があることから、圭一は、自然に鉄橋を主要な背景としたボクサーの死を考えるようになっていた。  また或る日眼にした一女性の自殺を報じた小さな新聞記事にも興味をもった。それは、若い女が鉄橋を歩き出して、驀進《ばくしん》してくる列車にはねられ自殺したという内容だった。  それらのものが混り合い、鉄橋は死の色の濃い場所として胸の中で定着し、ふくれ上っていった。かれは、プロボクサーを主人公とする小説の執筆にとりかかった。  梅雨が明けた頃、二年前に休刊されていた規模の大きい同人雑誌が再刊されるという通知を受け、つづいて作品依頼の葉書ももらった。  圭一は、同人たちと相談し、「炎舞」を廃刊して、再刊された同人雑誌に全員加わることを決定した。  かれは、小説を書きつづけながらボクシングの試合を観に行ったり、その時間がない時には、ボクシング好きの店主のいる小料理屋に入ってテレビのボクシング中継の映像に眼を据えたりしていた。  かれは、テレビが欲しくなった。自分の家でボクシング観戦が出来れば、試合場や小料理店に行かなくてもすむし、経済的にも時間的にも節約になると思ったのだ。しかし、テレビは十数万円もするし、一般家庭では容易に購入できぬ高価な器具だった。かれは、日曜日の夜などにおこなわれる好カードのテレビ中継を観るために、近くのそば屋に出掛けて行ったりしていた。  かれは、春子の顔色をうかがいながら、当りさわりのない程度でテレビのことを口にするようになった。が、春子は、生返事をするだけで、素知らぬ顔をしている。それでも時には話に乗ってくることはあったが、 「今に普及すれば、値段も安くなるでしょうね」  とか、 「技術が急速に進んでいるというから、今買った人は損するわね」  とか言って巧みにはぐらかす。  圭一は、その度に相槌を打っていたが、テレビを入手したいという欲望はつのるばかりだった。小説を成功させるためには、自室にテレビが絶対に必要だとも思った。  或る土曜日の夜、近くのそば屋でボクシングのテレビ中継を観てきた圭一は、画像が驚くほど鮮明だということを春子に告げた。  春子は、黙っていたが、 「そんなに欲しいのなら、テレビを買いますか」  と、突然言った。  圭一は、狼狽し、 「そんなことができるか」  と、言った。 「でも、あなたはこうと思ったら思いとどまることのできない、言いわけのきかない子供のような人なんですから……。家をもつなんて夢もないんだから、貯金しても仕様がないわ。買いたいものは、買ったらいいわ」  春子は、淡々とした口調で言った。  電気屋がテレビを運び入れてきてくれたのは、夏季のボーナスが出た翌日だった。ボーナスで頭金をはらい、残額は十四回払いであった。  テレビを買ったことは、たちまちアパート内にひろまったらしく、春子は、言葉も交したことのない主婦から価格や映像のうつり具合をたずねられたという。十世帯入っているアパートで、圭一の家が最初にテレビを購入したのだ。  圭一は、朝起きるとすぐにテレビのスウィッチを入れ、夜帰宅してからも長い間テレビの前に坐りこんでいた。 「小説を書く時間がとられて、テレビは害になるわね」  春子は皮肉な口調で言っていたが、彼女自身もひそかに楽しんでいるようだった。  番組の中でスポーツ中継は、最も興味があった。プロボクシングをはじめプロレス、プロ野球など飽きずにながめた。そして、春子も画面に眼を向けていたが、圭一は、テレビを買って、初めて春子がスポーツに全く無知な女であることを知った。  プロボクシングの試合中継を観ていた春子が、突然、 「ボクシングって、やくざなスポーツなのね」  と、呆れたように言った。  女からみれば、たしかにやくざなスポーツにみえるかも知れぬと、圭一は画面に映る選手の動きを見つめながら思った。 「しかし、孤独なスポーツとも言えるぞ。限られたせまいリングの中で、動物同士のように殴り合う。頼れるのは、自分の力だけだ。相手の方が力強ければ、手ひどく殴られマットに倒される。その哀れな姿が観客の眼にさらされ、観客は喜ぶんだ」  と、圭一は、答えた。 「そんなことを言っているんじゃないわよ。休憩するたびにビールを飲むからよ」  春子は、半ば腹立たしげに言った。  圭一は、とっさにその意味がつかめず、 「なに?」  と、春子の顔に眼を向けた。 「あなた、気づかないの。ほら、今ビールを飲んでいるじゃないですか。休憩のたびにビールを飲ませて景気をつけ、たたかわせているじゃありませんか」  春子は、コーナーに帰った選手の姿を指さしながら言った。  圭一は、唖然とし笑うこともできなかった。 「本気かい、お前。あれはビール瓶に入れた水を口にふくんで吐き捨てているだけなんだ。ビール飲んで景気をつけるなんていうスポーツがあるか」  圭一は、うんざりしたように言った。 「あら、あれは水なの。なぜビール瓶なんかに入れているの。人がみたらまちがえてしまうわ。うがいをするだけなら、お茶碗かなにかに水を入れてやったらいいのに……。なぜビール瓶を使う必然性があるの」  春子は、真剣な眼をしてたずねる。 「知るかよ、そんなこと。習慣だ、ただの」  圭一は、情無い気分になった。 「でも、一般の人はビールを飲んでいると思っているわ、きっと。ボクシングの小説を書くのなら、なぜビール瓶を使うのか、その理由をきいてみる方がいいわ」  春子は、助言するような口調で言った。  春子のスポーツに対する無知は、ボクシングだけではなく、野球についても同様であった。  或る夜、圭一は、車でやってきた弟とテレビの野球中継を観ていた。 「よく打つなあ」  弟が、安打を打った巨人の与那嶺に感嘆の声をあげた。 「この人がうまいのね。打つのが……」  春子が、一塁に出た与那嶺を指さした。 「そう。それから今バッターボックスに入った川上と二人が首位打者を争っているんですよ」  弟は、画面に眼を据えながら答えた。  しかし、次の瞬間、春子の口にした言葉に弟は画面から眼をはなし、春子の顔をふりかえった。春子は、 「それなら、その二人にばかり打たせればいいじゃないの」  と、言ったのだ。  弟は、一瞬顔をこわばらせて圭一を見つめたが、すぐに可笑しそうな眼をすると、 「なるほど、それは名案だな。でも、野球は九人でやるのだから、二人だけが打ったら他の七人はぼんやりしていなくちゃならないでしょう。それじゃ可哀相だと思わない? 姉さん」  と、言った。 「からかわないで、教えてよ。私のきいたこと、おかしいのね」  春子は、弟をにらんだ。 「おかしいどころじゃないよ。選手は順番に打つんだ。二人だけで打つなんてことがあり得るはずがないだろ」  圭一は、弟の手前恥しくなって苦笑した。 「そうなんだよ、姉さん。順番に打たないと、二人だけが疲れちゃうでしょう」  弟が、からかい半分に言った。  春子は、彼女の従兄に連れられて早慶戦を観に行った時のことを口にした。ルールを知らぬ春子の質問に従兄は、初めのころは親切に説明してくれていたが、しばらくすると返事もしなくなった。春子の質問が余りにも幼稚で、周囲の人にきかれることが恥しくなったらしいという。 「なにもわからないんだから、教えてよ、隆司さん」  春子は言った。 「わかりました。なんでもきいて下さい」  弟は、うなずいた。  妙な質問が、はじまった。 「ピッチャーというのは投げる人で、キャッチャーは、球をつかまえる人ね」 「つかまえるなんて言うと、泥棒を逮捕するみたいだから、球を受ける人と言って欲しいな」 「ああ、そう。それから、ピッチャーとその後の方で守っている人は、味方同士よね」 「そうです、そうです」 「でもキャッチャーは、攻める方よね」  春子の質問に、弟は、額に手をあて天井を仰いで嘆息した。 「守る方?」 「当り前じゃないか。キャッチャーは、ピッチャーにどんな球をなげるかサインを出すんだぞ」  圭一も、頭をかかえた。 「そうなの。じゃ、仲間ね。敵なのにサインを出すわけはないですものね」  春子は、納得したようにうなずいた。  春子の奇妙な質問は、さらにつづいた。  弟は呆れ、圭一は恥しくなり、互に顔を見合わせた。が、春子が次にどのような質問を発するかという期待もあって、ひそかに春子の顔に眼を向けていた。  春子は、興味深げな圭一たちの視線にも気づかず、テレビの画面をながめながら質問を発してくる。 「あら、今打った人はアウトじゃないの」  画像の中では、センター前ヒットに出た打者が一塁に走りこんでいた。 「どういう意味?」  弟が、探るような眼をしてたずねた。 「だって、たたいた球を、この人がとったじゃないの」  春子は、中堅手を指さした。 「ああ、そういう意味ですか。打った球が最後にはゴロになったでしょう。ゴロはとられてもアウトにはならないの。球が空にあがるでしょう、それをとった時にはアウト」  弟が、笑いをこらえながら答えた。 「そうなの」  春子は、平然とうなずく。 「ホームランて言うのは、観客席に入るような大きなやつね」 「そう、そう。わかっているんじゃないの」  と、弟。 「それなら観客席に入った球を、直接とったらアウトね」 「いや、それは無理だ。塀を乗りこえてお客をかき分けてとることなどできないでしょう。危くて」 「それは、そうね。ホームランを打つと三点とれるんでしょう」 「三点?」 「だって、一塁、二塁、三塁と走るじゃないの。1塁打は、一つ陣取りしたから一点でしょう」 「一塁打? 珍しい言葉だね。陣取りというのも、なにかおはじきを思い出すなあ。三点なんかとれませんよ。もし一つ塁をふめば一点というのなら、三塁打が三点でしょう」 「そうか。じゃ、ホームランは四点ね」  春子の言葉に、弟は、笑いをこらえきれずに歯列をのぞかせた。 「あのね、姉さん。本塁まで帰ってこないと一点にならないんですよ。だからホームランは、一点なの」 「そういう規則になっているの。スゴロクと同じで上りにならないと点にならないのね」  春子は、感心したようにうなずいた。  テレビの画面では、川上が四球をえらんで一塁に出た。 「今のはフォアボールでしょう。ただで一塁へ行けるのよね」  春子が、得意気に言った。  ただで……という言葉に、圭一も忍び笑いをした。 「不思議に思っていることがあるんだけど、ストライクを投げるピッチャーってばかだと思わない。打ちにくいボールの球ばかり出せばいいじゃないの」  春子が、不審そうに圭一たちを見つめた。  さすがに弟も答える気力を失ったらしく、 「ああ、頭が変になってきた」  と言って、頭をおさえ、圭一の肩によりかかってきた。  圭一も、疲労を感じた。春子が生れてから三十年間、野球の初歩的なルールも知らず生きつづけてきたことが薄気味悪く思えた。 [#改ページ]    金網のこと  七月下旬、休刊していた同人雑誌の再刊第一号が送られてきた。  圭一は、すでにボクサーを主人公にした小説を書き上げ、清書して編集部にとどけていた。しかし、編集部には作品がかなり集っているらしく、圭一の小説は二カ月後に発刊される同人雑誌に掲載予定だという通知を受けていた。その小説は百一枚で、かれにとっては最も長い作品だった。それだけに、掲載が決定したことは嬉しかった。  その頃、かれは、奇妙な経験を味わった。  かれは、その月の上旬、谷中の墓地の五重塔が焼けたことを新聞記事で知った。原因は、塔の内部にもぐりこんだ男女が、放火し心中したからだという。  圭一は、心中した男女を恨めしく思った。かれらには五重塔を死場所にえらんだ必然性はあったのだろうが、谷中の墓地の象徴的な存在であった五重塔を灰にした行為は、余りにも身勝手すぎると思った。  谷中の墓地の近くで生れ育った圭一は、五重塔にも親しみなじんでいた。中学時代に、夜、体を鍛えるためマラソンをしてその前を往き来したこともあった。そうした思い出深い五重塔が消失してしまったことは、悲しかった。  圭一は、土曜日の午後、日暮里駅でおりると谷中の墓地に足をふみ入れた。  十年近くも訪れたことのない墓地だったが、かれは、墓地というものが本質的に変化の乏しいものであることにあらためて気づいた。  少年時代、なじんだ墓石がそのままの姿で並んでいる。樹木も枝ぶりがひろがっているだけで、盛夏の強い陽光に緑の葉を濃くしげらせていた。  五重塔はなく、焼けた材が積み上げられていた。石も土も黒くくすんでいて、うつろな静けさがひろがっていた。近くに住んでいた幸田露伴が、この塔に創作意欲をかられて「五重塔」を執筆したというが、放火心中者によって焼失したことがいかにもこの塔らしい結末なのかも知れぬ、と自らを慰めた。  圭一は、少年時代トンボや蝉とりに歩いたコースに従って墓地の奥に入っていった。蝉の声があたりの樹木から降りかかってきていたが、立ちどまって眼をこらしてみても、少年時代とはちがって蝉の姿を眼でとらえることはできなかった。  上野寛永寺の門がみえてきて、圭一は、舗装路を左へ曲った。  道は、だらだら坂になっていて、やがて鶯谷駅近くの陸橋上に出た。下町の家並が扇状にひろがっていて、浅草方面の街々も遠く望むことができる。  圭一は、陸橋の中央あたりまでくると、コンクリートの橋のふちから下方をながめた。  陸橋の下には、おびただしい線路が平行に走っていて日暮里駅方向に大きな流れのように伸びている。それらは、山手環状線、京浜線をはじめ、東北本線、常磐線、信越本線、上越線等の列車、電車の走るレールであった。丁度、橋の下を列車が日暮里駅方面にむかっているところで、帰省客で満員らしく、両側の窓の列から人の肘らしい白いものがはみ出ていた。  圭一は、ふと妙な物に気づいた。  かれの立っている陸橋の床下から、四ツ手網のような形をした頑丈な金網が、庇のように突き出ている。それは一つだけではなく、等間隔に棟割長屋の庇のように並んでいた。注意してみると、それらは走っている線路の真上に一個ずつ置かれている。  圭一は、ようやくその金網の設置されている意味を理解することができた。  陸橋上には通行人が多く、車道には車も頻繁に往き来している。橋の上から物を投げるような者もいるかも知れないし、それが線路上に落ちれば列車の進行のさまたげになるおそれもある。そうした危険物投棄を防止するために、線路の真上に金網が設けられているのだ、と思った。  しかし、かれはすぐに思い直した。その金網は、物の投棄を防ぐためではなく、人間の体の落下を防止する目的で設置されたものではないか、と思ったのだ。  かれは、同じ町内の老舗の長男が、この陸橋上から下方を進んでくる列車に身を投じて自殺したことを思い出した。  その男は、常に笑顔を絶やさぬ明るい青年で、見合いをし、結婚した。女は、町内で噂になるほどの美貌で、性格も温順のようにみえた。しかし、気性の強い男の母と折合いが悪く、家庭が急に陰惨になったという風評が流れはじめた。  圭一も、その老舗の店先でエプロンをかけた男の妻が、萎縮したような顔で坐っているのを見たこともあった。  長男は、母と妻の板ばさみになって懊悩したが、いったんこわれた家庭の秩序は回復せず、男の妻は実家へ去った。妻を愛していた長男は、妻の実家へ何度も行って、帰ってきてくれるよう懇願したが、それを拒否された男は、夜、陸橋の上から、進行してくる列車目がけて飛び降りたのだ。  列車の車輪は、男の両脚を切断し、男は病院へ運ばれた。  男は、 「早まったことをした」  と後悔の言葉を吐きつづけ、翌日の夜明け近くに出血多量で死亡した。  金網は、その男の死がきっかけで作られたのか、それとも同様の行為をする者が多いために設置されたのか。いずれにしても圭一は、線路の真上に突き出た金網の列が、自殺防止のためのものだと信じた。  不意に、得体の知れぬものが全身を刺しつらぬいた。それは、生れて初めて味わう異様な感覚だった。  眼を金網からそらそうとしても、網目が鮮かに視覚にはりつき、その下方に二条のレールが重って映じてくる。全身が硬直し、その癖下半身が宙に浮いたように無感覚になっている。  圭一は、両足がしきりに動こうとしていることに気づいて愕然とした。足は、陸橋のコンクリートのふちをまたぐことを求めている。足は、やがて金網の上におり、下方へ飛び降りるにちがいない。  かれの体に、ふるえが起った。  真夏の太陽がじりじりと照りつけ、頭も顔も熱くなっていた。が、下半身には、波の寄せるように絶え間なく冷感が通りすぎていた。全身に汗が流れ、意識がかすんできた。  圭一は、自分の足が橋のへりをまたぎ、線路上に飛びおりようとしていることを、なんとか食いとめたいと思った。  もしも、足の欲求に負けて線路上に飛びおり死亡すれば、春子をはじめ肉親、友人、そして未知の人々も発作的な自殺と解釈するにちがいない。自殺のはっきりした理由は見当らなくとも、橋のへりをまたぎ身を投げれば、自ら命を絶とうとしたとしか思えないはずであった。  眼は、金網に据えられたまま動かない。  圭一は、橋のへりをまたごうとする足と必死に戦った。が、かれにはそれを阻止する自信のないことをはっきりさとっていた。  ふと、手術のことが思われた。六時間近くの激痛の中で手術台に縛りつけられながら鯉のようにはねつづけていた十年前の記憶がよみがえった。  ようやく死をまぬがれた自分の肉体が、足の欲求に負けて死体になることは防ぎたかった。死は、いつかは必ず訪れてくる。それまでは、なんとしてでも生きていたかった。息を吸い吐くことを、一度でも多くつづけて死にたかった。  圭一にとって、自殺は無縁のものであった。自分には、自殺をするという心の自由は許されていないと思っていた。肉をメスで切り開かれ、骨をへし折られたかれの肉体は、外科医によって強引に生の世界にひきもどされた。それは、死を受入れる準備をしていた自然の摂理に背反するものであり、違反者としての烙印《らくいん》を押されたかれに、自ら死を選ぶ権利はあたえられていないはずだった。  肋骨を切除された胸部が、急にうずきはじめた。その直後、全身から力がぬけ、かれの膝がくずおれた。金網が視線から消え、かれはコンクリートのへりの下にうずくまった。  汗がさらにふき出し、頭の中に炭酸水の泡がつぶれるような音がみちた。  かれは、息をととのえながらコンクリートの石畳に眼を落していた。そして、指先で石畳をしきりになぜた。しかし、今にも立ち上って陸橋のへりをまたぎそうな予感がしきりに襲ってくる。  かれは、しゃがんだまま手をついた。橋のふちから少しでもはなれたい、と思った。かれは、歩道を車道の方に少しずつ這い出した。  全身が強い力で後にひかれているような感覚と戦いながら、かれは、這った。ようやく歩道と車道の境目にたどりついたが、そのまま立ち上る勇気はなかった。  かれは、石畳を掌《て》で何度もこすった。皮膚が痛くなるほどこすった。そうしたことを繰返すことによって、身を投げようとした意識を忘れ去ろうとつとめた。  ともかく、橋を渡ってしまうことだと、かれは、歩道と車道の境目に手をついたまま、下り坂になっている石畳の上を徐々に逼い下っていた。が、ズボンの膝をよごしたくないという意識は残っていた。高山病にかかった者が下山すればけろりとするように、金網の突き出た陸橋を渡りきってしまえば、恐怖から解き放たれることを知っていたからだ。橋を渡ったなら、手のよごれを洗うだけですませたかった。  恐怖は、依然として全身にみちていた。立ち上れば、橋のへりを乗り越えそうな予感が絶えず襲ってきていた。傍を、自動車が勢よく何台も通りすぎ、埃がその都度舞い上った。  歩道を歩く通行人の足がみえたが、足は例外なく這っている圭一の体を避けるように遠くを動いてゆく。おそらくかれらは、圭一を昼間から泥酔でもしている男と思っているにちがいなかった。  圭一にとって、そう思われることはむしろ幸いだった。橋からとび降りそうになったことを告白することは恥しかったし、もしかすると自殺を辛うじて思いとどまった男と解釈されるかも知れない。  突然、高所恐怖症という言葉が浮び上った。今まではそのようなものが自分の内部にひそんでいると自覚したことはなく、金網を眼にしたための一時的な現象だと思った。急ぐことなくこの場をのがれ出るのだと、かれは、這いつづけた。  ようやく橋がきれて、前方にだらだら坂がのびた。坂は、駅前のにぎやかな街の中に入りこんでいる。 「ここまでくれば大丈夫」  かれは、不安をふり払うようにつぶやくと、立ち上った。  急に身を起したためか、一瞬激しい目まいを感じた。  かれは、坂を小走りにくだった。ようやく危険を脱したことに、深い安堵を感じていた。  その夜、かれは二度も三度もうなされて眼をさました。  夢には陸橋と金網と線路が必ずあらわれ、橋のへりをまたぎかけるところで眼がさめた。胸の動悸がはげしく、体は冷い汗につつまれていた。  一時的な恐怖だと思いこんでいたが、翌日出勤したかれは、自分に顕著な変化が起っていることを知った。ホームの端にたったかれは、ホームにすべりこんでくる電車を眼にすると、線路の上に飛びおりようとしている自分に気づいて顔色を変えた。  改札口を出ると、会社のある町に降りる急な石段があったが、そこをおりるのが恐しく、かれはゆるい坂をくだった。  その後、かれは高所に立つことができなくなった。それが高所恐怖症と呼べるものかどうかはわからなかったが、根強く身にしみついてしまったことだけはたしかだった。  かれは、自分の過去からそうした症状の要因になるものを探った。  小学校二年生の時、両親に連れられて修善寺温泉に行った時、足をすべらせて渓流にのぞむ崖から落ちかけ辛うじて岩をつかみぶらさがった。そんな記憶が残っているだけで、殊更高い場所に立つことをいとう気持もなかった。  かれは、やはり金網が原因なのだと思った。 [#改ページ]    再び勤務のこと  会社内では、依然として圭一が小説を書いていることを気づいている者はいなかった。  自費出版の短篇集が八百部も残っているので、社長にも贈ろうかと思ったが、それによって特殊な眼でみられる煩《わずら》わしさを思うと、本を渡す気にもなれなかった。  社長は、圭一が会社の宣伝用の小新聞に書く原稿に眼を通すのが常だった。そして、必ず二、三個所、朱色の鉛筆で文章を直して返してきた。 「私はね、旧制中学を出た頃小説家になろうと思ってね。世界文学全集や日本文学全集をよく読んだものだ」  社長は、朱を入れた原稿用紙を渡しながら言った。  圭一が社長の訂正した個所をみると、「而るに」とか「且つ」とか古めかしい言葉に変えられている。殊に社長が好む文句は、「周知方ひとえに御願い申し上げます」という結びであった。 「君は、大学の国文科中退だから、もちろん文学全集などは読んだろうな」 「はあ」  圭一は、素直に答える。 「君はなかなかいい文章を書くが、いい小説を読むとさらに文章がうまくなるぞ。幸田露伴とか永井荷風などの小説は、名文だからな」  と、社長は言ったりした。  寝具研究家と自称する荒木重兵衛も、二カ月に一度の割で社にやってきていた。かれの関心は、いつの間にか蚊帳から枕に移っていた。  稀なことではあったが、かれの考案した枕の一つが社で採用され市場に売り出されていた。それは、一方がソバ殻入り、一方がパンヤ入りの枕で、しかもつつむ布が横に長く連結されている。 「老人の高血圧症をいやすにはソバ殻入りの枕がよろしいのです。それは、ソバ殻が熱を発散させるからです。また若い人にも、頭が冷えて熟睡できるのでよろしいのです」  と、ソバ殻入りの枕の効用を述べ、 「しかし、その夜によって柔い感触のパンヤ枕で寝たい時もあります。そのような時には、このように……」  と言って、荒木は、細長い布を中央部で折り、ソバ殻入りの枕とパンヤ入りの枕を重ねて、それを枕カバーでつつんだ。 「つまり両面枕でございます。或る夜はソバ殻、或る夜はパンヤと、自由に使用できます。またこの通り、横にひろげてのばしますと、愛妻と二人で文字通り枕をならべて眠ることもできるのでございます」  荒木は、生真面目な表情で言った。この枕にも荒木は「便利な」という冠詞をつけ、便利な両面使用愛妻枕という長たらしい名称をつけていた。社長は、この考案物を採用して両面枕として製品化し、かなりの好成績をおさめていた。  また荒木は、便利な目覚し旅枕という枕も持ちこんできた。それは、枕の中にオルゴールが仕掛けられていて、起床時刻になると自動的に旋律が湧き出てくる。その旋律は、鉄道唱歌であった。 「寝台車で眼をさました気分と同じで、家に居ながら旅行の気分を味わえる便利な枕です。人生もさながら旅でございますからな」  荒木は、得意気に言った。  しかし、社長は一応感心した風をみせながらも、 「毎日旅をしているようで、あわただしいな」  と、苦笑していた。  会社の業績は、新製品開発に努力する社長の経営方針が功を奏して、着実に上昇していた。そして、各部門の増員も徐々にすすんで、圭一の執務する企画室にも、高校卒の女子社員が配置された。  平田涼子というその女子社員は、十八歳のおっとりした娘であった。体つきは華奢《きやしや》で、色白の顔に淡い雀斑《そばかす》がかすかに散っていて、清楚な少女のように初々しく美しかった。  企画室は、急に華やいだものになって社長の訪れも頻繁になったが、社長は彼女の姓を平林とまちがえておぼえたらしく、 「一八十の木木《モクモク》君」  などと声をかけていた。  社に弟から電話がかかってきた。 「嫁さんになるような娘が、いないかな。江崎だがね、かれの母親から捜してくれと頼まれたんだよ。おれは結婚しているのにかれが独身なのも、友だちとして見せびらかしているようで具合が悪いしさ」  と、弟は言った。  電話をきると、圭一は、なんとなく涼子をながめた。  彼女の父親は小学校の校長だし、姉は一流商社の社員と結婚していると経歴書に書いてあるのを見たことがある。江崎の家も、江戸の頃からの古い商家で、京橋の一等地に紳士服専門店をひらいている。江崎と涼子の家は、家庭的にも釣合いがとれているように思えた。  ただ江崎は二十六歳で結婚するのに頃合いの年頃だが、平田涼子は結婚するには痛々しい年齢だった。 「平田君、君には恋人か親しい男の友人がいるのかい」  圭一がきくと、 「いいえ。なぜですか」  と、彼女は驚いたような顔をした。 「いや、一応きいたまでだ」  と、圭一は、言った。  翌日、社用で日本橋まで行った圭一は、帰途、テーラー江崎に立ち寄った。江崎は、かれの兄と、客を送り出すところだった。 「いい娘がいるんだがな」  圭一は、涼子のことを説明した。  江崎は、照れ臭そうに笑いながらきいていたが、 「すると、その娘は、頭がよくて、スタイルがよく、色白の美人で性格もおだやかだし家もいい。すべていいずくめじゃないですか」  と、指を折りながら言った。 「そうさ。あんないい娘はいないよ」  圭一は、率直に言った。 「そんなにいい娘なら、私、もらいますよ」  江崎が、急に真剣な眼をした。 「なんだって? 冗談じゃないぜ、見ないで結婚相手をきめる奴がいるかい」  圭一は、思わず笑い出した。 「いえね。先輩がいいって言うんだから、いいにきまっているでしょう。ね。なにも私は軽率なことを言っているんじゃないですよ」  江崎は、反撥した。 「しかしね、あんたはいいとしても、彼女の方があんたを気にいるかどうかわかりゃしないじゃないか」  圭一が呆れたように言うと、 「あ、そうか。相手のあることなんですね、結婚というのは……」  と言って、江崎は笑い出した。  江崎が乗気になったので、圭一は、平田涼子への工作をはじめた。かれは、昼の休憩時に小さな弁当箱をひろげている涼子に、結婚を前提に江崎と交際してみる気はないか、と問うてみた。 「私がですか」  涼子は、甲高い声をあげた。  彼女が驚くのも無理はない。高校を出たばかりの彼女には、結婚などまだ数年先のこととしか思えぬのだろう。 「会ってみて、気に入らなければことわればいい。僕なんか恋愛結婚だったが、見合というものを一度はしてみたかった。何事も経験だ、会うだけでも会ってみたら……」  圭一は、すすめた。  涼子は、すっかり狼狽し、 「困ります。私は、まだ結婚なんて……」  などと言って食事もやめてしまったが、さらに説得すると、 「それなら、会うだけ会ってみます」  と、ようやく同意した。  圭一は、江崎と涼子を会わせる上で、一応の筋を通さねばならぬと思った。それには、まず涼子の両親に、江崎と会わせる機会を作ってもよいかどうか同意を得る必要があった。  かれは、便箋に、結婚相手を捜している江崎に涼子を引合わせてもよいかと書いた。そして、江崎の年齢、学歴、家族状況、性格などを詳細に記し、会う時間も夕刻までとしたいと書き添えた。 「これを御両親に見せて、同意を得たら会ってみなさい」  と、圭一は、その手紙を涼子に渡した。  おそらく両親は、十八歳という涼子の年齢にこだわって不同意の回答をしてくるだろうと思っていたが、翌日涼子の持ってきた母親の手紙には、 「不束《ふつつか》な娘でございますが、よろしく御願いいたします」  と、達筆の文字で書かれていた。  圭一は、早速江崎に電話をかけた。 「会うそうだ。親の諒解も得た。ただし親にとっては大事な娘だから、会っても足もとの暗くならないうちに帰宅させることだ。明日の土曜日の午後にでも待合わせたらどうかな」  圭一が言うと、 「わかりました。でも、女の子と待合わせるなんて照れ臭えな」  江崎は、笑いなが言った。 「ところで、どこを待合わせの場所にするかな。僕は明日仕事があって午後も会社から出られないんで、ついてゆくわけにはいかないんだが……」 「そうですか」  江崎は思案しているらしく、しばらく黙っていたが、 「上野の山の西郷さんの銅像の前ではどうですか」  と、言った。 「古いね。大正時代じゃないんだぜ。関東大震災の被災者の待合わせみたいだな」  圭一は、苦笑したが、いかにも下町育ちの江崎らしいとも思った。 「でも、銀座の服部時計店の角や渋谷のハチ公の像の前じゃ、多くの男や女が相手を待って立っているでしょう。一度も会っていないんだから、迷っちゃいますよ」  江崎の不安らしい声が流れてきた。 「わかった、わかったよ。西郷さんの前に午後一時だね」  圭一は、可笑しさをこらえながら電話をきった。  翌日、出社してきた涼子は、新調したらしい服を着、胸に造花をつけていた。おそらく母親が、涼子をよそおわせて送り出したのだろうが、圭一は、涼子の若さを思うといじらしくも感じた。  涼子は、気恥しそうに仕事をつづけ、正午になると、ためらいがちに帰り仕度をはじめた。 「いいね、上野の西郷さんの銅像の前だ。江崎は、眼鏡をかけ、丸めた新聞紙を持って立っているそうだから……」  圭一は、念を押した。 「それでは、行って参ります」  涼子は、圭一に頭をさげると、ドアの外に出て行った。  圭一は、頼んでおいたカレーそばが来たので箸をとった。そして、そばをすすりながら、二人がうまく打ちとけるかどうか不安に思った。江崎は幾分荒っぽい性格だが、さっぱりした男で曲ったことが大嫌いであった。その江崎のよさを、十八歳の涼子が理解できるかどうか心許なかった。  時計の針が、午後一時をさした。二人が、ぎこちなく名を名乗り挨拶し合っている光景が眼に浮んだ。  圭一は、煙草を一服すると仕事にとりかかった。月曜日の朝に、宣伝用新聞の原稿をまとめて印刷所に渡さなければならなかったのだ。  電話交換台からのサイン音があって受話器をとると、交換手が江崎から電話がかかっていると告げた。そして、すぐに、 「もしもーし」  という江崎の特徴のある声が流れ出てきた。 「どうしたい」  と圭一が言うと、 「先輩、私、帰りますよ」  江崎が、言った。 「なぜ」 「来ないんですよ。西郷さんの前には、中年の夫婦と孫らしい赤ん坊をおぶったお婆さんが日向ぼっこをしているだけで、若い娘なんていませんよ」 「社は出ているんだから、もう行くさ」 「そうですかね。待たされてしびれをきらしているんですよ。なんだか無暗《むやみ》にけたくそ悪いから、帰ります」 「おいおい、今、いったい何時だと思っているんだい。一時五分だぜ。わずか五分おくれたからって腹を立てるやつがいるかい。そんな気の短いことで結婚なんてできるかよ。女はともかくスローモーなんだ。来なけりゃ一時間でも待つんだな」 「一時間。そうですか、先輩がそう言うんなら待ちますよ。でも腹が立つなあ」  それで、電話がきれた。  いかにも江崎らしい、と圭一は思った。江崎は、涼子と待ち合わせるのが照れ臭く、それが五分の間に苛立ちに変ったのだろう。まるめた新聞紙を手に、西郷さんの銅像の前を往ったり来たりしている江崎の姿が、ほほえましいものに想像された。  ふと圭一は、涼子が場所を捜しあぐねているにちがいないと思った。山の手育ちの涼子は、上野の山の西郷さんの銅像などと言っても知っているはずはない。略図を書いてやればよかったと後悔したが、それきり江崎からの電話もなく、二人が会うことができたらしいと推測した。 [#改ページ]    友人たちのこと  翌日は日曜日で、圭一は夜明けまで小説を書き、就寝した。プロボクサーを主人公にした「鉄橋」という小説が掲載された同人雑誌も送られてきていたので、かれは新たに手術時のことを中心にした私小説風の小説を書きはじめていた。  正午近くに起きた圭一が春子と子供と午食をとった後、茶をのんでいるとドアのノックされる音がきこえた。  出ていった春子が、 「あら、江崎さん。よくいらして下さったわね。さ、お上り下さい」  と、言う声がした。そして、部屋にもどってくると、 「江崎さんが可愛いお嬢さんを連れていらしたけど、会社の平田さんていう人じゃないかしら……」  と、低い声で告げた。  圭一が出てみると、妻の言う通り江崎の後に涼子が立っていて、恥しそうに頭をさげた。圭一は、二人の表情にうまく打ちとけたらしいことを感じたが、訪れてきた意味が理解できかねた。  三畳間に通すと、圭一は涼子に、 「昨日はどのくらい遅れた?」  と、たずねた。 「七分です。挨拶したら、どうして遅れたと初めから怒るんで驚きました」  涼子は、恨めしそうに江崎の横顔を見たが、その顔は明るかった。  すでに二人が親しみを抱きはじめていることに、圭一は安堵した。 「それでですね、先輩。これを女房にもらいたいと思いましてね」  江崎は首筋をかくと、思いきったように言った。  圭一は、呆気にとられて江崎の顔を見つめた。 「待ってくれよ。君は昨日この人と会ったばかりなんだぜ」 「それはそうですが……」 「第一、君はいいとしても、肝腎の平田君の気持もきかなくちゃ、一方的にはきめられないじゃないか」  圭一は、江崎をたしなめ、涼子の顔をうかがった。 「江崎さんて、せっかちなんです。怒った後、喫茶店に連れてゆかれたんですが、十分もたたぬうちに急に、おれの女房になれと言い出したんです」  涼子は、顔を伏せた。 「困ったろう?」 「困りました。女房になれなんて、時代劇映画の火消しかなにかが言うみたいで……」 「断わったんだろ」 「いいえ」  涼子は、低い声で答えた。  圭一は、唖然として涼子の顔をみつめた。 「ね、先輩。これもいいって言うんですよ」  と、江崎が照れ臭そうに甲高い笑い声をあげた。そして、 「それで、まあ、昨日二人打ちそろって先輩のところへ伺おうとしたんですがね。先輩が足もとの明るいうちに、これを帰せといったでしょう。ですからその約束を守って、今日あらためて西郷さんの銅像の前で会ってうかがったわけなんです」  と、生真面目な顔をして言った。  圭一は、無言で江崎と涼子の顔をながめていた。  前日の午後、初めて会っただけで結婚をきめたというが、それは江崎の性急な強引さに涼子が屈したからにちがいなかった。しかし、二人の意志はきまったとしても、それぞれの両親の同意を受けねばならない。そのことに圭一がふれると、 「おふくろはいいと言ってました」  と、まず江崎が答えた。 「君の方はそうかも知れぬが、問題は涼子君の両親だ」  圭一が不安そうに涼子の顔をみると、 「昨夜家に帰ってから両親に話しましたら、驚いていました。殊に父がまだ若いからと反対しましたが、母が賛成してくれて結局父も同意したんです」  と、涼子は答えた。  圭一は、助けを求めるように、 「おい、春子。来てくれ」  と、隣室に声をかけた。  春子が、すぐに顔を出した。 「昨日会っただけで、もう結婚をきめてきたんだ。双方の両親も賛成なんだって。こんなことでいいのかね、こんなことで……」  圭一は、訴えるように春子の顔を見上げた。  さすがの春子も呆れたらしく、眼をみはった。そして、急に分別臭い表情になると、膝を廊下につき、 「平田さん、もう少し考えた方がよくないですか。私なんか結婚するまで二年もかかったのよ、考えるだけで……」  と、言った。 「そうなんだ、おれは二年も待たされたんだ。会った日にきめるなんて、少し早すぎると思うな、おれは」  圭一も、力をこめて言った。 「それにね、平田さん。男ってわからないものよ。バクチ好きか女狂いか、外見では見分けがつきませんからね」  春子は、まじめな顔つきで言った。 「そういうものでしょうか。母は、室長さんが保証する人だから心配はないだろうと言っていたんですけど……」  涼子の顔に、不安の色が濃く浮んだ。 「おい、おい、春子。妙に水をさすようなことを言うなよ」  圭一は、うろたえた。  春子が、笑い出した。 「それはね、主人は江崎さんを中学時代から知っているし、戦時中に一緒に買出しにも行った間柄だと言いますから、人物は絶対保証できますけどね……」  春子の言葉に、涼子は真剣な眼をしてうなずいた。 「一目惚れというのもあるのだから、三、四時間で結婚をきめてもいいのかも知れないな。でも、少し早いような気がしないか」  圭一が春子の顔をうかがうと、春子も、 「たしかに少し早いわね」  と、相槌を打った。 「ともかく、江崎君の人間は僕が保証する。ただし、どんな欠陥や癖があるかは知らないよ。君、なにか変なところがある?」  圭一は、江崎にたずねた。 「変なところって、どういう……」  江崎が、いぶかしそうな表情をした。 「例えば、夜寝る時に逆立ちしなければ眠れぬとか、おヘソが背中にあるとか」 「いえ、夜は横になって眠りますし、おヘソはここにありますが……」  江崎は、腹を掌《て》で押した。  江崎と涼子の結婚話は、順調に進んだ。  それぞれの母親が連れ立って訪れて来て、突然仲人をしてくれという申し出でを受けた。  圭一も春子も狼狽した。圭一は三十歳で、仲人を引受ける年齢ではないし、社会人としての資格もない。しかし、圭一の引合わせで結婚できることになったのだから、どうしても引受けて欲しいと懇願され、やむなくその申し出でを受けることになってしまった。  圭一は、早速書店で、「冠婚葬祭早わかり」という本を買い求め、仲人の心得という個所を繰返し読んだ。そして、大安吉日に当る日曜日を選んで結納を取り交すことにした。  結納は午前中に、それが無理な時でも昼間のうちにすませなければならぬと本に書いてあるので、圭一は、朝家を出ると、まず江崎の家に行った。  江崎が母や兄夫婦と神妙に座につき、圭一は結納品を受けとると、涼子の家に行った。そこでも涼子の両親が正装して待っていて、圭一を上座に据えた。  圭一は、口上を言うのが照れ臭くてならなかったが、涼子の家族にとっては厳粛な儀式でもあるので、 「本日は、誠にお日柄もよく……幾久しく御受納下さいませ」  と、暗記した口上をかすれ声で述べた。  酒肴が出て杯を重ねているうちに、圭一はふと涼子の父親の眼に光るものが湧いているのに気づいた。  圭一は、急に身のひきしまるのを感じた。母親は喜んでいるが、父親はひそかに悲しみに堪えている。娘が若い男のもとに嫁いでゆく。それは、喜ぶべきことにちがいないが、誕生以来愛育してきた娘が家から出て他家に移ってゆくことでもある。  おそらく娘は、父親にとって恋人に近いものではないのだろうか。その娘が、嬉々として他の男のもとに赴こうとしていることにひそかな淋しさも味わっているにちがいない。しかも、涼子は、十八歳という若さで、父親から考えれば、家庭の人とさせるのは痛々しく、もう少し家にとどめておきたいのだろう。  圭一は、端正な顔をして杯を口に運んでいる涼子の父親に申訳ないことをしてしまったと思った。  一時間ほどしてから、圭一は江崎の家に引返し、結納を無事におさめたことを報告した。  江崎は、かれの母や兄と折目正しく礼を述べると、 「さあ、一杯やりましょうや」  と、あぐらをかき、酒をすすめた。  圭一は、酒を飲みながら涼子の父の眼に涙が光っていたことを江崎に告げ、 「彼女を大事にしてやってくれよ。おれはそんなことを言える年齢じゃないが、君も今に娘を持てば、娘を嫁がせる父親の悲しみがわかるようになるだろう」  と、忠告した。 「わかりました」  江崎は、坐り直すとうなずいた。  江崎と涼子の結婚式は、一カ月後に日枝神社の社殿でおこなわれ、中華料理専門の料亭で披露宴がひらかれた。そして、二人は肉親たちに見送られ新婚旅行にハイヤーで出て行った。  涼子の父親は、車が門の方へ去ってゆくのを見送っていた。  十二月に入って間もなく、圭一は、社長から仙台出張を命じられた。  業績が伸びたのに気をよくした社長は、東北方面への販路を開拓するためその中心地である仙台に営業所を設置しようと考えたのである。それは、東北地方出身の社長の郷愁に似たものであったのかも知れない。  社長は、営業部長と数度東北地方をまわって市場調査をおこなっていた。そして、一応の判断を得たらしく、新製品の開拓に従事する企画室の責任者である圭一にも仙台の空気を味わいながら、商品傾向をしらべてくるよう命じたのだ。  結婚直後、東北から北海道にかけて春子と放浪に近い旅をしたが、それ以来列車に乗ったこともないかれは、社長の出張命令をありがたく受けた。  上野駅から乗った急行列車はすいていた。  車窓の外を走る沿線風景をながめていると、結婚以来の生活が反芻された。生活は、会社勤めのおかげで一応安定している。生れた男の子も、脾弱《ひよわ》だが病気らしい病気もせず成長し、歩きまわるようになっている。問題は創作だが、同人雑誌に平均年三作は必ず作品を発表し、それは春子も同様であった。  文壇ジャーナリズムに認められるか否かは甚だ心許ないが、書きつづけてゆけば、いつかは恵まれた機会をあたえられるかも知れないと思った。  いずれにしても、自分の思う通りの生き方をしているようだ、とかれは満足した気分になった。  仙台についたのは午後で、かれは、まずデパートの寝具売場に行き、さらに繁華街の大きな寝具店に入ってみた。  ふとんや毛布などの柄は東京と大差なかったが、北国らしく寝具類は、寒気をしのぐことを第一に考えている節がみられた。ふとんも厚く、それは内部に多くの綿がつめこまれていることで、寝具を売ることができれば、そのまま綿の売上げの向上に結びつくことはあきらかだった。  いつの間にか夕色が、ひろがりはじめていた。  かれは、明日仕事をつづけることにして、公衆電話のボックスに入るとダイヤルをまわした。受話器の中からは不愛想な男の声がして、やがて癖のある鼻濁音のような久松の声が流れ出てきた。  圭一が名を口にすると、 「なんだ、仙台に来てたのか。そうか、それじゃな、支局へ来てくれよ。おれはな、今忙しくて手がはなせねえんだ」  と言ったが、一寸待ってくれとしばらく黙っていた後、 「実はな忙しくもなんともないんだが、支局長の手前、忙しそうにみせなくちゃならなくてな。今夜は一杯、やろう。来いよ、待ってる」  と言って、電話がきれた。  久松は、中学時代の友人で、一高、東大をへて著名な新聞社に入社している。入社後、かれは青森支局に赴任し、そこで数年をすごした後、仙台支局へ転勤になってきていたのだ。  久松と会話を交しながら酒をくみ交すのは楽しい。純粋という言葉そのままの友人ではあったが、かれは、稀にみるそそっかしい幼児のような男でもあった。  圭一は、久松の勤務する新聞社の方へ歩きながら、十年前那須の宿に逗留していた頃のことを思い起していた。それは結核の手術を受けた翌年の夏のことで、圭一は療養のため奥那須の旭温泉に行っていた。  そこは眼下を一望できる那須岳の中腹にあって、台地に細長い廊下でつながれた客室が南向きに一列に並んでいる。その宿は原則として自炊で、近くの谷にある北温泉の宿屋の主人が兼営していた。その宿に、圭一のすすめで一高生の制帽をかぶった久松が東京からやってきて、圭一と起居を共にするようになった。  日射しは強かったが、宿の周囲には涼しい空気が流れ、朝と夕方には近くの谷から霧が湧いた。圭一は、その環境に満足しきっていたが、久松はなすこともない山の生活に退屈しきっていた。  碁を習いたての久松は、囲碁を圭一に教えてやると繰返した。 「いやだと言ったらいやだよ。おれは、体をもとにもどすだけで精一杯なんだ。碁のルールなんておぼえる気力はないね」  圭一は、すげなくことわる。  しかし、久松は、碁が精神統一によいとか、碁石をにぎると石の表面から活力を誘い出す波が指から全身にひろがって体の恢復に効果があるとか、妙な理窟を並べ立ててしきりに圭一を誘う。 「そんな変なことを言わないで、碁は退屈をまぎらわすのにいいと言ったらどうなんだい。そんな妙な理窟をこねまわすから、おれだって素直になれないんだ」  圭一は、素気なく窓外に顔を向ける。 「わかった、わかったよ。君の言う通りだ。碁は退屈しのぎにもってこいなんだ」 「初めからそう言えば、物事は紛糾しないんだ」 「そうだった、おれがわるかった。たしかに碁は退屈しのぎに効果があるんだ。君も碁をやってくれるね」  久松が、媚びるような声を出した。 「いや、おれはやらないよ。おれは少しも退屈などしていないんだ。雲の流れをながめたり、下界を見下してるだけで満足しているんだから……」  圭一は、とぼけたように答える。 「そうか、そちらは退屈していないのか。しかし、残念だなあ、碁は面白いんだがなあ」  久松は、口惜しそうに嘆息した。  宿には圭一たち二人しかいないので、久松は、午後必ずやってくる山歩きの郵便配達人のくるのを楽しみにしていた。そして、郵便配達人が山道をあがってくると、声をかけ、その後について林の中の道を話しながら次の温泉地まで行くこともあった。それ以外の時は、逆立ちして前庭を往ったり来たりしてみたり、宿屋の前に立つ樹にブランコを作って身をゆすったりしていた。  或る雨の日、圭一に一人の青年が訪れてきた。  その青年の母は、二里ほど下った山間の小さな村の農家の主婦で、毎年夏に自炊をする宿の客に野菜などを持ってきて売っていた。学生時代に毎夏避暑にきていた圭一の次兄が青年の母と顔なじみになっていて、圭一が宿にいることを知った青年の母は、息子に農作物をかつがせて山道を登ってこさせたのだ。  久松は、青年の出現を喜び、雨にぬれた肩をタオルで丁寧にふいてやったりしていた。  青年は、背負い籠の中から野菜類、米、卵などを次々にとり出し畳の上にひろげた。さらに山歩きに必要だろうと、自製の杖も渡してくれた。かれは、標準語を話そうと努めているらしく、そうだ、とか、ちがうとか抑揚のないぶっきら棒な話し方をする。 「山の中の農村暮しは退屈でしょうね」  久松が、言った。 「いや、退屈はしない。夏には、盆踊りがある。青年会で、話もし合う。将棋もする、碁もする」  青年は、言葉を句切るように答えた。 「碁? あなたもするんですか」  久松の顔に、たちまち血の色がのぼった。 「おれも、する。村で、おれの碁にかなう者は、いない」  青年の言葉に、久松は眼を大きくひらき、圭一の顔を見た。その顔には、思いがけぬ幸運にめぐまれた歓びの色があふれていた。 「やりましょうか、碁を」  久松が、せきこむような口調で言った。 「あなたとか」 「そうです」 「やろう」  青年がうなずくと、久松はすぐに立ち上り、部屋を出て行った。そして、廊下を帳場の方へ走る足音がした。  やがてもどってきた久松は、 「ここには碁盤がなくてな、本館の北温泉に電話したら、あった。これからすぐ取りに行ってくる」  と言って、あわただしく番傘を手にすると、部屋の廊下から前庭におりた。  霧が流れていて、かれの姿はすぐに霧の中に消えた。  北温泉は深い谷の底にあって、片道一キロ半はある。往復三キロの山道を、谷を下り上ってくるのはかなり難儀で、療養している身の圭一は、二十日近く滞在していたが北温泉まで行ったことは一度もなかった。  よほど退屈しているのだな、と圭一は苦笑した。久松にとって、碁の上手な農村青年の出現は、地獄で仏に出遭ったような喜びなのだろうと思った。  一時間ほどして、 「おーい、持ってきたぞ」  という久松の叫び声がきこえた。  ガラス戸をあけてみると、番傘を手に籠を背負った久松が、裸足で雨の中を小走りに歩いてくる。そして、廊下で足を拭うと、籠を背負ったまま部屋に上ってきた。  かれは、息を荒くつきながら籠の中から古びた碁盤をとり出すと、青年の前に据えた。そして、 「さあ、やりましょう」  と、言った。  久松は、急いで山道を歩いてきたらしく、顔には汗が流れていた。  かれは、碁笥のふたをとると、白い石の入っている方を青年の前に押しやり、自らは黒石をつまんだ。碁を習いおぼえたばかりの初心者であるかれは、村一番の打ち手だと称する青年に敬意をはらったのだ。  久松が、興奮したように息を大きくつくと、黒い石を碁盤の隅に置いた。  その瞬間、青年の顔にかすかな戸惑いの表情がうかんだのを、圭一は気づいたが、それがなにを意味しているのかはわからなかった。  青年は、坐り直すと盤面を見つめながら、徐ろに碁盤の中央に白い石を置いた。その石は鞭打つような鋭い音を立て、青年が碁を打ちなれていることをしめしていた。  碁盤の中央に白い石が打たれたことは、久松を驚かせた。かれは、ぎくりとしたように正坐した青年の顔を見上げると、 「天元ですか。呉清源ばりだな」  と、再び盤面に眼を据えた。  呉清源が、第一目の石を盤の中央に打ったということは、碁を打たぬ圭一も知っていた。久松は、青年が呉清源と同じ戦法を使ったことに呆然としているようだった。  青年は、山間の小さな村で村人たちを相手に碁を打っているという。町から遠く孤絶した村で、青年は独自の戦法を編み出しているのかも知れない。  久松にとって、青年は、山中で修行する剣士のように見えたにちがいない。久松は、体を何度も動かした後、再び黒石を碁盤の隅に置いた。かれの顔には、萎縮した表情が濃くあらわれていた。  青年は、白い石をつまむと、ためらいもなく盤の中央におかれた白石の傍に打った。  久松の口から大きな吐息がもれ、かれは、顎を掌《たなごころ》でつつみ盤面をのぞきこんだ。  圭一は、ふと或ることに気づいた。と同時に、激しい笑いがつき上げるのを意識した。  久松は、熟考していたが、未熟な初心者であるかれには適当な対抗策も考えつかぬらしく、 「それでは、こちらは正攻法で……」  とつぶやいて、黒石を盤の隅に置いた。  すでに白い石をつまんでいた青年が、すぐに盤の中央に石を並べて打つと、 「三ッ」  と、甲高い声で言った。  その瞬間、久松の口から短い叫び声がもれ、青年の顔を凝視し、圭一の顔を見た。かれは、口を半開きにし、余りの驚きで放心したようにみえた。  圭一は、たえきれず笑い声をあげた。久松は、碁を囲碁と思いこんでいたが、青年の碁は五目並べであったのだ。  圭一の笑い声に、久松は情なさそうな苦笑をつづけた。  青年は、事情がつかめぬらしく、圭一と久松をいぶかしそうにながめている。 「久松、お前の番だぞ」  圭一が笑いをこらえながら言うと、 「そうか、よし、それならそれで……」  と、黒石をとると、青年が三個並べた白い石の列の一端をとめた。  碁盤の隅に三個の黒石が置かれたままの、奇妙な五目並べがつづけられた。  久松は、時折圭一の顔に照れ臭そうな眼を向けながら石を打っていたが、当然のことながら青年の勝ちになった。  中学生の頃から、久松のそそっかしい性格は目立っていたが、その日の久松に、圭一は、あらためて呆れた。そのかれが東大を出て、著名な新聞社に入社したことを知った圭一は、友人たちとかれが思わぬ失策をおかしはせぬかと危ぶんだ。 「美人の首なし死体発見」という見出しをつけた新聞があったというが、かれも同様の滑稽な失敗をするのではないかと不安に思った。  しかし、かれは大過なく新聞記者としての勤めを果しているようだった。それを知ったのは、三年前、青森支局に勤務中のかれを訪れた時であった。  久松が新聞社に入社し青森支局に赴任して間もなく、圭一は、青森へ行った。青森市内で毛製品を販売しようと思ったからであった。  知人もいない圭一は、久松にあらかじめ連絡をとっていた。  列車が青森駅につくと、長靴をはき、鳥打帽をかぶった久松がフォームに立っていた。雪が、霏々《ひひ》と舞っていた。 「今夜は、おれがおごるぞ」  かれは、降雪の中を先に立って歩き出した。 「下宿の婆あは、雪がのんのん降ると言うが、本当にのんのんと降るんだ」  久松は、市内の地理を知っていることを自慢するように露地から露地をつたわって広い道に出た。そして、歩道にならぶおでん屋の屋台の一つに顔をつき入れた。 「婆さん、今夜は飲むぞ。今夜の勘定は現金払いだ」  久松は、常連客らしい鷹揚《おうよう》さで縁台に腰を下した。  圭一は、久松とお銚子を代えつづけた。かれは、時々のれんの外に顔を出すと、 「おう、雪がのんのん降ってる、降ってる。雪の降る夜に飲む酒はうまいな」  と、上機嫌にはしゃいでいた。  その夜、圭一は久松の下宿先に行き、宿泊料をはらって一週間逗留することにきめた。久松は、夕方支局から下宿に帰ってきた後も定時に警察まわりをする。消防車のサイレンの音がすると、ふとんからはねおきて下宿を走り出て行った。  ふと圭一は、久松がオーバーを着ていないことに気づいた。 「オーバーを持っていないのか」  ときくと、 「修理に出してある。ブン屋はオーバーがないからと言ってへこたれるようじゃ仕事にならない」  と、久松は、こともなげに言った。  しかし、青森についてから三日目の夕方、下宿にもどると、久松はふとんに身を横たえていた。かなりの熱らしく、顔は上気したように赤く染まり、咳をしきりにしていた。下宿の女主人の話によると、寒気がするともどってきた久松の体温をはかると、三十九度の高熱で、早速医師を呼び注射を打ったという。  圭一は、元気のない久松の枕元に坐ると、 「オーバーを着ないで歩きまわれば、だれだって風邪をひくよ」  と、言った。相変らずそそっかしいかれのことが心許なくなった。 「おれが修理中のオーバーをとってきてやるから、洋服屋の住所を教えろよ」  圭一が言うと、 「うん、しかし、それがだな」  と、曖昧なことをつぶやいていたが、 「実は、これだ」  と言って、ふとんの下にさし入れた財布をとり出すと、中から一枚の紙片をとり出した。それは、質札であった。 「君が来るというのに金がなくちゃ歓迎もできないからな。オーバーを質に入れたんだ」  久松は、照れ臭そうに苦笑した。  オーバーがおでんと酒に代ったわけだが、かれは、 「真相を告白したら気分が大きくなった。おい、風邪が直ったら、お前にじゃんじゃんおごらせるぞ」  と、熱に喘ぎながら叫んだ。  久松は、一高、東大を経て大新聞社に入社したことからもあきらかなように、いわゆる秀才型に属していた。しかし、そうした人間にありがちなひどく欠落した部分もある。それを社会常識に欠けた人間と評することは容易だが、かれの場合は、生来の純粋さがその欠落部分を人間味ゆたかな愛すべきものにしているようだった。  圭一は、オーバーを質入れして歓待してくれた久松のことを思い出しながら、電話で教えられた住所をたよりに支局のドアを押した。  受付の若い女の指示で階段を上ると、 「おーい、ここだ」  と、部屋の中央で久松が手をあげ、声をかけてきた。  圭一が、机の間を縫うようにして近づくと、 「おれはな、今日もらった月給から八千円昇給したんだぞ。まさか、それを知ってたかりに来たんじゃないだろうな」  と、久松は、月給袋をつかんで叫んだ。  近くの机の前に坐る同僚たちは、可笑しそうに頬をゆるめている。が、かれらの顔には、そうした久松の言動になれきっているらしい表情がうかんでいた。 「相変らずだな、そんな金のことを大声で言うんじゃないよ」  圭一が低い声でたしなめると、 「そうか、そういうものか」  と、久松は、素直にうなずいた。  久松が原稿を書き終るのを、圭一は待っていた。  久松は、中学時代と同じ楷書の大きな字でザラ紙に鉛筆を走らせる。その筆の動きは素早く、かれが新聞記者生活になじんでいることをしめしていた。  やがて圭一は、久松とともに支局を出て、タクシーで飲屋街に行った。  久松が案内してくれたのは、小さなおでん屋だった。青森を訪れた時もおでん屋の屋台に案内されたが、かれはおでん屋以外で飲むことを知らぬようであった。 「忙しくてね、新聞記者はサボルことが出来ない職業だからな」  久松は、杯を傾けはじめた。  そのうちに、久松は、 「おい、お婆あ、今月から月給が八千円も昇給したんだぞ、驚いたろう。八千円だぞ」  と、甲高い笑い声をあげた。 「久松、もうわかったよ。ほかの客が笑っているぞ」  圭一が苦笑すると、久松は、 「そうか、客が笑っているか」  と、周囲を見まわし、うなずく。  しかし、少し時間がたつと、久松は、再び立ち上って八千円と叫ぶ。おでん屋の女主人は、久松が立ち上って、 「おい、お婆あ」  と声をかけると、すぐに、 「久松さん、八千円の昇給でしょう」  と、話の腰を折る。 「そうだ、八千円だ」  久松は、嬉しそうに腰を下す。そんなことを久松はくり返し、女主人も同じ答えを反復する。そのうちに、女主人が、 「税金もそれだけ余計にとられて大変だね」  というと、久松は、一瞬絶句した。  かれは顔をこわばらせて、月給袋の中をしらべはじめた。 「しまった、税金だ。三千円余計にとられている」  かれは、情無さそうな眼をして女主人の顔を見つめた。  おでん屋を出た久松は、すっかりしょげていた。八千円の昇給を喜んでいたかれは、源泉税がそれだけ余計に差引かれていることに落胆していたのだ。 「今度は、おれがおごる番だ」  圭一は、久松の気持を引立てるように言った。久松は、税金をひかれた昇給分の半ばを、おでん屋で支払ってしまっていた。 「そうか、それじゃ民謡酒場へ行こう」  久松は、急に元気づくと先に立って歩いた。  小さな酒場を想像していた圭一は、久松の案内してくれた場所が意外な大きさであることに呆れた。その酒場は、街角にあって、劇場のような建物だった。舞台が遠くみえ、その周辺に枡席が扇状にひろがっている。客は、その枡席に坐り、舞台に立つ振袖姿の女の民謡をききながら、酒をのみ料理を口にはこんでいる。それは圭一に大相撲見物を連想させた。 「いい所だろう。酒をのみながら民謡がきける。それでいて値段は安い。おれは、時々ここへ来ていい気分で時をすごすんだ」  久松は、得意気に言った。  圭一は、物珍しいこともあって久松と酒をくみ交していたが、なんとなく気分がわびしくなってきた。民謡のおはやしはにぎやかだったが、多くの酔客の騒々しい声の中できいていると、神社の境内にはられた見世物小舎に入っているような感じがして、芸人の歌う姿も哀しく思えた。  圭一は、満足したように舞台の方をながめながら杯をかたむけている久松に、 「そろそろ引揚げようや」  と、声をかけた。 「そうか、引揚げるか」  久松は、素直に同意すると腰をあげた。  地理不案内の圭一を気づかって、久松は、宿屋の前まで送ってきてくれた。 「明日も泊るんだろう。電話をかけてくれ、また一杯やろう」  久松は、手をあげると道を去って行った。  翌朝、圭一は、朝食をすますと、すぐに商店街へ足を向けた。社長から命じられたかれの仕事は、寝具店で売られている商品傾向の調査だったが、それは、気分転換に旅行をさせてやろうという社長の好意でもあった。  社長は、二泊の予定でと言ったが、市街を歩いてみると、それほどの時間を要するものでないことがすぐにわかった。どの寝具店をのぞいても、商品傾向に差はなく、前日の調査で仕事は十分に終っていることを知った。  おそい午食をとりにそば屋へ入ると、後はなにもすることがなくなった。  帰ろうか、とかれは思った。  その瞬間、かれの胸に帰りたいという願いが異常な強さでつき上げてきた。仕事は終ったし、時間も惜しい、とかれは自らに言いきかせた。  かれは、自分の感情をおさえきれず、そば屋を出ると、あわただしく宿屋にもどった。そして、勘定をすませると、タクシーで駅に急いだ。上りの列車が発車寸前で、かれは急いで切符を買うと車内に走りこんだ。  久松には葉書でも出して詫びよう、と、かれは車窓を流れはじめた人家の連りをながめながらつぶやいた。 [#改ページ]    夫と妻のこと  私鉄の駅におりると、商店街は暗く、人通りも絶えていた。時刻は、一時を過ぎていた。  一日早く帰京したことは、妻の春子を喜ばせるにちがいない。春子は、子供と二人の生活を心細がっているはずだった。  アパートの階段を上った圭一は、自室のドアをノックした。春子は眠っているらしく、応答はない。  再びノックすると、春子の寝呆けたような声がした。 「どなた様ですか」  ドアの向う側で、春子の声がした。 「おれだ」  圭一が言うと、ドアがすぐにひらいた。 「あら、どうしたの。一日早く帰ってきたんですか」  春子が、いぶかしそうな眼をした。 「仕事が早目に終ったので、帰ってきた」  圭一は、背広をぬいだ。 「そうだったの」  春子が、背広を洋服ダンスにしまいながらつぶやいた。  圭一は、ふと春子が喜びをみせないことに気がついた。 「余り嬉しそうでもないね」  圭一は、春子の表情をうかがった。 「眠いんですよ」 「眠くても嬉しい時は嬉しいはずだがね」 「驚いたのよ、一日早いから……」 「驚いても嬉しい時は嬉しいのじゃないか」 「わかりました、嬉しがればいいんでしょう」  春子は、とぼけたような表情をして茶をいれはじめた。 「おい、一寸待ってくれよ。おれは、結婚してから四年たつが、なにか重大な錯覚をおかしていたのかも知れないな」 「なにをです」 「おれは、勤めに出る前よく旅をしたが、夜行で行って夜行で帰ってくることをくり返した。今度も、もう一泊するはずだったが無理して帰ってきた。もしかすると、そうしたことはお前にとって迷惑なことじゃないのか」 「いえ、ありがたいと思っています」 「なんだか実のない返事だな」  圭一は、春子の顔をうかがった。  夫というものは、予定より早目に帰ってきてはいけないものかな、とかれは思った。おくれてはむろんいけないが、早すぎてもいけないのか。 「ただね、なぜ無理して早く帰ってくるのか不思議なのよ。ゆっくり一泊して、その間に名所旧蹟でも見物してきたら楽しいと思うけど」  春子が、言葉をえらびながら笑いをふくんだ眼で答えた。 「どう考えてみても、早く帰ってきては迷惑らしいな」  圭一は、再び言った。 「そんなこと。気をつかってくれていると思うとありがたいわ」 「おかしい、どうもおかしい」 「そんなことより、なぜ早くあなたは帰って来たがるの」 「お前が心細がっていると思うからさ」 「そうじゃないわ、あたしのためだからじゃないわよ」  春子は、断定するように言った。 「うん。そう言われれば、そうかも知れない。お前や子供の顔を見たいわけでもないし、この家庭に帰りたいのだ」 「そうでしょう。あなたは猫なのよ」  春子が、納得したように言った。  突然妻の口から出た猫という言葉に、圭一は驚いた。夫を動物にたとえるとは、呆れた妻だと腹が立った。 「なにが猫だ」  圭一は反問したが、妻は落着いた表情で、 「犬は人につき、猫は家につくという言葉があるでしょう。だからあなたは猫なのよ。私や工《たくみ》の顔を見たいから早目に旅先から帰ってくるわけじゃなく、あなたはこの部屋に帰ってきたいだけなのよ」  と、淀みない口調で言った。  たしかに犬と猫はちがった性格をもつものらしい。或る家族が、引越しをした折、犬は家族たちとともにトラックに乗って転居先へ移っていったが、飼われていた猫は屋根に上ったままおりてこない。家族はしきりに猫を呼んだが、猫は屋根の上を逃げまわるだけで応ぜず、そのまま次に住みついた家族に飼われたという。つまり春子は、旅先から家へ帰りたがる圭一を、猫的人間だというのだ。  しかし、そんなことではぐらかされてはならぬ、とかれは思った。春子の表情をうかがってみると、圭一の帰宅を格別喜んでいる節はみられない。早目に旅先から帰れば、春子は喜んでくれると思いこんでいたのは誤解だったらしい。 「正直に言えよ。おれが早目に帰ってくることはお前にとって決して歓迎すべきことではないらしいな」  圭一は、思いきって言った。 「そんなことはないけど……」  春子は、曖昧な笑いを顔にうかべた。 「正直に言うんだ」  圭一は、重ねて言った。  春子は、笑いをふくんだ眼で茶を一口飲むと、 「それは、嬉しいとは思うわよ。でも、たまにはあなたが旅に出てくれればいいなと思うこともあるのはたしかだわ」  と、遠慮がちに言った。 「なぜ」  圭一は、春子の顔を見つめた。 「あなたはね、工より手がかかるのよ。灰皿がそこにあるのに、春子春子と私を呼んでとらせるでしょう。なんにもあなたはしない人なのよ」 「それだけか?」 「まだあるわ。今日も姉の家へ子供を連れて遊びに行ったけど、のびのびと一日中外出もできるし、たまには私も解放感を味わいたいのよ」 「解放感?」  圭一は、意外な言葉を耳にして甲高い声をあげた。 「解放感といったのは、まずかったかしら。でも、鬼のいないうちに洗濯という言葉があるでしょう。私だけじゃないわ。どこの奥さんも、たまには夫にかかずらうことなくのんびりすごしたいと思っているはずだわ」  春子の顔から、笑いの表情が消えた。 「おれは、鬼か」  圭一は、嘆息した。 「でも、あなただって、旅に出れば解放感を感じるでしょう。私に拘束されずにすむのは楽しいでしょう」 「いや、おれは家へ帰りたくて仕方がない」 「だから、猫だと言うのよ」  春子は、断定するように言った。  春子は、だれの妻も同じだと言うが、それは圭一にとって思いもかけぬ言葉であった。妻は、夫が常に身近にいることを強く願っているものと信じて疑わなかったが、それが全くのあやまりであることを知らされた。  妻は、毎夜夫が帰宅することを煩わしく思い、時には旅にでも出て留守をしてくれることを望んでいるのか。自分がいなければ妻は悲しむと思いこんでいた圭一は、根本的な錯覚をおかしていたことになる。 「おれは、いったいなんだ」  圭一は、思わずつぶやいた。 「あなたは、私の夫であり工の父親じゃないですか」  春子が慰めるように言ったが、かれは頭をふった。  夫というものはただ働く役目をもっているだけで、家庭は妻と子供が主になって構成されているらしい。自分の生活を考えてみても、夜帰宅して就寝すると翌朝早く家を出てゆく。家に終日いる妻と子からみれば、圭一はただの宿泊人にすぎないのだろう。  幼い工は、春子を母として認識しているが、圭一は、縁もゆかりもない男と思っているかも知れない。生れた時以来家にいるかれのことを、せいぜい母親の親戚かなにかと思っているだけなのだろう。  圭一は、あらためて部屋の中を見まわし、寝ている子供の顔を見つめた。自分一人だけが孤立しているような佗しい気分であった。  かれは、十七歳の夏に母を翌年父を失ってから、兄の家を転々と居候をしてまわった。その間に、四年間の病床生活も送り、居候としての悲哀も妙に居直ることにもなれた。  結婚は、そうした居候生活からの脱出でもあった。自分の得た収入で棲家《すみか》をもち、妻が料理してくれる食物を口にできる。飯はどれほどお代りしてもよいし、好きな料理を作ってくれと註文もできる。そこには、だれになんの遠慮もない生活があると思っていた。  しかし、その夜、かれは、たとえ結婚しても依然として居候に似た生活がひかえていたことに気づいた。 「なぜそんな淋しそうな眼をしているの」  春子が、のぞきこむように言った。 「おれは、戸主だぞ」  圭一は、思いきり張りのある声をあげた。 「当り前じゃないですか。戸籍謄本にも筆頭者の欄には、あなたの名前が書いてあるわ」  春子が、おどけたような眼をして言った。  かれは、父母のことを思い起した。  父は、口うるさい男で些細なことにも荒い声をあげた。父の存在は絶対的で、家の専制君主でもあった。そうした父を、母は巧みにあしらって、父の機嫌を損じないように心を配っていた。  その父が外出すると、母の眼は急に輝いた。父を玄関の外に送り出した後、母が明るい表情をして手足を思いきりのばし忍び笑いをしたのを眼にしたこともある。圭一や兄も、外から帰宅して、 「お父さんは?」  と家の者に必ずきいたが、それは父がいないことを淋しがるわけでは決してなく、父の不在を願ってのことであった。  圭一は、立ち上ると自分でコップに冷酒をそそいだ。  春子は、圭一が勤めに出はじめた頃、朝出勤するかれに、 「何時頃帰れますか」  と、声をかけるのが常だった。  その声をかける瞬間は一定していて、かれが靴をはき部屋のドアのノブを廻そうとする時に、必ずその背に浴びせかけてくる。  初めの頃は、帰宅予定時刻をまともに答えていたが、それが連日つづけられると気持が苛立ってきた。第一、出勤すればどのような仕事が待っているか予想もつかぬし、会社の者と酒を飲むこともあって、帰宅時刻を守ることはおぼつかない。  圭一は、 「わかるかよ、そんなこと」  と、声を荒げるようになった。  しかし、春子は、それが習慣化してしまったらしく、同じ言葉を繰返す。圭一は、返事もせずアパートを出て行くことも多かった。  隣室の主婦は、子供の手を引いて駅に行く夫を途中まで送ってゆく。彼女と子供は、 「行っていらっしゃい」  と、駅の方向へ歩いてゆく夫に声をかけ、しきりに手をふる。夫も、何度もふり返っては微笑しながら手をふる。  それはほほえましい光景かも知れぬが、圭一は、隣家の主婦が子供をだしに使って夫を家庭にがんじがらめにしばりつけているように思え、夫である男も、それに同調していることが滑稽だった。  その主婦と子供とそして夫の顔は、健康的で明るかった。少しの陰翳《いんえい》もない善良そうな顔つきをしていて、アパート内での模範的な家族と評されていた。  圭一もその家庭の明るさに感心していたが、同時に家族がそのような明るさを絶えず持続できることに疑惑も感じていた。  やがて、圭一は、春子の口からその家族の過去を知った。  夫は、子供が生れて間もなく若い女と関係をもち、それが妻にも知れて家庭は混乱した。若い女は自殺未遂を起し、妻も子を抱いて家出した。やがて夫は、若い女との間を清算し、勤め先も変えて妻子と共に暮すようになった。圭一の住むアパートに転居してきたのも、過去を断ち切るためであったという。  そのいきさつを、隣家の主婦が春子に涙ぐみながら打ち明けたのだという。  その話をきいてから、夫を見送ってゆく隣家の主婦と子の姿が全く別のものに感じられた。彼女は、再びいまわしいことが起らぬように夫に手をふり、夫もそれにこたえる。それは、物悲しい光景でもあった。  帰宅時刻を聞く春子も、胸中にそのような圭一の過失を恐れる気持がひそんでいるのかも知れぬと思ったが、子供が生れた頃から、 「いっていらっしゃい」  と、声をかけるだけになっている。  稀に会社から直接帰ってくると、 「あら、早いわね。気分でも悪いの」  と、いぶかしそうな表情をする。  子供の養育と小説を書くことに神経を奪われて、春子の中には圭一の存在が淡いものになっているらしい。春子は、いつの間にか家庭に腰を据えたような物に動じない表情をするようになっていた。 [#改ページ]    初春のこと  年が、明けた。  圭一は、近くの銭湯で元旦に朝湯をたてるということをきいたので、洗面道具を手に子供の工《たくみ》を連れて出掛けた。  かれの生れ育った家では、元旦の朝必ず風呂をたて、入浴後雑煮を祝う習慣になっていた。町の銭湯でも同じことで、濡れた手拭を頭にのせて元旦の朝、湯から帰ってくる男たちの姿をしばしば眼にした。  しかし、そうした習慣は失われはじめているのか、銭湯の中に客はほとんどいず、十名足らずの客も主として老人たちで、かれらは明るい表情で朝湯につかっていた。  圭一は、背に三十センチ以上もある弧状のメスの痕がきざまれているので、それを人にみられるのが恥しく、肩にタオルをかけて洗場に入るのが常であった。それだけに、客が少いことは、かれの気分をやわらげた。  朝の陽光にみちた洗場の内部は、いかにも正月らしいのどやかな空気があふれていた。桶の鳴る音もカランから湯のほとばしる音も、年があらたまった爽かな音にきこえる。初湯を浴びる習慣は、心憎い人間の知恵だと、圭一はあらためて感じた。  かれは、湯槽《ゆぶね》から出ると工の小さな体に石鹸を泡立て、その体を抱きかかえて頭も洗ってやった。  工は、頭を洗われるのはいやがったが、銭湯をオブイと舌足らずの言葉で言って銭湯に行くことを好んでいる。  初めて子を持った圭一は、工の幼児語に興味をもっていた。電気はインキ、時計はコケイ、金魚はニンギョギョ。語が転倒している言葉も多く、卵はタガモ、牛乳はニューギュー、蜜柑はカミン、帳面はメンチョウ、目高はメカダ。そして、一般家庭では幼児も口にしないはずの原稿用紙をギンコウと言ったりしている。  圭一は、工の体を洗い終ると、自分の体に石鹸をぬり立てた。  工は、タイル張りの洗場を歩きまわっていたが、いつの間にか圭一の背にもたれていた。そして、その口から、 「ニンニンゴーゴー」  という言葉がしきりにもれるようになった。  工の口にするニンニンゴーゴーとは、チンチンゴーゴー、つまり電車のことである。  圭一は、工の小さな指が自分の背中を首の付け根の近くから左の脇腹の方にむかって繰返し動いてゆくのに気づいていた。その指先が動いてゆく個所は、十年ほど前結核の手術を受けた時にメスで切り開かれた傷痕だった。 「ニンニンゴーゴー」  と、工はしきりにつぶやきながら指先を傷痕にそって移動させてゆく。  ふと、圭一は、工の仕種の意味をはっきり理解することができた。メスで切開された傷痕には、所々に糸で縫い合わされた痕が、傷口を短い筋で横切るようにきざまれている。それをチャックのようだと表現した者もいるが、工には、縫合痕が枕木で、傷痕が鉄道のレールにみえるらしい。  工は、背中に伸びる弧状のレール上を進む電車の姿を想像しているのだろう。 「ニンニンゴーゴー」  小さな指先の電車は、背中の上を繰返し走りつづけていた。  一月二日には、例年通り兄の家と妻の姉の家に年始に行き、五日には会社に出て社員たちと新年の挨拶を交した。  社長は業績の伸長に上機嫌で、社員を集めると、本年も一層努力をして欲しいと訓示した。  翌日から、圭一は定時に出勤した。会社では、初荷の幟《のぼり》をひるがえした中型トラックが門から何台もすべり出て行った。  その夜、家にもどった圭一は、茶箪笥《ちやだんす》の上におかれた白い封筒に眼をとめた。封をきると、中にはガリ版ずりの紙が一枚入っていて、 「前略  此の度貴作品|鉄橋《ヽヽ》が芥川賞候補に推薦されておりますので、今後の参考に致したいと存じますから誠に御手数|乍《なが》ら左記の箇条につき御回答下さい」  と書かれた後に、本名、現住所、略歴、作品歴を明記して写真も添え返送して欲しい旨が記されていた。  送り主は、日本文学振興会というききなれぬ団体であった。 「春子」  圭一は、紙片を手に甲高い声をあげた。  炊事場のノレンから顔を出した妻が、けげんそうな表情をして濡れた手をふきながら出てきた。そして、圭一の突き出した紙を手にとると眼を通した。  春子が、圭一の顔を見つめた。  二人は、無言で互いの顔に眼を据えた。 「いったい、これはどういう意味だ」  圭一は、言った。 「あなたの書いた鉄橋が芥川賞候補になったというのかしら」  春子が、圭一の眼をのぞきこむように言った。 「それがわからない。芥川賞候補に推薦されていると書いてあるが、推薦されているということは、候補作品に決定したということじゃない」  圭一は、いぶかしそうに紙片に眼を落した。 「そうね、もしかすると候補作品になるかも知れないということね、きっと」  春子も、紙片をのぞきこんだ。  通常、芥川賞候補作品は七、八篇えらばれて、それが作家や批評家によって構成された選考委員会で受賞作品が決定する。時には、該当作なしとして、受賞者が出ぬこともある。  賞の選考は年二回おこなわれていて、半年間に文芸雑誌、同人雑誌等に発表されたおびただしい数の小説の中からまず候補作品がえらび出される。その選出方法は、作家、批評家、編集者等に発したアンケートを重視した上で、批評家、編集者によって候補作品が決定するときいていた。  推薦されている……という字句から考えると、圭一の作品は、数十篇か百篇ほどの候補作品のさらに候補の作品中に入りこんでいると考えるのが妥当のように思えた。  圭一は、自分の作品がそこまで評価されただけでも十分だと思った。闇の中をあてもなく歩きまわるように同人雑誌に小説を書いてきたかれには、その紙片によって一つの光明を見出したように思えた。 「もしかすると、候補になるかも知れないわよ」  春子が、眼を輝かせた。  同人雑誌に小説を書くことは、瓶に手紙を入れて海に流すようなものだと言った人がいるが、たしかにそれに似た心もとなさがある。  親しい人たちは読んでくれるが、未知の人の眼にふれる可能性はきわめて少い。が、家に舞いこんだ一通の封書で、圭一は、自分の流した瓶が拾われ、その中におさめられた自作が或る程度注目されたことを知った。  落着かない日がつづいた。圭一は、自分の作品が芥川賞の候補作品に決定したわけではないので、兄や弟にも口をつぐんでいた。  しかし、その手紙が舞いこんだ翌日、芥川賞を創設した出版社の文芸雑誌から六十枚の作品を二十日までに書き上げて見せて欲しいという速達が来ていた。  同人雑誌に発表予定の「貝殻」という作品を書き上げたばかりの圭一にとって、二週間足らずの間に六十枚もの作品を書き上げることは不可能に近かった。五十二枚の「貝殻」ですら三カ月を要していた。が、文芸雑誌からの最初の原稿依頼であったので、かれは興奮して新しい作品の執筆にとりかかった。「見せて欲しい」という字句からみて、それは厳密な意味での原稿依頼ではないが、すぐれたものと判断されれば、文芸雑誌に発表される可能性があると思えたのだ。  かれは、会社から急いで帰ると机に向い、夜明け近くまで細字の万年筆でこまかい文字を刻みつけ下書きを進めていった。  或る朝、新聞をひろげた圭一は、背筋の一瞬冷えるのを意識しながら小さな記事に眼を据えた。 「あった、あった」  圭一は、声をあげた。  それは「芥川・直木賞候補通過作品」という小さな見出しにつづいて、作者と作品名が列記されていて、その中に圭一の名と作品名が印刷されていたのだ。 「なにがあったの」  卓袱台に食器をならべていた春子が、顔をあげた。  圭一が新聞を突き出すと、紙面に眼を据えた春子が、 「あら、あったわ。よかったわね、あなた。お姉さんがお祈りしてくれたのが通じたんだわ」  と、甲高い声をあげた。 「お祈りってなんだ」  圭一は、たずねた。 「あなたには叱られると思ったけど、姉には電話で手紙が来たことを報せたのよ。そうしたら、姉は、候補になるようにと仏壇に毎日お線香を立ててお祈りしていてくれたらしいわ」  春子は、眼をうるませた。  お祈りする姉と、その願いが通じたという春子の言葉に、かれは思わず苦笑をもらしたが、結婚以来の生活を思うとそれも無理はないと思った。姉は、金銭とは縁のない自分勝手な生き方をする圭一に嫁いでいった妹の春子の身を案じつづけてきたにちがいない。大学も中途退学だし肋骨も五本切除するという手術を受けた圭一の妻として暮している妹に、物悲しい思いをいだきつづけてきたのだろう。姉にとって、圭一が作家として立つことができれば、それで気持も楽になるにちがいない。  圭一の胸に、仏壇の前に坐る春子の姉の姿が浮び上った。  出勤途中の町の風景が、明るく一変しているようにみえた。  小説めいたものを書きはじめたのは二十五歳の時で、それから放浪の旅に出た一年半の中断期間をのぞくと三年半原稿用紙に向いつづけてきたことになる。苦節十年という言葉があるから、思いがけず早く自作が一部の人に認められたことになるが、文壇には二十代の新進作家の華々しい登場がつづき、かれは自分の年齢が決して若くない部類に入っていることを知っていた。……かれは、三十歳になっていた。  あてもなく同人雑誌に作品を書きつづけたかれにとって、受賞はむろんおぼつかないだろうが、候補作品に選ばれたことは大きな喜びであった。生れてから今日ほど嬉しい日はなかった、と、かれは過去をふり返りながら思った。会社に行っても、気持が浮き立っていた。  新聞に発表されたのだから、小説を書いていることをこれ以上かくしておく必要もないと思い、社長にも報告しようかと考えた。が、その記事は小さく社長の眼にふれることはないはずだし、候補になっただけのことを報告する必要もないと思い直した。  圭一は、なんとなく落着かず、昼の休憩時間に近くのそば屋へ行った帰途、弟に電話をかけてみた。 「へーえ」  弟は、呆れたように絶句した。  弟の余りの驚きの大きさに、圭一は、肉親にとっても珍事らしいことに気づき、つづいて三兄の家に電話をした。 「なんだって、もう一度言ってみろ」  兄の声に、圭一は再び同じ言葉を繰返した。 「本当かい、おい」  兄も、弟と同じように絶句した。  兄は、学生時代同人雑誌に参加していたこともあって、石川達三氏の「蒼氓《そうぼう》」以来の芥川賞作品を書棚におさめていたし、文学について多少の知識ももっていただけに、圭一が一生小説を書いてゆくと言った時、 「お前は、頭がどうかしている。地道な生き方を考えろ」  と、文学の道があてもない不確かなもので、そのために生活の破綻《はたん》を招くことも多いと忠告し、その不心得をなじったのだ。  そうした兄にとって、圭一の書いた作品が芥川賞候補作品にえらばれたことは、夢想もしないことだったのだ。 「まちがいじゃないのか、お前」  落着きをとりもどしたらしい兄が、疑わしそうに言った。  圭一は、苦笑しながら新聞にも発表されたことを伝えた。 「そうか」  兄は、言葉をきった。  しばらく兄は黙っていたが、再び明るい声が流れ出てきた。 「お前、それはな、候補になったかも知れないがね、受賞するなんてことは金輪際ないよ。人間には、分というものがある。母方の祖父は漢学塾の塾頭だった人だが、おやじもおれたち兄弟もみな商人だろう。そんな血に芥川賞を受けるような小説家なんか生れるわけがないさ。そうだろう、お前」  兄の言葉に、圭一は、妙に神妙な気持になって、 「はい」  と、答えた。  新聞によると、選考委員会は一月二十日にひらかれ、その席で受賞作が決定するという。  三兄が受賞などおぼつかないと言ってくれた言葉を当然と思った圭一も、その日が近づくにつれて落着かなくなってきた。ただ文芸雑誌にとどける作品の〆切り日が、選考日と一致していて、作品執筆に専念していたため苛立つことも少かった。  十九日の夜は徹夜で推敲をくりかえし、明け方近くになってようやく六十一枚の「喪服」という短篇が書き上った。  かれは、原稿を風呂敷につつんで出勤し、昼の休憩時間に会社を出ると電車で新橋まで行き、銀座の大通りに面した出版社に行った。  かれにとって、出版社の建物に足をふみ入れるのは初めての経験だった。かれは、受付に行くと、若い女子社員に名を告げ、手紙をくれた編集者に会いたいと言った。女子社員は、すぐに社内電話をかけてくれたが、昼食で席をはずしていて在社していないという。  そうしたことを予測していた圭一は、風呂敷につつんだ原稿を取り出すと、その編集者に渡して欲しいと頼み、受付をはなれた。  外に出た圭一は、息をついた。自信はない作品だったが、一応やるべきことはやったという満足感はあった。  かれは、午後の執務を落着いた気分でつづけることができた。それは、作品を書き上げた後の虚脱感に身を置いていたからかも知れなかった。  電話がかかってきて、受話器をとると、 「今夜は早く帰ってきて下さいよ」  という春子の声が流れ出てきた。  余程のことがないかぎり会社に電話をかけてはならぬと春子に注意していたが、圭一は、 「わかった」  と、素直に答えた。  ふと、万一受賞したらどうなるだろう、と思った。明朝の新聞には、小さいながらも受賞を報ずる記事が出るにちがいない。そして、文芸雑誌から原稿の依頼があるかも知れない。文学を志す者にとって、受賞するか否かは重大問題であるが、一般の人には関心もないことだろう。それに受賞したからと言っても、前例をみてもわかるように、小説を書くだけで生活できるような経済的恵みを得ることはむずかしい。  たとえ受賞したとしても、会社勤めをやめるわけにもゆかない。それはただ作家としての出発の手がかりを得ただけのことで、自分の生活は外見的に少しの変化もないはずだった。  かれは、ぼんやりと机にもたれていたが、そんな想像をしている自分に気づき、狼狽した。妻の電話でせっかく保たれていた平静さが乱されたことに苛立ちを感じた。  夕方、かれは会社を出ると帰路についた。  選考委員会は午後七時からひらかれるから、おそくも九時前には結論が出るのだろう。かれは、駅の大時計が七時をまわっているのを見上げたりした。  帰宅したかれは、夕食をとり、テレビに眼を向けた。  工《たくみ》がテレビの前に坐って、漫画を身じろぎもせずに見つめている。画面の中では、猫が鼠を追いまわし、猫が賢い鼠に手痛い目にあうたびに、工の口から笑い声が起っていた。  時計の針が、八時をまわった。  工は、早くも眠くなったらしく居眠りをはじめたので、春子は小さいふとんを敷くと工の体を横たえた。 「ビールでも飲みますか」  黙しがちであった春子が、張りのある声で言った。  帰宅後小説を書かねばならぬ圭一は、晩酌することは避け、机をはなれる深夜に冷酒を飲む程度である。しかし、その日は小説を書く精神状態にはないので、重苦しい気分をまぎらすためにも酒が欲しかった。 「酒を飲む」  圭一は、春子に言った。  かれは、運ばれてきたお銚子をとり上げながら他の六名の候補作品の作者たちはどのように時間を過しているのだろうと思った。おそらくかれらも、自分と同じようにテレビをながめ、酒でも飲んでいるにちがいなかった。  ふと、写真で顔しか知らぬ選考委員の作家や批評家たちが、自分の作品を一様に低劣なものとして冷笑しているようにも思え、気持がさらに重苦しくなってきた。  不意に人声がして、階段を勢よくあがってくる足音がきこえた。そして、ノックとともにドアがひらいた。部屋に入ってきたのは弟で、その後から三兄夫婦も顔を出した。 「なんだ、こんな所に住んでいるのか」  兄は、ソフトもぬがず部屋の中をながめまわした。そして、せまい廊下に身を入れて隣室をのぞいたり、窓の下を見下したりした。 「まだなんの通知もないの」  と、弟が言った。 「だめにきまっているよ」  圭一は、笑った。  春子が出した座ぶとんにあぐらをかいた兄が、 「受賞した人の所へは、通知があるのかな。電報を寄越すとか」  と、たずねた。 「さあ? たぶんそうでしょうね。きく所によると、テレビとラジオのニュースで報ずるようですよ」 「新聞記者はこないのかね」 「そこまではしないでしょう。もしくるとしても、翌日ぐらいじゃないですか。でも、ぼくはだめですよ」 「お前のことを言っているんじゃないよ。受賞する人のことを言っているんだ。なんだ、お前は。自分が受賞するとでも思っているのか」  兄は、笑いをふくんだ眼で言った。 「だって、どうなるかわからないじゃないですか」  嫂《あね》が言うと、兄は、 「冗談言うな。そんなはずがあるもんか」  と、嫂をたしなめた。  兄が、顔をしかめて部屋を見まわしながら、 「この畳はなんだい。所々すりきれちゃって。もし万が一受賞でもして新聞記者の人たちでもきたら、みっともないじゃないか。おい、隆司、近所の畳屋を呼んですぐに畳がえしろ」  と、弟に言った。  口にしたことは即刻実行に移す兄の性格を知っている圭一は、狼狽し、 「そんなことはしなくていいんです。第一、だれも来やしませんよ。やめて下さい、やめて下さいよ」  と、兄を手で制した。  兄は、けげんそうな顔をした。 「物事には、万が一ということがあるんだぜ。もしも、仮にだ、受賞して人が訪れてきたら、どうする。こんなに畳がすりきれていて……。たとえそんなことがあり得ないことだとしても、一応畳ぐらい代えて失礼のないように準備しておくことが人間の常識じゃないのか」  兄は、圭一にさとすような口調で言った。 「それがちがうんです」 「どうちがう」  兄の言葉に、圭一は口をつぐんだ。たしかに兄の言う通り、たとえ受賞の可能性がないとしても、万が一を思って準備しておくことが一般常識なのだろう。しかし、受賞しようとしまいと、畳を新しくかえたりすることはおかしい。準備などすることは絶対にしてはならないことだ。ただ酒でも飲んで、ひっそりと時を過せばよい。 「それだけは、勘弁してもらいます。畳とぼくは関係ありませんから……」  圭一は、きつい語調で言った。 「変なことを言う奴だな。なにを考えているのか、さっぱりお前はわからんよ」  兄は、頭をかしげた。  新聞をひろげた弟が、ラジオのスイッチをひねった。丁度ニュースの時間であった。  ニュースで報ずるかも知れぬと思ったが、予想通り終る寸前に選考委員会の結果が簡単に報じられた。該当作なしであった。 「ま、そんなところだな」  兄が、淡々とした表情でつぶやいた。 「お騒がせしてすみませんでした」  春子が頭をさげると、 「いや、なかなか面白かったよ。おれたちの生活じゃ、こんな妙なことはないものな。じゃ、行くか」  と、兄は言うと、気になるらしく畳のすりきれた部分をこすりながら腰を上げた。  圭一と春子は、兄たちの後から階段をおりた。  道に車がとまっていて、かれらは車内に入った。兄が、車の窓をあけると春子を招き、なにか低声で言っていた。そして、車を商店街の方に向けて走らせていった。  圭一は、春子と部屋にもどった。 「兄貴はお前になにを言ったんだ」  と、圭一は、再び酒を口にふくんでたずねた。 「畳が余りひどいから代えなさいって。お金をあげようかって言うから、その位のお金ならありますと答えたわ」  春子は、茶器を片づけながら言った。  圭一は、あらためて畳の表面を見まわした。たしかに畳は茶色味をおびていて、所々すりきれている。 「そんなにひどいかね」  圭一が言うと、春子も畳を見まわし、 「ひどいのかも知れないわ。住んでいると眼になれてしまってわからないものなのよ。訪れてくる人は、呆れているのね、きっと」  と、言った。そして炊事場に歩きながら、 「いい柄の花ござでも買ってこようかしら」  と、つぶやくように言った。  かれは、自作が候補作品にえらばれただけで十分だと思った。むろんかれにも、受賞を願う気持は強かったが、受賞後のことを思うとたじろぐ気持もあった。賞を受ければ、文芸雑誌から一、二の原稿依頼もあるだろうが、平凡な作品を発表すれば、その作家は確実に抹殺されると言われている。そうしたきびしい渦中にまきこまれて、果して自分が文壇の批判に堪え得る作品を書けるかどうかたしかな自信はなかった。  分相応の結果だった、と、かれは安堵に似たものを感じながら、翌朝も定時に出勤した。  正午近く、会社に電話があって、受話器をとると、芥川・直木賞を創設した出版社の総合雑誌編集部からであった。  歯切れのよい男の声が、 「あなたの候補作品を本誌に掲載したいが、社においでいただけぬか」  と、言った。  圭一は、承諾し、受話器を置いた。駄作として歯牙にもかけられなかったのだろうと思っていた自作が、思わぬ扱いを受けて総合雑誌に転載されるのは嬉しかった。  勤めをしている身として無断外出することもできず、圭一は、社長に小説を書いていることを打明けようと決心した。  かれは、社長室に赴くと、客を送り出したばかりの社長に、事情を伝えた。社長は、呆れたように圭一の顔を見つめていた。 「すると、君は小説を書いていて、小説を芥川賞に応募したのだな」  社長は、圭一が話し終ると、結論を出すように言った。 「いえ、応募ではありません。半年間に発表された同人雑誌などの作品から、自然に候補作品がえらばれて、その中から受賞作が決定するのです」 「それで、君が当選したわけか」 「いえ、受賞はしません。落ちたのです。でも、作品を掲載してくれるのです」 「なぜだ、落選したのに」  と、社長は頭をかしげたが、すぐに納得したように、 「ああ、そうか。君は落選したが、選挙でいう次点というやつだな。わかった、わかった」  と、しきりにうなずいた。  圭一は、社長の許可を得て出版社に赴いた。広い部屋に机が並んでいて、多くの男や女の編集部員が忙しそうに仕事をしている。  受付の若い女性に案内されて中央の机に近づくと、三十五、六歳の長身の男が立ち上り、名刺を出した。そこには、編集長という肩書が印刷されていた。  男は、にこやかな表情で選考結果を口にし、圭一の作品を誌上に掲載したいと言った。そして、三日後までに直したい個所があったら満足できるまで直して持参して欲しいと言った。 「全体として原稿用紙二枚分ぐらい短くした方が、作品としてひきしまると思いますね」  と冷えきった声で言ったが、その顔には相変らずにこやかな表情がひろがっていた。  圭一は、礼を述べて出版社を辞した。そして、三日後に加筆・削除した作品を編集部にとどけた。  圭一の作品が転載された総合雑誌が発表されたのは、翌月の十日であった。雑誌にのった委員たちの選後評を読むと、かれの作品に対する評価は賛否相半ばしていたが、受賞作には程遠い意見が交されたことを知った。  雑誌の発売につづいて、出版社から転載料が郵送されてきた。転載料は原稿用紙一枚につき千円で、一〇パーセントの税金がひかれていたが、それは圭一の月給の三倍近い金であった。  かれが小説を書いていることは、たちまち社内に知れた。親しい社員と酒を飲みにゆくと、かれらは、 「よう、先生」  などと言って冷やかす。  また社長の態度にも変化が起きて、宣伝用新聞の原稿を書いて社長に提出しても、今までとはちがって文章を直して返すこともしなくなった。  そうした環境の変化は、勤めをしている圭一にとって決して好しいものではなかった。今まで通りにさりげなく接してくる社員もいたが、多くは圭一を特殊な眼でながめるようになっていた。それは、圭一に精神的な負担になった。会社にいるかぎり、自分は一介の勤め人で、小説とは無縁の人間であるが、社員たちはそう思ってはくれないらしい。  かれは、定時におくれず会社に出勤することにつとめ、残業もすすんで引受けた。それは、小説を書くような者はだらしがないと思われたくなかったからであった。  しかし、小説を書いていることが知れたことで恩恵もあった。  或る日、帰宅すると、 「あなた、死体を見たくない?」  と、春子が言った。  その日、春子と大学時代に親しかった友人の秋子が訪れてきた。彼女は、東大出の医師の妻になっていて、結婚後も春子と気さくな付き合いをつづけていた。 「秋子さんの御主人は、大学病院の解剖学研究室に勤めていてね。あなたの作品を雑誌で読んで、もしも小説を書くのに参考になるなら、解剖室の死体を見せてあげてもいいと言っているそうだけど、どうします」  と、春子は言った。 「それは、いい機会だ。ぜひ見せていただきたいな」  圭一は、すぐに答えた。  かれは、ひそかに死者の世界のことを小説に書きたいと思っていた。  死者を描いた小説は数かぎりなくあるが、それは生の領域に身を置いた者からの描写に限られている。それを突きやぶって、すでに死の領域にふみこんだ側から描く。死者が主人公で、死者は死の世界をながめ、そして生の世界をも見つめる。そうした設定のもとで小説を書いてみたかったのだ。 「それでは、電話をしてくるわ」  春子は、立ち上ると商店街にある公衆電話に行くため部屋を出て行った。  やがてもどってきた春子は、 「今度の土曜日の午後、大学へ来て下さいって。あなた、本当にみるの。薄気味悪いものが好きな人ね」  と、眉をひそめた。  土曜日の午後、圭一は、医科大学の門をくぐった。  過去に四年間病床生活を送ったかれは、病院の建物を眼にすると、つらなる窓の中に身を横たえている入院患者の生活を想像することが習性のようになっている。快癒も間近で退院をひかえている者もいるだろうが、多くは沈欝《ちんうつ》な気持で病気とたたかっているのだろう。建物は新しく、ガラス窓が冬の陽光にまばゆくかがやいていた。  受付で、秋子の夫の名を告げると、しばらくして廊下を長身の白衣をつけた男が近づいてきた。春子の話によると、圭一より一歳若いという。  男は、 「大原です」  と名乗ると、圭一についてくるように言った。  大原は、本院の裏口から出ると古びた建物の中に入り、小さな部屋に圭一を招き入れた。そして、壁に垂れさがった白衣を手にとると、圭一に差し出した。 「医学関係者以外は、解剖室への入室は原則として禁じられていますのでね。白衣を着て下さい」  大原は、さりげない口調で言った。  その洗いざらした白衣は大原のものらしく、身につけると裾は脛まで垂れ、袖は指先がかくれてしまうほど長い。かれは、やむなく袖口を深く折った。 「それでは、参りましょう」  大原が、部屋を出ると、通路から庭に出た。  眼の前に煉瓦づくりの建物が立っていて、大原はその中に入っていった。  ガラス戸をあけると、コンクリート張りの床に一坪ほどの広さをもつ浴槽に似た槽が十個ほど並んでいる。部屋の内部に、人はいなかった。  大原は、槽に近寄った。表面には、濡れた綿毛布がかぶせられていて、かれは無言で毛布を少しはいでみせた。圭一は、遺体を眼にした。皮膚は茶色く、濡れている。防腐液が入れられているらしく、薬の匂いが立ちのぼった。  大原について部屋を出た圭一は、別の建物の中に入った。人のざわめきがきこえてきて、ドアを開けると、そこには多くの人々の姿がみえた。 「今日と明日が大学祭で、医学とはなにかを知ってもらうために、展示会場を設けているんです」  大原は、参観者にまじって会場を歩きまわった。実験動物の内臓がひらかれていたり、手術道具がならんでいたりする。  圭一は、かい間見た遺体よりも、それらの展示品の方がはるかに薄気味悪かった。  会場の外は、あたたかい日射しがあふれていた。圭一は、大原について喫茶室に入った。  大原は、圭一の質問にこたえて解剖用遺体が医学生の実習や医学研究に大きな貢献をしていることを説明した。その入手はきわめて困難で、それが大学の重要な問題になっていると顔をしかめた。 「私も遺言を書いたものを女房に渡してありますが、死んだ折には遺体を大学に寄付することにしています」  大原は、さりげない口調で言った。  圭一は、死者を主人公にした小説を書きはじめた。  芥川賞候補の通知がきた直後、文芸雑誌からの依頼で書き上げた短篇小説は不採用になって返却されていた。その頃、他の文芸雑誌からも作品を一作見せて欲しいと言われていたので、その小説を書き上げて送ろうと思ったのだ。  寒気がやわらぎ、梅の開花が新聞に報じられるようになった。  或る夜、帰宅すると、子供が横になっていた。その朝、出勤する時、工《たくみ》は元気がなく、春子が体温をはかると三十七度を越えていたので、医院に連れて行くように言い置いて出た。 「どうした。風邪だったんだろう」  圭一は、工の枕もとに座ると、その小さな額に手を当てた。額は、かなり熱い。 「はしかですって」  春子が、傍に坐って言った。  その言葉を耳にした瞬間、かれは、工の額から手をはなすと部屋の隅に逃げた。  突然の圭一の動きに、春子は驚いたように圭一の顔をみつめた。 「どうしたの、あなた」  春子は、いぶかしそうな声をあげた。 「たしかに、はしかと言ったのか」 「そうよ。今、はしかが流行していて、丁度かかる年齢だと言っていたわ。心配はないって」  春子の顔には、不審そうな表情がひろがっている。 「お前に言わなかったかな。おれは、まだはしかをしていないんだ」  圭一が、工の顔に眼を据えながら言った。 「まさか。そんなこと初耳だわ」  春子が、眼をみはった。 「本当なんだ。おれは、はしかにかかったことがない」 「そんなこときいたこともないわ。あなたって、大人でしょう。はしかは、子供のうちに必ずかかるものなのよ」  春子が、信じがたいといった眼をした。  圭一は、壁に背を押しつけたまま春子に説明した。幼児期から小学校に入ってからもかれは、はしかにかかったことがなかった。中学校に入った頃、母はそのことをひどく気づかってかかりつけの医師のもとにかれを連れて行き、相談した。医師は、圭一が生れた時からその健康状態も知っているので、母の心配を十分に理解し、 「皇族の××宮様は、成人なされてもはしかにおかかりにならぬという話をきいているが、それは、人との接触が少いからだろうな。しかし、宮様とはちがって、圭一君は学校には行くし、近所の子供とわいわい遊んできたのだから、かからぬはずはないんだが……」  と、頭をかしげ、なにを調べるのか口をあけさせ、懐中電灯で咽喉をのぞきこんだりした。  その折の医師の話は、今でも圭一の耳に残っている。はしかは決して恐しい病気ではないが、成長してからはしかにかかると、重症になることが多い。殊に大人になってから発病すると、死ぬ確率も高いという。  圭一は、その話におびえ、成可く早くはしかにかかりたいと念願していたが、不思議に感染することもなく成人した。そして、現在一児の父になったが、はしかの点では幼い子供に追いぬかれたのだ。 「変な人と結婚したんだわ、私」  妻は、珍奇な動物でもみるように圭一を見つめた。  圭一は、萎縮した思いで壁に背をもたせかけ、膝をかかえた。  妻の言う通り、たしかに三十歳にもなってはしかにかかったこともない男は、変な人間なのかも知れない。工は正常にはしかになったが、その父親は、はしかにかかった幼い息子からの感染をおそれておびえている。それは、奇怪な光景にちがいなかった。 「あなたは、全く成長していない部分があるのね、きっと」  春子は蔑んだような眼をして言ったが、かれは反撥もできず黙っていた。  逃げ出すことを、かれは真剣に考えていた。工がはしかにかかったことから考えて、この部屋にはしかの菌が浮遊しているはずであった。  中学生の頃までは、はしかになりたいと願っていたが、現在では感染を避けたいという気持が強い。医師は成人してかかったはしかは重症で、死の危険にもさらされるという。結核の手術を受けて辛うじて死をまぬがれたのに、はしかであえなく命を落すことは口惜しかった。  それに、はしかにかかった折のことを想像すると、家からのがれ出なければならぬという気持が一層つのった。もしかれがはしかになれば、友人や知人は、その病気の意外さに驚き、そして笑い出すだろう。たしかに、大の男が髭におおわれた顔一面に発疹をうかべて寝ている図は、滑稽きわまりないものに映じるだろう。そして、もしも不幸にして死を迎えた時、かれらは圭一の死をいたみながらも、笑いをこらえるのに苦しむにちがいない。  春子の場合も、例外ではあるまい。彼女も圭一の死を悲しんではくれるだろうが、その死の原因がはしかでは、悲嘆もうすらぐ。 「なんでおなくなりになりました」  とたずねる人に、彼女は、 「はしかなんです」  と、答える。 「はしかというと、子供のかかるあのはしかですか」  客は、呆気にとられて反問する。 「そうなんです、可笑しな人で……」  春子は、笑いを顔にうかべるだろう。  そんな情景が想像されて、圭一はやりきれない気分になった。妻をもふくめて人々が、圭一の死を笑いの種にすることは不愉快だった。 「おれは、弟の家へ行って泊る。このままここで寝泊りしていると、確実に感染するから……」  圭一は、低い声で言った。 「あんた、本当なの」 「冗談でこんなことが言えるか。大人になってはしかにかかると、症状が重く死ぬこともあるんだ」  かれは、立ち上ると炊事場に身を避けた。  春子が、急に忍び笑いを始めた。  圭一は、スーツケースをとり出すと、万年筆、原稿用紙を入れ、下着と洗面道具をおさめた。そして、土間に立つと靴をはいた。  春子が眼に涙をうかべて、出てきた。その涙は、笑いのためのものであった。 「じゃ、行っていらっしゃい」  春子は、可笑しそうな眼をして言った。  弟夫婦に、子供はいない。その代りに、シェパードが一頭飼われている。  戦時中病死した親戚の或る夫婦は子がなく、小型犬を愛育していた。犬は衣服を着、部屋を悠然と歩いていた。尿意をもよおすと、犬は低い声で吠える。すると、犬係りの家事手伝いの女が、あたかも幼児を抱くように犬を抱いて手洗で放尿させる。犬の眼には、いつも尊大な物憂い光が浮かんでいた。  弟夫婦は犬を可愛がっていたが、犬の飼い方はきびしい。犬が不要な吠え方をすると、鋭い声をかける。犬は、ぴたりと吠えるのをやめ、腹をつけて弟夫婦の顔をうかがう。弟は、犬と相撲をとるように取組み合ったり、鎖をつけて近くの野道を駈けたりする。犬は、弟の命じるままに従っていた。  弟の家の玄関に近づくと、犬が吠えた。 「どうしたんだい、今頃」  玄関をあけた弟が、スーツケースをさげた圭一の顔をいぶかしそうに見つめた。  部屋に上った圭一は、子供がはしかにかかったので感染をおそれて逃げてきたことを説明した。  弟の妻は笑い出したが、弟はそのことを思い出したらしく、 「そうだ、兄貴ははしかにかかったことがなかったんだ。おふくろが心配していたものな」  と、しきりにうなずいた。が、スーツケースを手にやってきた圭一が滑稽に思えるらしく、 「いい大人のくせに。子供の父親になっても、男って貫禄のねえものだな」  と、可笑しそうに言った。  その夜から弟の家に二泊したが、弟の家にばかり世話になるのも気がひけて、三日目の夜は三兄の家に行った。そこでも圭一は家を脱け出てきた理由を説明し、泊らせて欲しいと頼んだ。  しかし、兄は圭一がはしかに感染しなかったことを思い出せぬらしく、 「そんなばかな。おれの兄弟に、そんな変な奴が生れるか」  と、笑いながら相手にしてくれない。  そのうちに、兄が圭一の顔をのぞきこむような眼をして、 「おい、妙な理窟を述べているが、家を叩き出されてきたんじゃないのか」  と、言った。 「冗談じゃありませんよ。叩き出すとしたらぼくの方ですよ」  圭一は、意外な言葉にむきになって反撥した。 「だめ、そんなこと言ったって。女というものは、子供を産むと自分が家の中心だと思いこむものなんだ。おれの女房を見てみろ、腰まわりも太くなって、どっかと家に坐りこんでいる。いくら亭主がいばってみても、女房は出てゆくものか。叩き出されるのは亭主の方さ」  兄は、隣室の嫂《あね》に気づかうような視線を向けながら言った。 「でも、今度の場合は、はしかなんです」  圭一が答えると、 「そうか、そうか。わかった。まあ、泊ってゆけよ」  と、兄は薄笑いしながら言った。  あらぬ誤解を受けて泊らせてもらうことが気づまりになった。たとえ工の菌に感染してはしかになっても、家に帰ろうかと思ったが、顔に発疹をうかべて病床にふしている姿を想像すると、その気持もたちまち失せた。  圭一は、三兄の家と弟の家を交互に泊り歩いた。  アパートに電話がなく、春子から会社に電話もかかってこないので、工のはしかがどのような経過をたどっているかわからない。緊急の用事以外に会社へ電話をかけてはならぬと申し渡してあることが、後悔された。  その夜もスーツケースをさげて兄の家にむかったが、居候をして転々と泊り歩いていることがやりきれなくなって、思いきって家へむかった。アパートの二階の窓には灯がともっていて、かれは、なつかしい気分で階段を上るとドアをそっと開けた。 「おれだ」  かれは、声をかけるとカーテンの隅から顔を突き入れた。  部屋の中では、卓袱台を中に春子が工と向き合って食事をしていた。 「あら、帰ってきたの。どうでした、外泊の気分は……」  春子が、顔をこちらに向けた。 「どうでしたじゃないよ。工はどうなんだ」  圭一は、腹立たしげに言った。 「もう大丈夫なの。明日あたり会社に電話をかけようと思っていたところよ」  春子の言葉に、圭一は安堵し、靴をぬいだ。そして、部屋に入ると、工を見つめた。顔色は悪く幾分痩せてはいるが、顔に発疹はうかんでいない。感染する危険は去ったようだった。 「そうだわ、お兄様の所から電報が来たのよ。あなたがスーツケースをさげて泊り歩いているので心配したのね」  春子は、茶箪笥の引出しから電報紙を出してきた。  圭一は、いぶかしそうに紙面に眼を落した。そこには「フウフゲンカカ ユルシテヤツテクダサイ ケイイチヲ イエニイレテヤツテクダサイ」と書かれていた。 「ばかにしてるな。お前はなんて返事をした」  圭一は、苦笑した。 「電話をかけたわ。でも、信用しないのよ。あなたがはしかにかからなかったことは忘れていてね、夫婦喧嘩だろう、わかっているよ、おれも詫びるから家に入れてやってくれの一点張りなの」  春子は、おかしそうな眼をした。  圭一は舌打ちした。 「全くあの兄貴は、そそっかしい男なんだ。お前に叩き出されたと思いこんでいるんだ。なにを言っているんだ。春子を叩き出すことはあっても、こっちが叩き出されるなんてことはありませんよ、と言ってやった」  圭一は、張りのある声で言いながら、春子の顔を盗み見た。  春子は、顔にかすかな笑いをうかべていた。そして、工に食事の世話をしながら、 「でも、私はこの子がいるからこの家を出ることはしないわ」  と、言った。  圭一は、おだやかな表情をした春子の横顔をみつめた。春子の顔には、犯しがたい落着きがただよっている。  工が立ち上ると、圭一に近づき膝に上ってきた。 「おい、本当にはしかは治ったんだろうな」  かれは、頬を寄せてしがみついてくる工を避けるように顔をのけぞらせた。  春子は、返事もせず食器を片づけはじめていた。 [#改ページ]    巣作りのこと  五月中旬、春子の初の短篇集が出版された。それは、前年に圭一が自費出版した短篇集とちがって出版社から正式に出されたものであった。  その出版社は設立されたばかりで、作家の石山氏が社長兼編集顧問で、最初の出版物として春子のものがえらばれたのである。石山氏は、 「今は女流作家が少いが、これからは女の作家が続出するようになる」  と、予言めいたことを口にし、春子につづいて無名の女流作家の単行本を出版する予定だと言っていた。  その頃、圭一は、すでに死者を主人公にした百枚ほどの小説を書いて文芸雑誌の編集者に渡していたが、死んだ瞬間から死者である「私」が語る内容が理解されなかったらしく、不採用になって送り返されていた。編集者は新人の登場を渇望しているようだったが、文芸雑誌は文名も定まった作家の作品に占められていて、無名の作家の作品は、よほど優れたものでなければ採用されることはなかった。  五月晴れの或る日曜日、鍋島が赤いポロシャツを着てアパートにやってきた。  鍋島は、圭一の長兄と同じように繊維会社を経営していて、圭一よりも三歳若いこともあって数年前から遠慮のないつき合いをしていた。岩手県出身者のかれは、誠実さと頑固さを兼ねそなえた男だった。  最初つき合いはじめた頃、かれは酒をほとんど飲めなかった。かれは、郷里の小学校の教師をしていたこともあり、事業を経営している身でありながら謹直な生活を送っていた。が、かれは、そうした生活を自ら突きくずし、世事を一応経験してみたい気持が強いようだった。そうしたかれに、酒を飲むことを教えたのは、圭一だった。 「二日酔いを恐れているようでは、一人前の酒飲みにはなれないぜ。よい酒飲みになる道はきびしいのだ」  圭一は、先輩風を吹かせて助言したりした。  鍋島は、圭一の言葉に素直に従って、酒を飲むようになった。その飲み方は、厳しい修行を自らに課しているような真剣さにあふれていた。  朝、かれの自宅に電話をかけると二日酔いに苦しんで寝ていることが多かったが、夕方になると電話をかけてきて飲もうと誘いをかけてくる。そして、酒場に入ると、かれは再び必死な面持ちで杯を口に運びつづける。  そうしたことを繰返すうちに、かれは生れつき素質が十分あったらしくかなりの酒飲みになった。  かれの酒は、陽気だった。呆れるほどよく笑い、冗談を口にしては哄笑する。ただし、なぜそんなに笑うのかと思うほど、冗談は面白くないことが多い。しかし、酒場の女たちは、かれに奉仕するようによく笑い、 「私たちを遊ばせてくれるいいお客さんだわ」  と彼女たちの評判もよく、圭一よりはいつの間にかいい酒飲みに昇格してしまっているようだった。  一カ月ほど前から、鍋島は会うたびに、 「家を建てなさいよ。せめて土地ぐらいは入手しておきなさい」  と、圭一に口癖のように言うようになった。かれの養父の友人に不動産屋がいて、その誠実な男に頼んで土地を買えと言う。  その度に、圭一は頭をふりつづけた。生活は一応安定しているが、土地を入手できるほどの金銭の貯えはない。二間あるアパートの生活で不自由は感じていないし、家を持つなどという気は毛頭なかった。 「お金がないって、いくらぐらいあるんです」  鍋島が思いきったようにたずねた。 「それは知らない、女房にまかせてあるから……」  圭一は、正直に答えた。  鍋島は、家が近い関係で夜酒を飲んだ帰りに圭一のアパートに立寄ることもあって、春子とも顔なじみになっていた。  その日、かれは、ドアの外に立つと、 「新しい車を買ったんですがね、どうです奥さんと子供さんも連れて郊外をドライブしませんか。いい天気だし……」  と、言った。  圭一は、億劫だったが、かれの好意を無視することもできず、春子に、 「どうする」  と、きくと、 「いいじゃないの。たまには郊外の空気も吸ってみたいわ」  と、簡単に同意した。  身仕度があわただしくはじまり、圭一たちは戸締りをすると外に出た。路上には、鍋島の言った通りボディーを光らせた車がとまっていた。  工《たくみ》は、眼をかがやかせて助手席に乗りこみ、圭一と春子は後部座席に並んで坐った。  車は、甲州街道から青梅街道にむかって進んだ。家族連れで郊外へのドライブを楽しむのか、多くの車が淡水魚の群れのように前後左右を郊外へむかって走っていた。  車が街道を右折すると、大きな赤い鳥居が生いしげった樹林を背景に立っていた。車はその前を過ぎ、今度は左折した。静かな家並が道ぞいにつづいていて、車はさらに左折するとゆるい坂道をあがり、その上りきった所で停車した。 「降りましょう」  鍋島が言うと、ドアの外に出た。  圭一は、妙な場所で停車したことをいぶかしみながら車の外に降り立った。  そこは高台になっていて、畠を宅地に造成したらしく雑草が一面に生い繁っている。なだらかな道が下っていて、その前方に神社の森がひろがっていた。圭一たちの立っている場所は四ツ角になっていて、雑草の中に建築中の家が二軒みえた。 「ここを買いなさい」  不意に、鍋島が眼の前の角地を指さし、命令口調で言った。  圭一は、呆気にとられ春子の顔に眼を向けた。が、春子は驚いた様子もなく、雑草の繁った土地を見まわしている。 「おれは、買う金なんかないからだめだよ」  圭一は狼狽し、後ずさりした。 「でも、坪一万円なら安いわ」  春子が、土地に眼を向けながらつぶやくように言った。  圭一は、春子を見つめた。なぜ妻が地価を知っているのか不思議であった。  圭一は、土地を買えと鍋島からすすめられていることを春子に話したことはなかった。その春子が、鍋島の指さした土地の坪単価を知っていることは意外だった。  鍋島は、いぶかしそうな表情をしている圭一の顔に眼を向けると、突然笑い出し、 「奥さんには、この土地のことを話してあるんですよ」  と、言った。  圭一は、事情がのみこめず春子の顔をうかがった。 「あなたに何度話をしてもらちがあかないからって、鍋島さんが私にこの土地のことをすすめに来て下さったのよ。それで、今日、車で案内して下さったわけよ」  春子は、苦笑しながら言った。 「それじゃ、ドライブなんて嘘だったんだな」  圭一が言うと、鍋島は、 「いえ、これから村山貯水池にでも御案内しようと思っていますよ。そのついでに、現地を一応みてみたらどうかと思ってここへ来たんですよ」  と、平然とした口調で言った。  圭一は、鍋島と春子にはかられたことに気づいた。  春子は、現在のアパートに住みついてから方眼紙で家の設計図をいくつも書くようになった。 「家を持てない亭主に対するいやがらせだろう」  圭一はなじったが、春子は、 「これは私の小学生の頃からのただ一つの趣味なのよ。勝手な空想をして設計図を書くのは楽しいわ。一階がない二階だけの家とか、傾斜地に建てる家とか、あれこれ考えをめぐらして設計図を書くと、頭の疲れがとれていいのよ」  と、明るい眼をして答えた。  数学を専攻したかれの友人は、頭が疲れると難解な方程式を解くことにしているというが、それにくらべると春子の疲労回復法は決して突飛ではない。が、かれは、そうした春子の内部に、自分の棲家を持ちたいという欲望がひそんでいることに気づいていた。 「さ、買いなさいよ。土地は六十三坪、坪一万円だから、六十三万円」  鍋島が、せかすように言った。 「そんなこと言われたって、買う金がないよ」  圭一は、萎縮した気分で答えた。 「それは、奥さんからもきいて知っていますよ、二十七万円しかないって。お兄さんたちに出してもらやあいいじゃないですか、兄さんたちは資産家なんだから……」  鍋島は、度の強い眼鏡の奥の眼に険しい光をうかべた。 「それは、できないことなんだ。兄貴に頭をさげて金を貸して下さいなんて、いやだね。それを今まで通してきたんだから、それは、だめだ」 「また、そんなことを言ってる。奥さん、なんとか言ったらどうです」  鍋島が、苛立ったように声をかけた。 「でも、この人はこういう主義なんですよ」  春子が、困惑したように答えた。 「ああ、じれったいな。あんたもあんたなら、奥さんも奥さんだ。お兄さんに保証人になってもらって銀行から借金するんですよ。お兄さんに借りるわけじゃないんだから、いいじゃないですか」  鍋島の顔は、紅潮した。  銀行から金を借りるとしても、それは兄が保証人になることが条件になるはずだった。兄から直接借金しなくとも、保証人になってもらうことは、兄に金を借りることと同じであった。 「せっかく案内までしてもらって悪いが、今回はやめにしたい。いずれ貯えができたら、その時お願いするよ」  圭一は、鍋島に言った。 「冗談言うんじゃないですよ。貯えができたらなんて悠長なことを言ってたら、地価の上昇に追いつかずいつまでたったって土地なんか買えませんよ。土地は、借金して思いきって買うもんですよ」  鍋島は、いらいらした眼を光らせて言った。 「でも、今まで兄貴に借金のことを頼んだことがないし、これは一生通すつもりなんだ」 「頑固ですね」  鍋島の顔色が変った。 「そうかも知れない。このことだけは、ぼくの主義なんだからそっとしておいて欲しいんだ」 「すると、私が余計なおせっかいをしているって言うんですかい。きき捨てならないですね」  鍋島の顔に、突然怒りの色がむき出しになった。 「いや、そういう意味じゃない。ありがたいと思っているよ」  圭一は、困惑して答えた。 「そうですか。仰有《おつしや》る通り私は、おせっかいやきですよ。お兄さんたちは資産家なのに、あなたたちが不自由な生活をしている。実はね、あなたのお兄さんに言ったんだ、なにしているんですって。そうしたら、あなたに金を貸すと言っても借りにこないんだって言うじゃないですか」  鍋島の声は、大きかった。 「私はね、余計なことと思われるかも知れませんけど、これからもおせっかいをやきますからね。覚悟してて下さいよ。頑固だけじゃね、世渡りはできませんよ」 「あなただって、頑固じゃないか」  圭一も、声をあらげた。 「頑固は頑固ですよ。でもあなたの頑固とは質がちがうんです」  鍋島は、口をつぐみ、圭一から眼をそむけた。  白けた沈黙が、二人の間に流れた。  空は澄みきっていて、微風が渡るたびに周囲の雑草がゆらいだ。 「よく相談してみますから」  おろおろしていた春子が、とりなすように鍋島に言った。  鍋島は、うなずくと、 「そうですね。じゃ、今日はこのままお送りしましょう」  と言って、車のドアを開けた。  車が、反転すると坂を下り、街道に出た。鍋島も圭一も無言で、ただ工だけが窓外に眼を向けながら声をあげていた。  アパートの前で車をとめた鍋島は、 「それでは、失礼いたします」  と、頭を深くさげて、再び車に乗ると商店街の方に出て行った。  部屋に入った圭一は、あぐらをかいて坐った。鍋島の好意が身にしみた。それを無視することはできないと思った。  兄に借金の話を申出るのはいやだったが、今ならできそうに思えた。明日とは言わず一時間もたてば、再び自分の殻の中に閉じこもってしまうことをよく知っていた。  かれは、息を大きく吸うと立ち上った。  春子が、 「どこへ行くんです」  と、声をかけてきた。 「兄貴の所へ電話をかけてくる」  圭一は、振向いて答えた。  春子の顔に、驚きの色にまじって嬉しそうな表情がうかんだが、春子は急に気になったらしく、 「私のためならいいのよ。借金するのは嫌いなんでしょうから」  と、遠慮がちに言った。 「お前のためなんかじゃない、鍋島のためだ」  圭一は、荒い声をあげると階段を下った。  たしかに鍋島のためだ、とかれは路地を歩きながら胸の中でつぶやいた。腹を立ててまで土地の入手をすすめてくれた鍋島の好意を無視するわけにはゆかない。が、春子の顔にうかんだ喜びの色に、かれは、家長としての責任も感じた。  公衆電話の受話器をとると、次兄の家の電話番号をまわした。日曜日なので留守かと思ったが、嫂《あね》の声につづいて次兄のしわがれた声が流れ出てきた。  圭一は、簡潔に鍋島から土地の入手をすすめられ、現地も見てきたことを話した。 「購入費だな、いくらだい」 「六十三万円です」 「いいよ」  兄は、あっさりと言った。 「ただし兄さんから直接借りるのではなく、銀行から借りたいんです。保証人になってもらえますか」  圭一が口早に言うと、兄は黙っていた。 「可愛気がないね、あんたは」  兄のつぶやくような声が、流れてきた。そして、しばらく声がとだえていたが、 「わかったよ、銀行から借りてあげる。私が保証人になればいいんでしょう。明日手続きをする。月にいくら返せるね」  と、事務的な口調で言った。 「月に一万円ぐらいです」 「わかったよ。じゃ、これで」  兄は言うと、電話の切れる音がした。  圭一は、情無い気分になった。やはり電話などかけなければよかった、と後悔した。  かれは、公衆電話の傍をはなれると、アパートにもどった。 「どうでした」  ドアをあけると、春子が、かれの顔を見つめた。  かれは、返事もせず畳の上に仰向けに寝ころがった。無性に、自分に腹が立った。金銭のことで、自分がひきずりまわされているようで不快だった。 「可愛気がない、と言ったでしょう」  春子が、雑誌のページをくりながら言った。 「なぜわかる」  圭一は、半身を起した。 「わかりますよ。あなたは可愛気がないんですから……」  春子は、圭一の顔もみずに答えた。  妻にはすべてがわかっているらしい。彼女は、圭一の申出でに兄がただちに応じたことも察知しているらしく、ゆったりとした表情をしている。圭一は、妻の術中におちいったような気がした。  かれは、鍋島に報告せねばならぬ義務があることに気づいた。本気になって怒った鍋島がありがたく思えた。かれは、立上ると再び階段を下った。  次兄の取引先の銀行から金が出たのは、二日後だった。  かれは、会社が終った後、迎えにきてくれた鍋島の車に乗って、購入予定の土地を管理している不動産業者の店へ向った。  車中で鍋島の話すところによると、磯村というその不動産業者は無一文から這い上った男で、竹を割ったような性格だという。終戦後は、かなり荒れた生活をして、進駐軍と称された米兵と何度も喧嘩をし、M・Pに連行されたこともあるという。  圭一は、体格のよい男を想像していたが、磯村は小柄で髪には白毛がまじり、年齢も五十歳を越えているようだった。が、その顔には負けん気の気性があらわれていて、眼の光も鋭かった。  圭一が鍋島の後から小さな店に入ってゆくと、 「ああ、あんたね。いい土地だよ、あそこは……。高台の角地だし、坪一万円は安いや」  と、磯村は歯切れのよい声で言った。そして、 「あんたね、土地というものは地球の一点なんだよ。一点はあそこしかないんだから……。絶対にないんだよ、アメリカにもアフリカにも」  と、強調した。  契約書に印をおしたりして、手数料を加えた七十万円近い紙幣を出すと、 「いいや、全部で六十万円にしておこう。あんたみたいな三十を出るか出ないかぐらいの勤め人からは、とれないや。おじさんは、あんたみたいな人から儲ける気はないよ。ほかの金持ちから儲けるから……」  と、磯村はさりげない口調で言った。  圭一はうろたえ、約束通りの金をとってくれと言うと、磯村は、 「いいったらいいの。ただね、今後道で会ったら、おじさん元気? ぐらい言ってくれよ。お客っていうものはね、一度取引がすむと知らん顔する者が多いんだ。なんだ、あの時の不動産屋かっていうように顔をそむけて通るんだからね」  と、口をゆがめて険しい表情をした。  圭一が、なおも恐縮し金を払おうとすると、鍋島が、 「いいんですよ、これ以上言うと、この人こじれちゃうから……」  と、手で制した。  磯村は、別に安くしたからと言って恩着せがましい様子もみせない。そして、店の外に送って出ると、 「あそこは地球の一点だよ」  と、つぶやくように言った。 「これでさっぱりしたな。土地さえ入手できればこっちのものだ。家はゆっくり建てればいい」  鍋島は、ハンドルを操りながらあたかも自分のことのように晴れやかな顔をして言った。  夜の色が濃く、街道にはヘッドライトの光芒が往き交っていた。  鍋島に送ってもらってアパートにもどると、部屋に弟夫婦が坐っていた。  圭一が、背広をぬいで坐ると、弟が鞄の中から紙幣の束をとり出し、四十万円が三兄、二十万円がおれだと言った。 「断わっておくが、これは春子|嫂《ねえ》さんに貸す金だからね。兄貴にじゃないよ。この金で家を作ればアパート代が浮く。その代金を月々返済してもらうからね。いいね、嫂さん、滞納は困るよ」  弟は、おどけたような眼で春子を見据えた。  圭一の身辺が、急に騒がしくなった。  建築業者を紹介してくれたのは、ロシヤ文学の翻訳をしている友人の佐近だった。かれは、圭一と同じように重症の結核患者であった男だが、健康を取り戻してから新劇で上演されるロシヤの戯曲の翻訳をつづけていた。  理由はわからぬが、かれの交際範囲は広く、友人間ではデパートのような男だと評されていた。ビフテキ専門のレストランをひらこうとした友人は、かれから牛肉卸商を紹介されたし、仏壇を買い求めようとした友人は、かれの口ききで大きな仏具店で定価の三割安の仏壇を手に入れることができた。  そうしたかれの交際網の中に南という建築業者がいたのだ。 「いい仕事をするよ。誠実な男でね、決して金銭的にごまかすようなことはしない」  かれは、南のことをしきりに推薦した。が、それにつづいて、 「ただ、口の悪い男でね。人相も余りよくないし、それで人に警戒されることもある。それに金がないのに、あるようなことをしきりに言う。そんなところを気にかけなければ、文句のつけようがない男だ」  と、つけ加えた。佐近は、責任感の強い友人であったし、かれのすすめを拒む理由もなかった。  佐近が連絡したらしく、或る夜、アパートに南が職人らしい若い男を連れてやってきた。エドワード・G・ロビンソンというギャング役などをやっていたアメリカの俳優がいたが、南はそれによく似た容貌をしていて、古びた服に古びた黒いベレー帽をかぶり、職人も同じようなベレー帽を頭にのせていた。  圭一は、フランスのレジスタンスが二人入ってきたような錯覚にとらえられた。  かれの出した名刺には、南建設工業株式会社取締役社長という文字が印刷されていた。  かれは、ドアから入ってくると、無遠慮に二つの部屋を歩きまわり、手洗のドアを開けて天井を見廻し、 「せまい面積で、うまく作りやがったな。家主の搾取だ」  と言って、笑い声をあげた。  圭一は、苦笑しながら座布団をすすめ、かれと打合わせをはじめた。  まず土地の図面を見せて、十八坪の家を建ててもらいたいと言った。そして、建築費はどの程度かかるか、とたずねた。 「どんな家を建てるかによるけど、金は余りないんでしょう、こんな所に住んでいるんじゃ。まあ坪四万五千円もみたら、いい家が建つがね」  かれは、短い足をあぐらに組んで言った。  圭一は、暗算し、用意した金では十万円ほど不足であることを知った。 「あと十万円だ。ボーナスをつぎこんでも不足だな」  圭一は、春子を振返った。  南が、煙草を指にはさんだ手をふって、 「金のことは心配しないでいいんだ。不足分はある時払い。一年後でも二年後でもいい。金はこっちに貸すほどあって困っているんだから……」  と、言った。  春子が、可笑しそうに眼を輝かせた。南の服装から判断しても、決して豊かそうには見えなかった。  南は、古ぼけたライトバンの車に乗って、何度も打合わせにきた。  かれは、春子が書いた設計図を見て感心したらしく、建築知識のある春子を信用したようだった。そして、それは圭一を妙な立場に置くことになった。  南はアパートにくると、最初に、 「奥さん、いますか」  と、声をかける。春子が買物で留守にでもしていると、南は、 「じゃ、一寸待たしてもらいますよ」  と言って、部屋に上りこむ。そして、圭一には建築の話は全くせず、煙草をすって春子の帰りを待つ。  やがて、春子が帰ってくると、南を中にしてテーブルに設計図がひろげられる。  南は、専ら春子に説明し、稀に圭一に顔を向けるが、すぐに春子に顔を向けてしまう。そのうちに南の前に置かれた設計図は、次第に春子の方に向けられ、圭一は設計図を全く逆の方向から見なければならなくなる。圭一は、首をまげて設計図をのぞきみるが、姿勢が苦しくなって、 「一寸、こっちにも見えるようにして下さいな」  と、声を出す。 「あ、そうか。さかさじゃよく見えないな」  南は、再び自分の前に正しく置き直し、両側から春子と圭一が等分に見えるように直す。  しかし、設計図は、また徐々に春子の方に向きはじめて、圭一は再び首を曲げてのぞきこむことになる。圭一は、堪えることができなくなって、 「見えないよ、それじゃ」  と、腹立たしげに声をあげた。 「やあ、それは失礼。あなたはここの御主人だからな」  南は、圭一の不満も意識しないらしく、落着いた口調で言うと、設計図の位置を直した。しかし、設計図はまたも動きはじめ、圭一も面倒臭くなって設計図をながめることを断念してしまった。  圭一は、一人取残されたような思いで煙草をすいはじめたが、春子は、それにも気づかず、食い入るような眼で設計図を見つめ、南の説明に相槌を打ったりしている。そのうちに、ふと圭一に気づいた春子が、 「私はいいと思うけど、あなたはどう思う」  と、設計図を圭一の前に置いた。そして、間取りその他について説明しはじめた。  圭一は、設計図に眼を落したが、実際の家がどのように建てられるのかよくわからない。 「この図は、どっちから見た図だ」  圭一がつぶやくと、春子は呆れたようにかれの顔に眼を向け、 「北側ですから、坂道に面した方ですよ」  と、言った。  その直後、春子が設計図を指さして南に言うと、設計図は大きくひるがえって春子の方を向き、活溌な意見が交されはじめた。  かれらは、しきりに専門用語を使う。圭一は、春子がなぜそんな言葉を知っているのか不思議に思えた。 「おい、少しはおれにもわかるような普通の用語を使ったらどうなんだ。テンブクロなんて専門用語を使っちゃわからないよ」  圭一は、苛立った声をあげた。 「テンブクロ? あなた知らないんですか、テンブクロを……。専門用語なんかじゃないでしょう」  春子が、南と顔を見合わせた。  家の建築準備が、春子を中心にすすめられた。  施工者の南をはじめかれの会社の者たちは、建築知識のない圭一を無視して、春子の意見を尊重する。職人というものは、長年の経験でその家族の中心人物がだれであるかを敏感に見抜くというが、南らの態度で、圭一は家の主権が妻に移行してしまっているのか、と思った。  棟上げは六月初旬におこなわれたが、その夜アパートにもどると、郵便受に速達の封筒が二通入っていた。封を切ってみると、圭一宛のものには芥川賞候補推薦、妻宛のものには直木賞候補推薦の通知が入っていた。  圭一は、推薦という文句が決定と同じであることを知っていた。春子の候補作品にえらばれたものは、一カ月前に単行本として出版された創作集の中の一篇で、圭一の作品は、同人雑誌に発表した短篇だった。  圭一は、自分の作品が受賞作に程遠いものであることをさとっていた。それは、手術を受けた直後のことを書いた私小説で、その頃の心境が素直に書けたとは思ったが、いかにも弱々しく、選考の対象になり得るものではなかった。  ただ春子の作品が、幾分注目されているらしく、民間放送のテレビ局から受賞した折にはテレビに出て欲しいという依頼があった。  また選考日の二日前には、地方の有力紙の文化部記者が、カメラマンを伴って訪れてきた。短い口髭をはやした記者は、にこやかな表情で経歴や文学を志した動機などをきき、 「選考日の夜は、御夫妻とも家にいますね」  と、きいた。  圭一は、とっさに自分だけは外に飲みに行っていると答えた。春子と家で顔をつき合わせ、重苦しい時間を過すのがやりきれなかったし、滑稽にも思えたからだった。  記者は、笑いながら小料理屋の電話番号をメモして帰って行った。  選考日の夜、鍋島と新宿の小料理屋に行って酒を飲んでいると、八時半すぎに電話がかかってきて受話器をとると、口髭を生やした文化部の記者からで、圭一と春子がそろって選から洩れたことを告げた。 「まだあなたたちは若いのだから、これからですよ」  と、かれはおだやかな声で言った。 「枕を並べて討死だい」  受話器を置いた圭一は、鍋島に言って笑った。  鍋島は、気の毒そうな顔をしたが、 「まだ若いんだ、これからさ」  と、文化部記者と同じことを言って、圭一に酒をすすめた。  店を出た圭一は、鍋島とバーを転々と飲み歩いたが、ふとアパートでかれの帰りを待つ春子のことを思い出し、鍋島と別れた。そして、タクシーでアパートに帰ると、 「だめだったな」  と、ドアを開けて春子に大声で言った。  春子は、 「静かにしてよ。今、子供を寝かしつけたばかりだから……」  と、指を口に当てた。 「だめだということはラジオできいたのか」  圭一が、低い声できくと、 「七時頃テレビ局の車がアパートの前に来て停っていたのよ。でも八時半頃窓から見おろしてみたら、いつの間にか消えていてね、九時のラジオニュースで知ったわ」  春子は、苦笑した。  その夏は、暑かった。幼い工《たくみ》は食欲を失い、痩身の春子は一層か細くなった。  それでも夜になると、甲州街道に店を張る縁日に浴衣姿で出掛けたりした。  圭一は、露店商のならべる品々をながめながら少年時代の縁日を思い出した。それは、アセチレンガスの匂いとともに鮮やかな記憶としてよみがえってくる。  かれの生れ育った町には小さな神社があって、それに面した道に縁日が出た。ほとんどが浴衣姿で、女の子は海ほおずきの店にむらがり、男の子たちは、小さな竹をはじきとばす針金製のピストルや山吹鉄砲の店にひしめいていた。食べ物も多彩で、ドンドン焼き屋、焼きそば屋、べっこう飴、蜜パンなど子供の食欲をそそるものが並び、かれはあやしげなフライと称する串つきの揚げ物を、ソースのみちた容器に串をしならせて十分にひたし口に入れるのが好きだった。  また町の高台にお諏方さまと呼ばれる大きな神社があって、夏祭りには豪華な神輿《みこし》が町を練り歩いた。と同時に、各町内からも町神輿や山車《だし》が出て、圭一も弟とともに小若と染めぬかれた小さな法被を着、神輿をかついだりした。  その神社の境内に通じる道にもおびただしい夜店がならんだ。人出も多く、店の品物をのぞくことすらできない場所もある。そして、そこにもアセチレンガスの眩《まばゆ》い光と匂いがみちていた。  甲州街道の縁日は、少年時代親しんだ縁日とは比較にならぬほど品物も乏しく、珍しいものもない。商人の顔にも活気がなく、ぼんやりと椅子に坐っていた。しかし、それでも工は興味をもっているらしく、小さな店を熱心に見てまわっていた。  春子が候補作品にえらばれた作品は、一部の選考委員に支持されたらしく、半年前圭一の作品が転載された総合雑誌の別冊に掲載されていた。春子は、それが嬉しいらしく、送られてきた雑誌を何度も繰返しひるがえしていた。  その頃、思いがけず映画会社からの申出でが圭一につづいて春子にもあった。圭一の雑誌に発表した短篇と、春子が単行本におさめた中篇をそれぞれ映画の原作として使用したいというのだ。  むろん映画会社は別で、圭一の短篇の映画化を希望したのはヌーベルバーグと称された一種のアバンギャルド映画運動を提唱している中堅の映画監督で、春子の中篇の映画化を企てたのは技巧派として著名な監督だった。  圭一も春子もほとんど同時に申出でを受けた偶然に驚きながらも、自作がどのように映像化されるのかに興味をもち、その申出でを承諾した。作品が一作ずつ転載されただけの身で、自作の映画化の申出でを受入れたことは後暗いような恥しさを感じたが、自作が映像化されることは楽しくもあったのだ。  圭一は、新宿のバーで映画監督と制作者に会って正式に受諾の返事をし、春子も同様の打合わせをして、それぞれ映画化が決定した。  やがて春子につづいて圭一にも映画会社から原作料が送られてきた。それを合計すると、三兄と弟が建築資金として貸してくれた金額と同額であった。  圭一は、早速三兄と弟の家に行って金を返した。 「こんなに早く返してもらったんじゃ、利息もとれねえな」  と、弟は笑っていた。  文芸雑誌の九月号には、圭一の六十三枚の小説が掲載されていた。それは、聾唖《ろうあ》学校を舞台にした少年と少女を主人公にした小説で、圭一にとって初めて文芸雑誌に自作が発表されたものであった。  九月に入ると、十八坪の家が完成間近になった。  圭一は、春子と土曜日の午後必ず建築現場におもむいた。職人たちの春子を尊重する態度は、すでに固定化していて、圭一たちが顔を出すと、職人たちは春子のまわりに集ってくる。そして、春子から指示を受けると、それぞれの持場にもどって行った。  家は、二畳の食堂、六畳の和室、応接間、書斎で構成されていて、かれは、書斎に入りこんでみた。窓が北と東向きに一つずつ開いていて、そこに作りつけの机が張り出している。小さな家なので、圭一と春子は同じ書斎を使用しなければならないのだ。  その点は、設計図を見た時から承知していたが、ほとんど完成した書斎に入ってみると、妻と同じ部屋で机に向うことが鬱陶しくなった。  書斎では、一人の中年の職人が壁にはめこむ書棚を作っていた。  圭一は、職人に声をかけた。 「君、ここに仕切を作ってもらえないかね」  圭一は、仕事の手をとめた職人に、部屋の中央を指さした。 「仕切って、間仕切ですか」  職人は、床におり立った。 「そう。出来れば、完全に壁をぬった仕切で二つの部屋を作り、そこにドアをつけるというような……」  圭一は、今さら言っても仕方がないと思ったが、二部屋に区切れば、お互いに落着いて小説が書けそうに思えた。  職人は、かすかに蔑んだような表情をすると、 「奥さん」  と、大きな声をあげた。  圭一は、狼狽し、 「女房を呼ばなくてもいいじゃないか。君におれが相談しているんだ」  と、言った。 「わかっています。奥さん、一寸来て下さい」  職人は、圭一を無視したように再び声をあげた。  春子が、書斎に入ってきた。 「旦那がね、この部屋の真ん中に間仕切をつけてくれと言っているんですよ。どうします」  職人が、春子に告げ口をするように言った。 「間仕切を?」  春子が、圭一の顔を見つめた。そして、すぐにその理由がつかめたらしく、 「それは駄目だわ。この部屋を二つに仕切ったら、夏は風が通らなくて暑くてたまらないわ。それに、あなたは会社から帰ってきて夜机に向うし、私は、昼間あなたのいない間にこの部屋を使うのだから、差支えはないでしょう」  と、なだめるような口調で言った。  圭一は、仕方なくうなずいた。アパート住いをつづけてきたことから考えると、それは贅沢なことにちがいなかった。  職人は、再び書棚づくりにとりかかっていた。  九月下旬、圭一は妻子とともに新築した家に引越した。  結婚以来六年間に五度目の引越しをしたわけだが、かれは、その地が永住の地になるのだと思うと気分が落着くのを感じた。  郊外なので空気は澄み、小鳥の飛び交う姿も眼についた。日没後は、深い静寂が家をつつみ、遠くの駅の方角から電車の発車する警笛がきこえるだけだった。  十八坪の家であったが、かれには広大なものに感じられた。 「どうです、住み心地は?」  鍋島にきかれた圭一は、 「広くてね、家の中で迷っちゃうよ。女房の名を呼んだりすると、しばらくしてこだまが返ってきたりしてね」  と、冗談を言ったりしたが、せまいアパート暮しになれたかれには、通常の空間をもつ廊下も手洗いも贅沢なほど広く感じられた。  浴槽は、春子の姉の夫が新築祝いに贈ってくれたが、自分の家で入浴できることも楽しかった。銭湯で背中に刻まれたメスの痕を人にみられることが恥しかったが、そんな気遣いをする必要もなく、かれはのびのびと湯に漬り、体を洗った。  周囲は雑草が繁っていたが、向いの角に和風の家が、道の奥に三角の屋根をした洋風の家が建っていた。和風の家は紡績会社に勤務する人の家で、洋風の家は外交官一家が住んでいた。  圭一が春子と工《たくみ》をつれて挨拶に行くと、 「お若いのに家を持たれて……」  と、二軒の家の主婦が同じようなことを口にした。  両家の主人は五十年輩の人で、三十一歳の圭一が家を新築し移り住んできたことは稀有なことであるにちがいなかった。  その付近一帯は、水道もガスもひけていなかった。  狭い庭の一郭に井戸が掘られ、それが蛇口をひねれば自動的に水が出る仕掛けになっていた。水質はきわめてよく、水もうまかった。プロパンガスのボンベが台所の外におかれていて、それが炊事場と浴室に通じていた。  南向きの庭は日当りがよく、春子は洗濯物を竿に通して干していた。生活は不自由なく、工も外に出て一日土いじりをしていた。  圭一は、毎朝七時半に家を出ると坂道を下って行った。駅に通じる道は、稲荷神社の参道にもなっていて、両側に桜樹が並んでいる。そして、それがつきた所に小さな駅があった。  夜、勤めを終えて駅から参道を歩き坂道を上ってゆくと、霧が湧いていることがよくあった。神社の森から湧き出るのか、坂を上りきった付近は最も霧が濃く、家の灯がにじんでいた。  かれは、居間で休息をとってから書斎に入る。物音一つしない深い静寂の中で、机に向い原稿用紙をひろげる。文芸雑誌から次作を見せて欲しいという依頼があって、かれは転居してからも毎夜小説の執筆をつづけていた。それは、すでに下書きを終え清書に移っていた。  霧がおり、初雪が舞う季節になった。  十二月初旬、文芸雑誌に送った小説が没になって送り返されてきた。 [#改ページ]    同人たちのこと  年が明けて間もなく、同人雑誌に書いた春子の作品が再び直木賞候補に推されたが、それも受賞とは縁がなかった。  圭一は、文芸雑誌に送った小説が不採用になったことに気落ちしたが、所属している同人雑誌の主宰者である作家の醍醐氏の言葉がしきりに思い起された。  醍醐氏は、或る会の席で、 「書きつづけてゆく者が作家だ」  といった趣旨のことを口にした。  氏がどのような意味でそんなことを口にしたのかはわからなかったが、圭一は圭一なりの解釈をした。それは、著名な出版社から発行されている文芸雑誌であろうと印刷費を持ち寄って作られる同人雑誌であろうと、小説を書き発表しつづけている者は作家だという意味にとれた。それは、醍醐氏の同人雑誌にあてもなく小説を書きつづける者に対する温い励ましであったのだろうが、小説を書くことの本質にもふれていると思えた。  小説を書く者は、すぐれた小説を書けばそれですべてが達せられる。文芸雑誌の編集者や批評家や作家も、新しい資質をもった作家の出現をねがい、その眼にとまって文壇に登場する者もいる。しかし、それはあくまで小説を書く者にとっては受動的なもので、すぐれた小説を書きつづければそれでよいのだ。  圭一は、前年に二度芥川賞候補になり文芸雑誌に作品が一篇掲載されたが、それも表面的な現象であって、自分の本質には少しも変化がない。  かれは、一年間遠ざかっていた同人雑誌に小説を書きたいと思った。そして、文芸雑誌で不採用になった「少女架刑」という小説を新たに清書して、同人雑誌の編集部に持って行った。かれは、自分が同人雑誌以外に作品の発表舞台をもたぬ人間であることをはっきりとさとっていた。  同人雑誌の月一回おこなわれる例会には、さまざまな男女が集ってきていた。大学生から老人まで年齢の範囲も広く、職業もまちまちで、多くは金銭に縁がなく圭一夫婦と同じようにひたすら小説を書くことに生活を賭けている者たちばかりであった。  そんな中で、柳田という男は豊かな経済力をもつ稀な存在だった。かれは、体も小柄で坊ちゃん刈りのような頭髪をしていた。初め圭一は、かれを二十二、三歳と思っていたが、実際は圭一より二歳も年長であることを知って驚いた。注意してみると、頭髪は黒くあどけない表情をしていたが、笑うと顔にこまかい皺がうかび出て、三十歳を越えた年齢であることが知れた。  かれは、東北生れの人間で、終戦後大学を出てからかなり生活的な苦労を体験したようだった。が、そうした苦労はかれの性格を侵蝕することはせず、かれは純粋な精神とおおらかな気持をもっていた。  さまざまな職業を経てきたようだったが、かれは米軍基地の傍で「ベビーさん」というクリーニング店をひらいた。それが異常なほどの成功をしめして、かれは次々に支店を開設し、七つのクリーニング店を経営する身になっていた。従業員まかせにしている七つの店を管理するのは困難なことにちがいなかったが、それらを巧みに統率しているのは、かれのおおらかな性格によるものであるにちがいなかった。  柳田は、変った人物であった。的はずれのことを絶えず口にし、合評会で同人雑誌に発表された同人の批評をする時も、 「林檎を食べると、頤がキーッと疼くことがあるでしょう。この小説は、それと似ている。わかるでしょう」  などと言ったりする。  或る時、かれは同人の一人に自分の胸をふれさせた。  短い叫び声が同人の口からもれ、柳田にうながされて、圭一もその胸に手を当てた。意外にも柔いふくらみが掌《たなごころ》に感じられ、圭一はあわてて手を引いた。注意してみると、セーターの胸の部分がわずかではあるが隆起している。同人たちは、その胸のふくらみを興がった。  そんな道化師めいたところもあって、柳田は同人の間で人気があり、かれの周囲では常に笑い声が絶えなかった。  柳田は、小説を書いていると言っていた。 「商売が忙しくてね、なかなか筆は進まないよ」  と言っていたが、同人たちは、的はずれのことしか口にせぬ柳田のような男に小説など書けまいと思いこんでいた。  やがて、かれの小説が同人雑誌に掲載されたが、その小説は同人たちを驚かせた。人里はなれた草原に、貧しい母親が間引きのため子を捨てる小説だったが、濃い詩情とユーモアが表現ににじみ出ていて、圭一も見事な作品だと感心した。  同人の一人は、合評会の席で、 「人は見かけによらぬものだということを痛感しました」  と、言って笑わせたが、それは同人たちの共通した感慨だった。  文学青年らしい風貌をし、新しい文学傾向を淀みなく口にする男が、呆れるほど古めかしい小説を書く例は枚挙にいとまない。それとは対照的に、口もろくにきけぬ風采のあがらぬ男が、新鮮な短篇を発表することも多い。そうした傾向は、小説を書く者の世界では特に顕著で、柳田もその一例にすぎなかったのだ。  かれの作品は、同人誌評でも激賞され、その期の芥川賞の候補作品に推された。有力候補作品だという噂が高かったが、最終選考の過程で賞の対象から除外された。  しかし、柳田は少しも残念がる風はなく、 「芥川賞をもらっても、ぼくは作家になる気持はないんだ。商売の方が大事だから……」  などと言っていた。  それは、柳田だけに嫌味な言葉にはきこえなかった。かれは、虚勢をはったり周囲の思惑を考えたりできるような男ではなかった。かれは、自分の本業がクリーニング店経営で、それが生きる唯一の道だと考え、小説を書くことは二次的なものでしかなかったのだ。  さらに、かれのもとに文芸雑誌から作品の依頼もあったが、かれはあっさり辞退した。その理由は、 「商売の最盛期で忙しいから……」  ということであったという。  そうしたかれの態度に感心する者もいたが、圭一には、柳田が自分の世界とは別の世界に住む異質の男としか思えなかった。  柳田と作家の井淵氏との出会いも、かれの特異な性格をそのまましめしていた。  或る夜、圭一は柳田をふくめた三人の同人と新宿の小料理屋に入った。山形県の地酒と山菜料理を出すので名の通った店であった。  テーブルに腰を下すと、すぐに柳田が立ち上り、店の奥に歩いて行った。そこには、年配の和服を着た人が一人で酒を飲んでいたが、それは写真で知っている高名な作家の井淵氏であった。  柳田は、井淵氏と笑いながら話をしていたが、 「おい、みんなこっちへ来て飲もうよ」  と、圭一たちを手招きした。  圭一は、呆気にとられ、井淵氏の顔を遠くからうかがった。氏は、にこやかな表情をして、こちらを見ている。 「ばかだなあ、あいつって。なんていう奴だ」  同人の一人が、顔を伏せて言った。  柳田は、しきりに手招きしていたが、圭一たちが腰を据えたままなので、いぶかしそうな表情をしてもどってくると、 「どうしたの。あっちへ行こうよ」  と言った。 「なにをばかなことを言っているんだよ。井淵さんは一人で酒を楽しんでいるんだ。そこにおれたちが行ったら失礼だろ」  圭一が言うと、他の同人も、 「第一、勘定はどうするんだ。こっちからおれたち四人も行ったら、おごってもらうことになるじゃないか」  と、舌打ちするように言った。  柳田は、 「あ、勘定のことね、そうか、そうか」  と言って、再び井淵氏のテーブルにもどって行った。  圭一は、困ったことになったと思った。柳田のことだから、圭一たちの口にしたことをそのまま井淵氏に伝え、おごってもらってもいいかと言いかねない。第一、柳田が井淵氏とどれほどの面識がある間柄なのかも不明であった。  井淵氏が微笑しながらうなずくのが見え、柳田が引返してきた。 「おい、井淵さんに割勘でやりましょうと言ったら、いいと言ってた。さ、行こう」  柳田が、明るい顔でうながした。  圭一は、柳田に井淵氏が気軽そうに受けこたえしているので、柳田がかなり親しい間柄なのかも知れぬと思った。他の同人も同じように考えたらしく、席を立つと柳田の後にしたがった。  圭一たちは、氏名を名乗り頭をさげて腰を下した。 「いい所で会いましたね。学生時代に同人雑誌をもって一度伺ったことがありましたが……」  柳田が言うと、井淵氏は、 「ああ、そうだったかな」  と、口もとに笑みをたたえながら答えた。  圭一は、呆気にとられた。柳田は、一度井淵氏の家に行っただけのことで、井淵氏はそのことを忘れてしまっている。井淵氏が、声をかけてきた柳田と、酒席を同じにする圭一たちを礼儀も知らぬ男たちと不快がっているのではないかと思った。  しかし、井淵氏は、別に機嫌を損じた風もなく、ゆったりと杯を口に運んでいる。圭一たちを決して無視しているのではないが、一人酒を飲んでいた時と同じ姿勢と表情をくずさなかった。  圭一たちは、酒を飲み肴をつまむだけで口もきかなかったが、柳田は嬉しそうに氏と会話をつづけていた。  柳田は、井淵氏のことをしきりに、 「井淵さん」  と親しげに言い、その度に圭一はひやりとした。  井淵氏は、特異な作風をもつ大家で、圭一も学生時代からその作品を数多く愛読してきた。先生と言わぬまでも、氏をさんづけで呼ぶことは控えるべきであった。しかも柳田は、年長者に対する礼儀は守っていても、かれ独特の遠慮のない言葉遣いをし、よく笑う。  しかし、井淵氏は、いっこうに柳田の態度を気にかけぬらしく、柔いだ眼をして相槌を打ち、口もとをゆるめたりしていた。  柳田の話は、幸い文学に関するものではなかったが、とりとめもない内容の話ばかりだった。 「私は、クリーニング屋をやっているんですがね」  と言って、商売の話を長々としはじめた。 「最近はね、パンティをクリーニング屋に出す女が多いんですよ。ピンク色のものもあればブルーのものもあるし、レースのついたものもありましてね、それを一個所にまとめて干すと、色っぽくていい眺めですよ」  と言って、柳田は笑う。  井淵氏も、笑う。  氏は、面識もない柳田の邪気のない素朴な性格に気づいているらしく、不機嫌そうな表情はみせない。むしろ柳田の話に相槌を打ちながら、ゆったりと杯を口に運びつづけていた。  圭一は、氏の横に坐っていることが息苦しくなった。柳田がどのようなことを口にするか気がかりで、酒の味も感じられなかった。  柳田は、酔いがまわるにつれて一層陽気になった。そして、 「いい所で会いましたね。全くいい所で会いました」  と、何度も言う。  圭一は、落着かなくなった。井淵氏は、機嫌よさそうに応じてくれているが、未知の者が押しかけてきて酒席を共にすることに突然怒り出すかも知れなかった。  圭一が他の同人の顔をうかがうと、最年長の同人が、 「それでは、ここらで失礼させていただきます」  と、腰をあげた。  柳田が、驚いたように圭一たちの顔を見廻したが、 「いいじゃないか、まだ……。そうか、惜しいけど、失礼しようか」  と、答えると立ち上った。そして、井淵氏に手をさし出すと、 「井淵さん、握手して下さい」  と、言った。  井淵氏が手を出すと、柳田はしきりににぎった手をふりながら、 「これはいい、これはいい」  と言って、圭一たちに顔を向けて笑った。  圭一たちは、頭をさげると、匆々に勘定場の方へ急いだ。そして、金を払い終ると、井淵氏の席にむかって頭をさげた。柳田も、頭をさげながら、 「まちがいなく割勘にしましたから……」  と、井淵氏に大きな声で言った。  氏は、笑顔でうなずいた。  圭一たちは、店を出ると柳田を残し、ひとかたまりになって歩き出した。  柳田が作家の井淵氏と握手した話は、同人たちの間にたちまちひろまった。大胆だなと呆れる者が多かったが、いかにも柳田らしい話だと眼を輝かす者もいた。圭一も、井淵氏が物にこだわらぬ性格の人らしいことを知ったが、柳田の天衣無縫な言動に井淵氏も不快がることはなかったのだろうと思った。  柳田と親しい同人に、藤原という男がいた。  かれも、一風変った人物だった。かれには定《きま》った職がなかったが、P・R誌の編集の仕事を手伝ったり短い原稿を売ったりしているらしく、かれの妻が勤めに出ていることもあって不自由のない生活をしているようにみえた。決して収入は多くないのだろうが、かれはそれを最大限に活用する能力をもっていて、その言動が圭一たちを驚かせていた。  かれは、すでに自分の家を持っていたが、家を建築する時の話も独特で面白かった。  かれの家の敷地は、底辺の長い三角状のものであった。そうした異様な形をした土地を購入したのは、付近の地価よりも安い価格であったからだという。  三角形の土地の底辺は道路に面していて、奥行は短かったが、かれはそうした変形の土地に巧みに家を建てた。そのためかれの家は道ぞいに門も塀もあるかなり広い土地に見え、家の設計も巧妙で二階建ての家が大きくみえた。建築費は、知人から五万円ずつ借りたという。 「いくら集めたんですか」  圭一がきくと、藤原は八十万円だと答えた。 「すると十六人から借りたわけだけど、そんなに貸してくれる人がいるものですかね」  圭一が、呆れると、 「いえ、大した苦労もしなかったんです」  と、かれは人なつっこい微笑をうかべた。  かれは、まず相手の経済力、性格、自分との親密度を考慮した上で二十人ほどの人を選び出した。そして、借り歩くことをはじめたのだが、 「最初に最も貸してくれそうにない人から取りかかったんですよ。すぐにでも貸してくれそうな人からはじめると、気持がだれてしまうでしょう。それで最も困難と思われる所からぶつかったんですが、こちらの意気ごみが先方に伝わって、貸してくれましてね、全部借り集めたら予定額より多くなってしまって」  と、笑った。  圭一は、いつも笑みを絶やさぬ温厚な藤原に、そんな才覚があるのかと感心した。藤原は、最も借り辛かった人から返済して、すべて借金を返し終ったという。  藤原は、親切に人の世話をよくみた。若い同人の仲人まで引受けたりもして、かれの家には同人たちがよく集っていた。  かれの家には、圧搾ポンプつきの石油ストーブがあったが、それを扱うかれの姿を眼にした時、圭一は、かれが生活を巧みにこなす稀有な人間であることも知った。  圭一は長い間ガスストーブを使っていたが、新しい家に転居した折、春子が石油ストーブを購入した。 「ガスストーブは電気ストーブについで燃料費が高いけど、石油ストーブは経済的なのよ」  と、春子は、家庭用品のテストをすることで有名な婦人雑誌をひろげて言った。  圭一の母は、新考案の家庭用品が好きだった。  デパートの家庭用品売場では、当時もさかんに新しい工夫をこらしたものが実演販売されていたが、母は必ず他の女客とともに実演を見、宣伝員の説明に耳をかたむけていた。そんな母は、家にさまざまな家庭用品を持ちこんできた。  その一つに、波打った毛糸をまっすぐにのばす器具もあった。  毛糸編機などない頃で、母は編み棒を素早く動かしてセーター類などを編んでいたが、時には編み直すために毛糸をほどく。その毛糸はよじれているので、母は釜に湯気を立たせて毛糸をふかし、よじれを消すようにしていた。  或る日、デパートから帰ってきた母は、得意そうな眼をしてT字型の筒状のものをとり出すと、やかんの湯を注ぐ口にきっちりとはめた。  やがてやかんの湯がたぎると、T字型の上方の筒の両端から湯気がふき出しはじめた。その筒の中に毛糸を入れた母は、少しずつ毛糸を引く。よじれた毛糸は、筒の中の湯気にさらされて、新品の毛糸と同じようにまっすぐのびた毛糸になって引き出されてきた。 「うまいことを考えたものだね」  母は、嬉しそうに眼を輝かせて言った。  それ以外に、ふっくらした米飯が炊けるという松炭を使用した大きな圧力釜や、扱いの簡単な大根おろし器、野菜刻み器などを台所に持ちこんだり、寝ながら本を読む書見器などを買い求めてきたりした。  そんなものを備えて悦にいっている母が、圭一の眼には小娘のように子供っぽくみえた。  春子は、圭一の母ほどではなかったが、やはり新しい工夫をほどこしたものが好きだった。彼女は、新製品の紹介欄を興味深げに読み、家庭用具などのテスト結果を記した記事に関心を寄せていた。そうして得た知識から、春子はガスストーブの使用をやめ、加圧式の石油ストーブを購入したのだ。  圭一は、説明書を読んで点火したが、それは思いがけず面倒なものであった。  まず後についているタンクの圧力をたかめるためポンプを何十回も押しつづける。そして、スポイドでアルコールを細い溝にたらして点火し、バルブをひらいて噴霧状の石油を送り出すとようやく炎がふき出てくる。しかし、その炎は黄色く不完全燃焼するので、空気調節孔を開かねばならない。  ようやく炎が青くなり、軽い音を立てて燃焼盤が赤熱した。  圭一は、机の前にもどり原稿用紙に向う。しかし、二十分もするとタンクの圧力が低下し、炎が黄色く変化して、煤がかすかに立ち昇りはじめる。かれは、椅子から腰を上げ、ストーブにとりつくとポンプを押して圧力をたかめ、空気調節孔のつまみをいじる。落着いて机の前に坐っていることはできなかった。  かれは、しばしば振向いてストーブの炎の色を見定め、ポンプを押しに立つ。机とストーブの間を何度も往き来し、ポンプを押すことに、かれは疲れた。 「あなたが不器用なのよ」  と笑う春子の言葉に、かれは、腹を立てた。  しかし、同人の藤原の家に行った時、かれは自分が妻の言う通り不器用な男なのかも知れぬと思った。  藤原の家にも、圭一の家で使用しているものと同型の加圧式石油ストーブが置かれていた。  圭一は、重苦しい気分でその器具をながめた。ガスストーブならマッチで点火すればすむが、その加圧式ストーブは、所々に突き出たバルブやつまみをいじくりまわし、しかも手が疲れるほどポンプを押しつづけなければならない。それは、ストーブとは言えぬ煩わしい手順を要する厄介な存在に思えた。  藤原は、 「冷えますね」  と、圭一に言いながら加圧式ストーブを引き寄せ、点火の準備にとりかかった。  圭一は、適度な炎が湧くまでかなりの時間がかかると予想し、煙草に火をつけた。が、かれは、煙草をすうことも忘れ藤原の手の動きに眼をみはった。藤原は、圭一に顔を向けて話しかけながら、その右手がポンプを押しつづけていた。その動きは驚くほどの速さで、たちまちタンクの圧力はたかまったらしく、藤原は手をはなした。  スポイドでアルコールを溝に落すと、すでに火のついたマッチをさしこみアルコールに点火した。そして、指先が素早くうごいてバルブが開かれつまみをまわすと空気調節孔がひらかれ、早くも美しい青い炎が燃焼盤を朱色に染めはじめていた。  圭一は、藤原の余りにも早い操作に見惚《みと》れた。扱いの厄介な加圧式石油ストーブが肉体の一部でもあるかのように、かれの手にかかると誠に扱い易いものに化してみえた。 「面倒なストーブだと思っていたけど、君はうまいね」  圭一は、感嘆した。 「これですか。うまく出来ていますよ。燃料費が少くてすむし、すぐ部屋があたたまるし……」  と、藤原は、飼いならした動物のように石油ストーブを掌《て》で軽くたたいた。  藤原は圭一と話をしながらも、音の変化でタンクの圧力の低下を察するらしく、ストーブを振返ることもせずポンプに手をのばす。そして、その手は、またも驚くほどの早さでポンプを押した。その手の動きに、圭一は、藤原の逞《たくま》しい生活力を見たように思った。  かれは、家に帰ると、石油ストーブの前に坐りこみ、藤原の手の動きを思い出してポンプを思いきり早く上下させてみた。が、手が思うように動かず、ポンプが掌からすべってはずれてしまう。 「なにをしているんです」  頭をひねりながらポンプを押しつづける圭一に、春子が不審そうに声をかけた。藤原のことを話せば、春子に自分の不器用さを立証することになる。春子は、彼女の父がそうであったように、男はすべて棚を吊ったりヒューズを取替えたりできるものと思いこんでいる。 「全く何もできない人ね」  と口癖のように言う春子に、圭一はまた一つ蔑みの材料をあたえることになることを恐れた。 「藤原の家にもこれと同じ石油ストーブがあったけど、ポンプがこれよりも滑かに動くんだ。これは、きついよ」  と、圭一は、弁明するようにつぶやいた。  春子の顔に、かすかな笑いの表情が湧いた。 「それは、ストーブのせいじゃないわよ」  彼女は、言った。そして、ポンプを上下させている圭一の姿を失望したようにながめていた。 [#改ページ]    家庭のこと  その年の夏、文芸雑誌に七十枚の小説が掲載されただけで、原稿依頼は全く絶えていた。  その頃、勤務先では変化が起って、かれの部署である企画室は営業部直属になり、室長であったかれは営業部次長をも兼ねるようになっていた。  かれは、急に多忙になった。新製品の開発に伴う原材料の仕入れに旅行をすることも多くなり、販売先との接触も頻繁になったのだ。  自然に帰宅時刻もおそくなりがちで、家に帰っても体が疲れきって小説を書く気力がない。が、かれは、それでも必ず書斎に入って机の前に坐った。  勤めをやめたいと思うこともあったが、生活のことを考えればそれが不可能であることはあきらかだった。妻子を路頭に迷わせても小説を書きつづけた作家がいたことは知っていた。が、かれは、本質的にそのようなことのできない人間であった。かれには、金の全くない生活が恐しかった。勤めをやめるような勇気には欠けていた。  激職についたかれは、小説を書く時間をうばわれた。このまま勤めをつづければ、会社での地位はあがっても一層個人的な時間をもつことはできなくなる。それは、小説を書くことを断念することに通じるはずであった。  かれは、生活というものの抗しようもない重圧を感じた。日曜日が、かれの小説を書く貴重な日になった。が、それも思わぬ来訪者によってかき乱されることが多かった。  土曜日の午後は、早目に帰宅することにつとめていたが、かれはよく乗換駅と直結したデパートの食品売場をひとめぐりした。  かれは、食品を見て歩くのが好きだった。終戦前後の食料枯渇時代とくらべると、食品の氾濫《はんらん》が不思議に思え、金さえ払えば自由に入手できることが楽しかった。  少年時代、台所に入ると、母に、 「男がくる所ではない」  と言って叱られた。  しかし、かれは、母の留守などに女中に頼みこんで料理の手伝いをした。庖丁で野菜をきざんだり芋の皮をむいたりしたが、殊にかれが習熟していたのはフライパンの扱いだった。  ハンバーグのようなものをよく作ったが、かれは、フライパンの柄をつかんで肉片などを空中に舞わせて裏返すのが得意だった。そして、それは次第に複雑化し、一回転半、二回転半と進歩し、時には余り高く舞い上がらせすぎて、壁に突き出た棚に肉片をのせてしまったこともあった。  春子と結婚して間もなく、かれはその技術を披露してみせた。春子は、眼に涙をにじませるほど笑い、 「あなたに料理の才があるとは知らなかった」  と、感心した。  しかし、圭一は、その時かぎりでフライパンを手にすることをやめた。妻は、絶えず夫を利用しようとねらっている。妻の賞讃に酔うことは、その術策にはまりこむことにもなるからだった。  食料品売場を歩き、副食物を買うことも春子につけ入るすきをあたえる危険があった。食事をととのえることは春子の仕事であり、それを代行することは好ましいことではなかったが、かれは食品の魅力にひかれて財布から金銭をひき出すことが多かった。  デパートなどの食品売場を歩いている男の姿は、例外なく侘しい。  要職についているような身だしなみのよい会社員風の初老の男などをよく見かけるが、食品を見てまわるその姿には家庭というものがべったりとはりついていて肌寒さを感じさせる。自然に、男の家庭が想像された。家庭は、妻を中心に構成され、かれは妻や成長した子供の生活する中でひっそりと新聞を読み、食事をし、そして就寝する。家族は、かれの収入で生活しているが、かれの存在は空気のように淡い。  かれの妻は、かれの勤務する会社に電話をかけて、 「牛肉のロースこま切れ四百グラム買ってきて」  などと言い、かれはそれに素直に従って食品売場を歩き値段を見比べて牛肉を買ったりするにちがいない。  妻は、夫の出勤を単なる外出と同一に考え、郵便物の投函、食品の購入、さらに修理に出した家庭用品を帰りがけに持ち帰るよう頼んだりする。そして、それを忘れると、忘れっぽい人だと非難し、忘れぬようにと会社に電話をかけてきたり、出勤時に指に紐を結びつけたりする。  圭一は、そうした夫になりたくないと思っていたが、食料品売場を歩きまわる自分が、かれらと同じように侘しい姿にみえるにちがいないと自覚していた。  かれは、食品をしばしば買ってくるようになったが、予想に反してそれは春子を必ずしも喜ばすことはないようだった。或る土曜日の午後には、佃煮を買って帰宅したが、 「あら、また昆布の佃煮? 前にあなたが買ってきたものがまだ殆ど残っているのよ。買って来て下さるのはありがたいけど……」  と、春子は、顔をしかめる。  鳥鍋をしきりに食べたくなって、上もつを買ってきたこともあったが、春子は経木をあけると、 「気持が悪い」  と、声をあげた。  泥鰌《どじよう》を買ってきた時も同様で、かれは、やむを得ず台所に入って自分で料理をしなければならなかった。  北陸生れの春子は東京の魚は魚でないと言い、食卓に刺身や焼魚が出ることはほとんどなかった。 「うちでは魚が食べられないから、外で食事をして魚を食べるのだ」  かれは、しばしば帰宅が遅くなる口実に言った。 「遅くなるのはかまわないけど、予め連絡して下さいな。夕食の献立をなににするか考えるのが大変なのよ」  春子は、不服そうに言った。 「おれはなんでも喜んで食べるじゃないか」  圭一は、顔をしかめた。 「それはそうだけど食べたいものがあるでしょう」 「第一、夕食をすませてきた方がありがたいように思えるのが面白くない」 「それは、たまにはその方がありがたいわ。工《たくみ》と二人なら簡単にすむのですもの」  春子は、遠慮する風もなくきっぱりと言った。  圭一は、その言葉に返事もできなかった。夕食までに帰宅することが妻を喜ばせると思いこんでいたが、それは全くのあやまりであることを知った。  かれは、顔を掌《て》でなでまわした。  その年の大《おお》晦日《みそか》の夜は、テレビで除夜の鐘を打つ名刹《めいさつ》の情景が映し出されると、圭一は、春子に工を起すように言った。 「風邪をひかないかしら」  春子は、気づかいながらも工を起し、身仕度をさせた。  戸締りをすますと、圭一たちは戸外に出て坂を下った。三歳の工は、むずかりながら春子に手を引かれて歩いている。可哀相には思った。しかし、年が明ければ初詣でをするという行事を子供に教えこむのは、親の義務だとかれは思うのだ。それに、小学校四年生で生地の福井市をはなれて東京の目白で育った春子には、初詣でをする習慣がない。季節季節の行事に関心のない春子にも、竹に節があるように行事が人間の生きてゆく時間の節であることを教える必要がある。  神社は小さいが、格式は高く社殿は風格があった。しかし初詣での人は少く、ただ境内に焚《た》かれた篝火《かがりび》が火の粉を散らして美しい炎をあげているだけだった。  圭一は、社前で拍手《かしわで》をうつと、篝火に近づき手をあぶった。 「どうだ、いい気分だろ」  かれが言うと、春子は無言で苦笑いしているだけだった。が、工は、物珍しいのか、圭一にならって小さい掌を篝火に突き出していた。  春子は、子をみごもっていた。かれは、社前で安産を祈った。  正月三日が過ぎると、町には初荷と記した赤い幟を立てたトラックが往き交った。  圭一の勤める会社でも初荷の出荷がつづいたが、寝具業界は閑散期に入っていた。しかし、その夏からはじまる商戦にそなえて新製品の準備にかれの仕事は多忙だった。  同人雑誌に発表予定の作品は、月に十五枚も下書きが書き進められればいい方で、文芸雑誌からの原稿依頼はない。春子も同様だったが、前年の暮近くに、小さな出版社から長篇小説の書下しの話が持込まれていた。その出版社は良心的な出版物を出すことで知られ、春子は依頼を受けて執筆に入っていた。  或る日、昼の休憩時間に会社へ弟から電話がかかってきて、 「家事手伝いを希望する娘がいるんだけど、雇う気はないかね」  と、言った。  思いがけぬ話に、圭一は事情をたずねた。その娘は、弟の勤めている次兄の会社の社員の娘で、准看護婦として名古屋の医院に勤めている。年は二十三歳で、嫁入るためにも家事を習いたいという。医院での待遇は低く、月に手取り五千円出してもらえれば喜んでくれるにちがいないとも言った。 「分不相応だな。まだ人を使う身分じゃないよ」  圭一は答えた。 「結局、出費のことになるだろうけど、酒を飲むことを控えれば捻出できるんじゃないかい。それに嫂《ねえ》さんは子供をもう一人生むし、育児が大変だぜ。家事をその娘にまかせて、小説を書かせてやれよ。亭主だろ、あんた」  弟が分別臭い口調で言った。 「でも、住まわせる部屋がないよ」 「作りゃいいじゃないの。三畳間でいいんだから……。もし金がなけりゃ貸しますよ」  弟が、冷やかすように言った。  圭一は、弟のすすめに従おうと思った。月給も昇給しているし、新築した家の建築費も前年に支払いずみで、家事手伝いの娘に給与を払う余裕がありそうに思えた。  その夜、かれは帰宅すると妻にそのことを話した。 「そんな支出はできないわ」  春子は、即座に反対した。 「しかし、お前は、掃除や洗濯をしていると小説を書く神経がばらばらになると言ったことがあるじゃないか」 「それは、たしかにそうなのよ。でも、使用人を置いて小説を書くような身分じゃないわ。人にきかれたら笑われる。第一、経済的にそんなゆとりはありません」 「金のことなら、おれにまかせろ」  圭一は、荒い声をあげて妻の口を封じた。大筋のことは、自分が決定する権利と義務があるのだとかれは自らに言いきかせた。  妻を無視して事を運ぶことは、愉快だった。翌日、かれは建築会社の南に電話をしてボーナス払いで三畳間の部屋の増築を頼み、弟には家事手伝いの娘を雇い入れる旨の返事をした。  妻は、 「また南さんに借金だわ」  と、浮かぬ顔をしていたが、南と設計図を作ったりしているうちに、増築の興味にとりつかれ、すすんで南と打合わせをはじめるようになった。  南の会社の職人は手があいていたらしく、すぐに増築にとりかかると二十日ほどで仕上げてしまった。部屋は南向きで採光もよく、壁は板張りで小綺麗な部屋が出来上った。 「もういいぞ、住む部屋も出来た」  圭一は、弟に電話で報告した。  家事手伝いの娘が弟の車でやってきたのは、それから一週間ほど後であった。偶然にも娘は春子という名で、彼女を「春ちゃん」と呼び、妻を「春子」と呼ぶことになった。当然、混乱が起きた。妻の名を呼ぶと、春ちゃんも同時に返事をする。それに友人が訪れてきた時など、 「春ちゃん」  と呼ぶと、友人は、 「なんだ、女房に甘いんだな」  と、妙な笑い方をする。友人は圭一が妻をちゃんづけで呼ぶと思っているのだ。  他人が家に入ってきて同居することに不安がないでもなかったが、春ちゃんは誠に良い娘であった。それまで勤めていた医院できびしくしつけられたらしく、礼儀正しく、誠実に働く。妻は、そうした彼女を可愛がり、二人の中はたちまち親密になった。  ただ彼女には、四年間の医院勤めの習慣がそのまま身についていた。彼女は、初めの頃白衣を割烹着代りに身につけ、白いソックスをはいていた。しかも、その白衣からは、薬品の匂いがかすかながらも漂い出ていた。白衣をつけた彼女が、家の中を歩き廻っていると、結核療養所にでもいるような気分になった。そして、食事をする時も、彼女の白衣を眼にすると、食物が入院患者にあたえられる病人食のようにも思えた。 「おれは、なんだか病院に入院しているような気がする。なんとかしてあの白衣をぬがせて、娘らしい色柄のものに代えさせろよ」  圭一は、出勤前に春子に頼みこんだ。  春子も同感で、その日帰宅すると春ちゃんは、華やかな花模様のエプロンを身につけて玄関に出迎えてくれた。  人間の習性は、容易に消えぬものらしい。准看護婦として医院に四年間勤務していた家事手伝いの春ちゃんは、台所にある小瓶にすべて長方形の紙を貼りつけてしまった。そして、そこに瓶の内容物をしめす名称を丹念に書いた。考えてみれば、彼女の勤めていた医院では、薬瓶に名称を付したレッテルを貼りつけている。薬物を取扱う医院では、薬以外の瓶にもすべてレッテルを貼って危険を回避する習慣があるのだろう。その習慣にしたがって、彼女は、圭一の家の小瓶類すべてに紙をはりつけたのだ。  それは、あらゆるものに及んだ。靴墨入れの瓶から洗剤、殺虫剤の容器まで紙がはりつけられ、むろん食卓に出てくる醤油、ソース、砂糖、塩などの瓶にもその名称が付されていた。 「こうすると、よくわかっていいわ」  春子は言っていたが、圭一は、家の中に薬瓶が並んでいるような錯覚におそわれた。  春ちゃんは、時折|工《たくみ》の顔色をさぐるような眼でみつめると、自分の部屋から体温計を出してきて腋の下にさしこませる。体温計の目盛をうかがう眼も、体温計をふる仕種も看護婦のそれであった。  春ちゃんの家の中での存在は、急に比重を増してきていた。料理は、春子が熱心に教えこんだが、覚えが早く、たちまちのうちに習熟した。料理法は克明にノートに書きこみ、味つけも巧みになった。  彼女は、みごもった妻の体を気づかい、重い物を持ったりせぬように注意したり、一日一回軽い散歩に出掛けることをすすめたりした。また、ビタミンの注射をしたり、カルシュウム剤の服用もすすめた。 「あなたがいるので助かるわ。健康管理もしてもらえるんですもの」  春子は喜び、彼女のすすめに素直にしたがって、工を連れて毎日散歩に出掛けていた。  或る夜、玄関のベルが鳴った。出て行った春ちゃんが、すぐにもどってきて、部屋の襖をあけると、 「カンジャさんがいらっしゃいました」  と、膝をついて神妙な表情で言った。  こたつに入っていた圭一と春子は、顔を見合わせ、 「カンジャさん?」  と、圭一がたずねた。 「はい、カンジャさんです」  彼女は言った直後、不意に顔を伏せると首筋を赤く染め、 「会社の方です」  と言って、困惑したように忍び笑いをした。  圭一も春子も、カンジャの意味に気づいて笑い出した。彼女の勤めていた医院では訪れてくる者の大半が患者で、春ちゃんはその訪れを主人である医師に、そんな口調で告げたのだろう。その口癖が、社員を患者と言いまちがえたのだ。  玄関に出て行くと、営業部の部下が二人並んで立っていた。一人は病気で休職をしていた社員で、全快した挨拶に同僚とやってきたのだ。その顔色はまだ冴えず、春ちゃんはその社員の顔色をみて錯覚を起したにちがいなかった。  圭一は、こみ上げる笑いをこらえながら彼等を応接間に招じ入れた。 [#改ページ]    酒色のこと  圭一の父は、かなりの量の酒を飲んだ。愛飲していた酒は白鷹で、顔をしかめて飲む様子から酒はにがいものだと、圭一は幼心に思った。  三十歳を越した年齢になって思い返してみると、父はかなり荒い酒飲みだったことを知った。親しい者を十人近く連れて飲み歩いたり、四斗樽を据えて酒宴をひらく。待合遊びをして外泊することも多いようだった。  酒に伴う失敗もあったが、父の癖は見知らぬ人を家に連れてくることであった。夜おそく、父は、未知の男と上機嫌で帰ってくる。そして、笑い合いながら酒を飲み、やがて男はふとんの敷かれた離室に入ってゆく。  翌朝、母をはじめ家族は、興味深げに父と男の起きてくるのを待ち受けている。男が、昨夜の勢はなく恐縮して離室から出てくる姿をみると、起きて茶をのんでいる父はぎくりとしたように男の顔を見つめる。不意に昨夜の記憶がよみがえるらしく、父も坐り直して神妙な顔で男と向い合う。  男は、 「昨夜は、誠に……。結構なお住居で……」  などと、曖昧なことを口にし、名刺を差出し頭を深々とさげる。 「こちらこそ失礼を……。よくお休みになれましたか」  父は、眼のやり場に困ったように頭をさげる。 「では、これで失礼いたしますです」  男は、母にも鄭重《ていちよう》な挨拶をし、背をまるめて匆々に玄関の外へ消えていく。名刺は、教員、官吏、会社員などまちまちで、時には二度も来た小学校校長もいた。  兄や弟はほとんど酒を飲まず、酒豪であった父の血は圭一のみに受けつがれた。が、父の酒にくらべれば、圭一の酒は特徴もない面白味に欠けたものであった。  盗み酒をしたと言ってもそれは梅酒だったが、小学生の頃に少しずつ飲んで一本をからにしてしまった。そして、中学生時代にはビールを飲み、病気をした後大学に通学するようになると、すっかり酒に親しむようになった。若さ故に飲むことの節度も知らず、友人と飲む時は一人でウィスキーの瓶一本をあけるのが常であった。また焼酎をコップで十三杯飲んだこともあれば、銚子を二十七本並べたこともある。  しかし、そうした愚しい飲み方をしたのは一時的で、かれは会社の同僚と飲む時も、酒量はかれらと同量の酒で酔った。かれは、いい酒飲みになりたいと思っていた。酒は神経を興奮させるが、他人に不快感を与えるような酒飲みになりたくないと自らに言いきかせていた。  工《たくみ》が生れて間もない夜、圭一は酒のもつ恐しさを経験した。それは、かれ自身のことではなく、酔った未知の若い男から知らされたものであった。  その夜、春子の姉の家へ行くため電車に乗ったが、途中電車が駅にとまるとガラ空きの車内に若い男が足もとをふらつかせて入ってきた。男は、ノミを逆手にもっていて、座席の布にノミを突き立てながら車内を歩いてくる。工を抱いた圭一は、春子と身をすくめながら男の姿をうかがった。  男が近づき、圭一の傍の座席にノミをふり下した。布が裂けた。男は、圭一たちの存在も無視したように次の車輛に移っていった。  酒を飲んだ夜は、帰宅もおそくなりがちであった。  終電車に乗りおくれると、居直った気持になって再び飲み直す。タクシーで帰る途中、夜空が青澄んでいるので、 「今夜はいい月夜だね」  と、夜空をうかがいながらつぶやき、運転手に、 「夜が明けはじめているんですよ」  と、笑われたこともあった。  夜が明ける速度は、恐しく早いように思えた。タクシーの中で夜が白みはじめるのを知ると、タクシーが家の前に到着する頃には、すでにあたりはすっかり明るくなっていた。  かれは、ブザーを押して、春子の開けてくれたドアの中へ神妙に体を入れる。 「今日は、だれか来なかったか」  圭一は、機先を制してたずねながら靴をぬぐ。 「今日じゃありませんでしょう。昨日でしょう」  春子は、あくびをしながら答える。圭一は、言葉に窮して敷台に上り、匆々にふとんにもぐりこむ。圭一は、余計なことを口にすべきでないと気づき、夜明けに帰った時には、 「お早うございます」  と、勢よく挨拶するようになった。それに対して春子は、 「お早うございます。お疲れ様でございましょう」  と、わざとらしく鄭重な挨拶を返す。  圭一は、春子の言葉にこだわり、或る夜食事をすませた後、 「お疲れ様でございましょうという科白《せりふ》は、一寸こだわるね」  と、言った。 「でも、お疲れ様でしょう?」 「それはそうだが、皮肉にきこえるよ」 「だって、お疲れ様でしょう。一晩中あちらこちらへ行くんでしょうから……」 「しかし……」  圭一は反撥しようとしたが、これ以上言葉を交すと物事がこじれる恐れがあるので口をつぐんだ。  夜遅く帰ってくる圭一に、春子は、一度も不快そうな表情を見せたことがない。 「お疲れ様でございましょう」  という言葉も別に皮肉なひびきはなく、むしろからかい半分の気味がある。どこへ行ったのかとか、なぜおそくなったのかといった類の質問は一切発しない。  或る友人は、六尺近い大男で、タクシーに乗るとすぐにだらしなく寝入ってしまう。が、家の近くの一定の場所にくると、眼をとじたまま必ず背広やズボンのポケットを探りはじめる。そして、クラブやバーでもらったマッチや名刺をとり出すと、車の外に投げる。  やがてタクシーがかれの家の前にとまると、はっきり眼をさまし、圭一に元気よく挨拶して家の中へたしかな足取りで入ってゆく。かれの妻は、小柄でおとなしそうな人だったが、かれが女気のある場所で遊んできたことを知ると、かれを引きずりまわして足蹴にするという。それを恐れて、かれは正体もなく酔っていても、必ずその痕跡を残さぬようにつとめるのだ。  そうした友人の妻から考えれば、春子は稀有な存在かも知れなかった。 「おれが夜遅くなって帰宅しても、なぜ理由をきかないのだ」  圭一は、おそるおそるたずねてみる。 「きいた方がいいんですか」  春子は、無表情に言う。 「いや、それはきかない方がいいさ。ありがたいと思っているよ。ただ女房というものは、必ず根掘り葉掘りきくということをきいているから……。それに比べると、君は一寸変っているね」  圭一は、春子の顔をうかがいながら慎重に言葉を選んで言った。  春子は、頭をかしげると、 「そう言えばそうね、なぜかしら。でも私が根掘り葉掘りたずねてみたって、具合の悪い時には嘘をつくでしょう。あなたに嘘をつかせるのはいやだし、それならいっそたずねない方がいいと思っているのかも知れないわ」  と、他人事のように言った。  変った女だ、と圭一は思った。春子の理窟はわからぬでもないが、妻として理窟を越えた感情があるはずで、それ故に夫は絶えず妻を恐れているのだ。  春子が、遅い理由をたずねないことは、かれにとって歓迎すべきことであったが、それが終始変らず繰返されてゆくうちに妙な淋しさを感じるようになった。春子は、夫である自分のことを男性として軽視しているのではないかという疑惑が胸をかすめる。夜、圭一が飲み歩いていても、女性がまといつくおそれは皆無だとたかをくくっているようにも思える。そうした軽侮の念が、圭一の行動を詮索せぬことになってあらわれているのかも知れなかった。  共に飲む機会の多い松井という取引関係の男は、かれが何気なく口にした妻の態度に、激しい驚きをしめした。 「そういう奥さんがこの世の中にいるのかねえ。あなたの奥さんは、なにからなにまでわかっていて、家庭に波風を立たせないようにしているんだ。賢いんだよ」  かれは、感嘆した。 「そうじゃないんだよ。抜けた女房なんだ。わかるもわからないも、一切質問しないんだから……。おれのことを男として認めていないんだよ」  圭一は言ったが、松井は、 「いや、立派だ。あんたが羨しい」  と、感に堪えたように同じ言葉を繰り返した。  松井は、小規模の寝具会社を経営していて、その顔にも行動にも女遊びをしつくした落着きのようなものすら感じられた。かれは、特定の女はもつことはしなかったが、絶えず浮気を繰り返していた。が、かれはそれを決して得意がる風もなく、素知らぬ顔で飄々と遊びつづけていた。  圭一は、その実情を知る由もなかったが、その夜かれは、熱心に浮気と妻のことについて話しはじめた。 「なにが苦労だといって、この世に女房の眼を攪乱することほど大事業はないね」  かれは、強い口調で言った。  圭一が、その真剣な表情に思わず笑い出すと、松井は、 「いや、本当だよ。女房というものはすごいものだね。犬の嗅覚が鋭いといったって、とても女房にはかなわない。その勘たるや、まさに神秘的だね。これに対抗するには全智能をそそぐよ」  と、眼を光らせて言った。  松井が妻に浮気を気づかれぬ努力をしている話は、面白かった。夜おそく帰宅した翌朝、かれの妻は、 「ゆうべあなたが相手にした女は色白で、背は私より五センチぐらい低い女ね」  と、冷やかな眼をして言った。松井は、驚いた。妻の指摘通りであったからだ。 「なぜわかったんですか」  圭一が松井にたずねると、 「ワイシャツに女の紅がかすかについていたんだ。その紅の色がピンクでね、ピンク色の口紅を使うのは一般的に色の白い女だと言うんだ。それに口紅のついていた位置は女の唇の位置をしめすもので、それから自然に女の背丈を割出したんだな」  と、松井は、おびえたような眼をして言った。  松井は酒好きだが、余り強くはない。酔って神経が鈍り、思わぬ馬脚をあらわしかけることも多い。しかし、かれは、鋭敏な妻に頭脳をふりしぼって対抗し、今まで辛うじて確証をつかませることなく無事にすごしてきたという。 「これを見てよ」  松井は、ズボンの裾をまくり上げると靴下を指さした。靴下は意外にも両方とも裏返しになっていて、縫い目が布地に露出している。  圭一がいぶかしそうな表情をすると、松井は、 「女房はね、私が夜おそく帰ると、必ず靴下と下着をしらべるんだ。いいかね、私が女とどこかへ行く。必ず靴下をぬぐ。自然にそれは裏返しになる。帰る時にはあわてて身仕度をするから、そのままはいてしまうおそれがある。つまり裏返しの靴下で帰ることになる。裏返しで帰ってきた時は、どこかに上った証拠になるのだ」  と言って、深く息をついた。 「そうですか。すると松井さんは、家を出る時に靴下を裏返しにはいておくんですね。どこかへ上って靴下をぬいでも、帰ってきた時は靴下が表向きになっていて、奥さんに気づかれないわけだ」  圭一は、ようやく納得し、笑った。が、松井の顔を見つめると、 「しかし、どこかに上らないで帰宅した時はどうなるのかな。裏返しの場合はあらぬ嫌疑をかけられることになるでしょう」  と、たずねた。 「それは、心配ない。女とつき合わずにすむ夜は、帰るのも早い。女房も疑いはしない。まず靴下なんか調べはしないさ」 「でも、万が一調べることもあるでしょう」 「それはそれで尚いい。裏返しに靴下をはくような間抜けな人だと思わせておけば、もしも迂濶に靴下を裏返しにはいたままもどってきても、それが確証とはならないからね」  松井が、初めて笑顔をみせた。  しかし、松井はすぐに表情をこわばらせると、 「そんな風に注意をはらっていても、ぞっとすることがあるんだ。かなり前のことだが、帰りのタクシーの中で、靴下の中が妙にチクチクするんだ。なんだろうと思って、靴下の中をしらべてみたら、女のつけまつげが片方入っていたんだ。体が冷えたね、あの時は……」  と、頭をふり、 「全く薄氷をふむ思いだ」  と、嘆じた。  松井の話はさらにつづき、急に眼を光らせると、 「一昨年のことだが、その夜こそ、今度は絶対にだめだと思ったことがあるんだ。それまでの苦労も水泡に帰して、その時だけは女房にかくし立てできないと諦めたな」  と、思い出すような眼をして言った。  その夜、かれは帰宅して洋服ダンスの前で背広をぬぎ、ワイシャツをぬいだ。  かれは、鏡に映る首筋を見て一瞬顔色を失った。そこにはかなり大きな充血した痕が濃く皮膚に印されていた。たしかに女が首筋を唇で吸っていたが、かれはそれほどの痕になるとは思っていなかったのだ。  かれは、狼狽し、居間を出るとそのまま風呂に入り湯につかって思案した。 「おれは懸命に考えたよ。どこかできいたが、熱いタオルで散らす方法があるということを思いついて、上り湯にタオルをしめしてやってみたが、首筋が赤く染まるだけでだめなんだ。普通、一週間ぐらいは消えないはずだし、もうこれはいかんと思ったね」  かれは、余り長湯をしているのも疑われるので、寝巻の襟を立ててふとんに急いでもぐりこんだ。 「その時、ふっと或る方法を思いついたんだ。絶妙な方法をね。おれは、その時、なんという頭のいい男なんだと、われながら感心したよ。神様がおれを助けてくれたんだとも思ったね」  松井は、眼を輝かせた。  それからかれの口にした話は、圭一を感心させた。かれが自賛するのも決して無理はないと思った。  松井は、部屋の電気が消えるのを待って、不意に妻の体を引寄せ妻の首筋に唇を当てた。さらに、妻に同様のことを強い、妻は、かれの要求をいぶかしみながらも言われるままに従った。  翌朝、かれは、晴ればれした気分で起床すると勢よく寝巻を脱いだ。  妻が、かれの首筋に眼をとめ、 「あら」  と、短い声をあげた。  かれは、妻の表情をいぶかしみながら、 「なんだ。なにかついているのか」  と、たずね、鏡の前に立って首筋を映してみた。そこには、充血した痕が二つ印されていた。かれが妻をふりかえると、妻は恥しそうな眼をして笑っていたという。 「でも、二つついていたんじゃまずいんじゃないのかな」  圭一が言うと、松井は、 「女房に二カ所も三カ所もさせたんだよ。その点はぬかりがないさ」  と、得意そうな眼をして言った。  かれの妻の首筋にも充血した痕があって、その後一週間近く、かれら夫婦は仲良く風邪でもひいたように首にガーゼを巻いてすごしたという。 「うまいなあ」  圭一は、思わず感嘆の声をあげた。 「それで現在まで、一度もばれずにすんでいるんですね」  圭一がたずねると、 「それがそうじゃないんだ。十日前に遂にばれてね。それもおれ自身がばかな失策をしたからなんだ。まずい話さ」  と、松井は、顔をしかめた。  その夜も、かれは女遊びをして夜おそくタクシーで帰宅した。女と別れる前に、女に乞われてすし屋に入り酒を飲み直したので、かれはかなり酔っていた。  家に帰ると、かれは、妻に、 「今夜は飲みつづけて、酔った」  と言って、背広を脱ぎ捨てると、寝巻に着かえてふとんの中にもぐりこんだ。  それまでは順調な経過をたどり、かれは何事もなく朝を迎えることができたはずだったが、その後に思わぬ失策をおかしてしまった。しかも、それは、かれ自らがひき起したものであったのだ。  熟睡していたかれは、突然はね起きた。その動きに、かれの妻は眼をさまし、いぶかしそうにかれを見つめた。  かれは、立ち上るとあわただしく寝巻を脱ぎ捨て、 「さ、そろそろ帰らなくちゃ」  と、つぶやいた。妻を恐れて外泊することを避けていたかれは、女を一人残しても自分だけは夜明け前に帰宅する習慣になっていたのだ。  かれは、完全に目覚めてはいなかった。と言うよりは、半ば眠っている状態だった。しかし、かれの動きは機敏で、靴下を裏返しになっていないかたしかめながらはき、ワイシャツを身につけ、ズボンを手にとった。  その瞬間、かれは、 「そろそろ帰ると言って、どこへ帰るんですか」  という妻の声をきき、はっきりと目がさめた。  かれは、愕然として妻の顔を見つめた。妻は、ふとんの上に正坐してかれの顔を見上げていた。かれは、弁明しようと口をひらきかけたが、自分の姿に気づくと声は出なかった。ワイシャツを着、ズボンを手にしたかれの姿は、一切の弁明を許す余地のないものだった。 「どうしました」  圭一は、笑いをこらえながらたずねた。 「どうもこうもないよ。女房がどこへ帰るんですかと言うから、ハイと答えてそのまま膝をついた。さすがのおれも、どうしようもなかった」  松井は、力弱く笑った。 「開き直らなかったんですか」 「それが、向うの方がうわ手でね。口もきかず十日もたっているのにあの夜のことについては一切黙っているんだ。こちらの完全な負けさ」  かれは言うと、ふと腕時計に眼を走らせ、 「さ、そろそろ帰らなくちゃ」  と言って、席を立った。  圭一も勘定をすませて、店の外に出た。  松井は、頭を軽くさげると、歩道の端に出てタクシーを呼びとめた。顔をこわばらせた松井が、タクシーに乗って眼の前を遠ざかって行った。  圭一の会社に、浦川という男がいた。二年前に結婚したかれは、松井などとは違って女遊びをするようなことはなかったが、或る夜、酒の勢でバーの女とホテルに入った。  その夜おそく、かれは、呆れたことにステテコの上にパンツをはいて家へ帰った。  若い妻は、その異様な姿に驚きの声をあげた。そして、その二つがいずれも裏返しであることに眼をとめた。彼女は、その奇怪な現象がなぜ起きたのかすぐに気づいた。つまり夫は、なにかの必要でパンツとステテコを同時にぬぎ、再び裏返しになったままのものを一緒にはいて帰ってきたのだとさとった。  彼女は、夫をなじり、激しく泣いた。  酔いもさめた浦川は立ちつくしていたが、健気《けなげ》にも反撥し、 「今夜は、酒に酔い友人とふざけて競走をしたりした。女のお前にはわからぬだろうが、男というものは激しい運動をするとよくこんな現象が起るのだ」  と、真剣な顔で説明した。 「そんな馬鹿なこと」  彼女は怒ったが、浦川は屈せず、その説明を執拗に繰返した。  翌朝になっても、若い妻は泣きつづけていたので、かれは万策つきて仲人をしてくれた老人に電話をかけ、その現象を説明し、自分の弁明が妻には通じぬと訴えた。  老人は、彼女を電話口に出しなさいと命じ、彼女が電話口に出ると、 「女のあなたが理解できぬのは当然だ。あなたが怒るのは無理もない」  と、彼女の立場に同情をしめした。が、それにつづいて、 「しかし、男というものには、よくそうしたことが起るものでね。殊に激しい運動をした時には、起りがちのものなのだ。実は私も、過去に三回そうしたことがあった」  と、平静な口調で答えた。 「それで、結局どうなった」  会社の者たちは、笑いをこらえながら浦川にたずねた。 「そんなことを言われたって、女房が信じるものか。でも、仲人も断言するしおれも頑固に主張しつづけていたので、いつの間にか女房は半信半疑になったらしい。女房とすれば、夫が浮気をした事実をはっきりと知りたくはないと思う気持もあるだろうし、それとも強い主張をきいているうちに、そんなものかと錯覚したのか。いずれにしても、現在は平穏だよ」  浦川は、苦笑した。  その後、浦川は、ひそかに仲人の家を訪れ礼を述べた。その老人は、老いた妻を前に、 「私は今まで数限りなく浮気をしたが、女房にさとられたことがない。そうだな」  と、妻にたずねた。 「残念ながら……。その点はお見事でございます」  老妻は、神妙にうなずいた。 「浮気をさとられぬことが、最高の女房孝行。それができぬ男は亭主の資格がない。さとらせては、女房が可哀そうだからな」  老人は、おだやかな表情で言ったという。 「いい人に仲人をしてもらったものだね」  会社の者たちは、異口同音に言った。 [#改ページ]    出産のこと  三月下旬、同人雑誌の編集部に百枚の小説を送った。それは、同人雑誌の百号記念号に発表される予定になっていた。  その小説は、一年間かかって書き上げたものだった。勤務に時間の大半をさかれ、休日しか利用できぬ事情によるものだった。かれは、小説を書くために勤務をないがしろにする気にはなれず、一年に一作小説を書きつづければよいという気持にもなっていた。  しかし、その月の上旬、文芸雑誌の編集部から、久しぶりに小説を一篇見せて欲しいという手紙が来た。締切日は、二カ月半後であった。  かれは、承諾の旨の返事を出すと、小説の執筆準備にとりかかった。素材は、十分醗酵していた。それは、かれが医科大学解剖学研究室の死体収容槽を見た時、案内してくれた研究室員の大原からきいた話が基本になっていた。  研究室では、人骨を採取して骨標本を作っているが、その作業員の一人が透明な骨標本の作成につとめているという。それは、まだ動物の骨によって試作している実験段階にあるもので、圭一も試作標本をみせてもらったが、兎の頭骨がギヤマンのように透けてみえた。  圭一は、その後再び医科大学を訪れて、透明化する方法を作業員から詳細にきき、その試みの最終目的が透明な人骨の骨標本を作り出すことにあることを知った。かれの胸に、一人の偏狭な老作業員の像が浮び上っていた。その老人を主人公に、かれは小説を書きたいと思っていたのだ。  春子は、書下し長篇の執筆に取組んでいた。家事手伝いの娘を雇い入れたことで家事から解放されたため筆も進んでいるようだった。  彼女は、自発的に締切期日を定め、出版社の編集者にも伝えていた。それは、彼女の出産予定日が四月末で、それ以前に脱稿しようとしていたからだった。しかし、彼女は外見的に妊婦のようにはみえなかった。定期的に渋谷の日赤病院に通って診断を受けていたが、胎児は健全だがその発育は芳しくなく人目にも妊娠しているようには見えなかったのだ。  彼女は、睡眠時間をきりつめて夜おそくまで机に向っていた。顔色は悪く、頬骨の突き出るほど痩せていた。そうした生活が、胎児に影響をあたえていることは容易に想像できた。胎児は、発育に必要な養分を、母の書く小説に吸収されているにちがいなかった。  圭一は、そうした春子と胎内の子供を痛々しく思ったが、小説を書くことを控えろとは言わなかった。春子は、小説を書くことに生き甲斐を見出している。それは、夫である圭一にとって迷惑なことではあったが、そうした女を妻にしたかぎり堪え忍ぶ以外にないと諦めていた。胎児にしても、そのような女を母にもったことは不幸なことだが、それも圭一と同じように宿命と思って諦めてもらうほかはなかった。  一般的に言えば、春子は小説を書くことを理由に妊娠を避けることもできるはずだったが、女としての重荷を背負った上で小説を書こうとしている彼女の姿勢には共感できた。圭一には、妻が胎児とともに戦っているように思えた。  春子に書下し長篇を依頼した出版社の編集者は、同じ町内に住んでいた。  かれは、出勤前に時折訪れてきて小説の進行状況をたしかめていたが、春子が出産を間近にひかえながら執筆をつづけていることを気づかっていた。そして、春子が顔色も悪く痩せこけていることに同情し、締切日をのばして出産後に再び執筆をはじめたらどうかと言った。  しかし、春子は、中断するとようやく得た雰囲気がくずれるので、約束の日までに必ず脱稿すると告げていた。  春子は、さらに痩せこけた。そして、四月上旬にはようやく執筆を終え、推敲に入ったようだった。  ふくらんだ桜の蕾がはじけ、白い花弁がのぞくようになった。圭一は、花弁を見上げながら桜並木をたどって出勤した。  四月中旬、かれは会社の取引先の接待で夜おそく家に帰った。  玄関のブザーを押すと、家の奥で春子の返事がきこえた。かれは、ドアの外に立って待っていたが、それきり家の中では物音が絶えた。おそらく春子は、長篇小説の推敲をして奥の部屋にいるにちがいないと思った。仕事を中断されるのがいやで、立ってくることもしないのだ。  かれは、急に腹が立ってきた。仕事をするのは差支えないが、夫が帰宅したというのに玄関にも立ってこようとしない春子の態度が不遜に思えた。  かれは、再びブザーを押し、 「早くあけろ」  と、怒鳴った。  奥の部屋の方で、春子が家事手伝いの娘をしきりに呼ぶ声がした。春子が、机にかじりついて、眠っている使用人を起そうとしているらしいことに、かれの怒りはつのった。 「お前があけろ。なにしているんだ」  圭一は、ドアを荒々しくたたいた。  やがて奥の部屋の襖のひらく音がして、廊下を足音が近づいてきた。そして、ドアのガラスにネグリジェを着た春子の姿が淡くうつって、ドアが開いた。 「なにをしているんだ。起きているのなら、すぐ開けたらどうだ」  圭一は、玄関に入った。 「だって、子供が生れたんですもの」  春子が、弁明口調で言った。 「だれの子供が」  圭一は、春子の顔を見た。 「だれって、私の子供よ。女の子なのよ」 「お前が産んだ?」 「私以外にだれが産むんです」  春子は言うと、先に立って廊下を歩き、襖をあけた。  圭一は、呆然として春子の後から襖の中をのぞいてみた。部屋には春子のふとんと並んで、小さなふとんが敷かれている。そのふとんの襟元から、ガーゼを頭に当てた小さな顔がのぞいていた。  かれは、春子を凝視した。 「いったいお前はなにをしているんだ。起きてくる奴がいるか。寝てなくちゃだめじゃないか」  かれは、声をひそめて叱った。 「だって、あなたが大声で玄関をあけろとどなるんですもの。起きないわけにはいかないじゃないですか」  春子は、恨めしそうな顔をしながらも、ふとんに近寄ると身を横たえた。  出産後は安静にしていなければならないのに、起きて玄関のドアをあけた春子の行為が愚しく思えた。が、それも圭一が、ドアを開けろと怒鳴った結果で、春子の軽率さを責めることもできなかった。  出産予定日は四月末で、それまでには二週間以上もある。しかも、出産は渋谷の日赤病院ですますことになっていたし、圭一はその夜春子が自宅で子供をうむとは想像もしていなかった。 「いったいどうしたのだ」  圭一は、驚きの色を顔にうかべながら立ったままたずねた。  夕食後、春子は、軽い陣痛におそわれたが、工《たくみ》をうんだ時の体験で、意外にも出産が間近にせまっているらしいことをさとった。家事手伝いの娘が、近くの内科医を呼びに行き、診断した内科医はさらに町の助産婦に連絡をとった。  助産婦がすぐに駈けつけてきたが、三十分後に女児が生れたという。 「お産は軽かったのだな」  圭一は、酔いもすっかりさめていた。 「軽かったわ。でも、子供が二キロしかないのよ」  春子が、弱々しく答えた。  工が生れた時の体重は二・五キロで標準以下だと言われていたが、その夜生れた子はさらに軽い。未熟児が二・五キロ以下の新生児をさすことぐらいは知っていた圭一は、顔色を変えた。  かれは、小さなふとんの傍にあぐらをかいて坐るとふとんの襟からのぞいている嬰児の顔を見つめた。赤みを帯びた顔の皮膚が柔かそうにうごいている。 「こんな軽い体重の子供でも生きてゆけるのか」  かれは、暗い眼で春子を見つめた。 「大丈夫だと言うんですけどね、助産婦さんは……。体はしっかりしていて異常はないし、ただ体重が軽いだけだと言うんですよ」  春子も、沈んだ表情をしていた。  圭一は、葬式を出すことになるかも知れぬと思った。小さな柩《ひつぎ》が家から出て火葬場に運ばれる光景が、浮び上った。  かれは、生れてきた子を救うために日赤病院に備えつけられているはずの保育箱に入れてもらうべきだと思った。助産婦の言葉を疑うわけではなかったが、親として施設の整った病院で出来るだけの処置をしてやりたかった。 「日赤へ連絡してくる。このままだとどうなるかわからない」  かれは、立ち上ると玄関の鍵をにぎって外に出た。  家に電話はなく、かれは坂を駈け下り街道の近くまで走った。そして、公衆電話のおかれたたばこ屋に行ってみたが、むろん店の戸は締っていて、内部からも灯はもれていない。  かれは、立ちつくした。折角生れ出てきた子を死なすわけにはゆかぬ、と思った。  空車の赤い標識をつけたタクシーが走ってきた。かれは、手をあげタクシーの中に身を入れた。そして、運転手に友人の鍋島が住む街道沿いの町の名を告げた。  車は、かなりの速度で進み、やがて指定した場所でとまった。  鍋島の家の門灯はともっていたが、家の内部は暗かった。圭一は、ためらわず玄関のブザーを押した。  家の中に灯がともって、玄関の格子戸がひらき、鍋島が顔を突き出した。寝巻姿の鍋島は、眼鏡をはずしているので、その眼がひどく細く見えた。  深夜の訪れに鍋島はいぶかしそうな表情をしたが、事情を説明すると、すぐに電話器のおかれた事務室に案内してくれた。  圭一は、電話帳で日赤病院の電話番号をしらべダイヤルをまわした。当直の看護婦らしい女の声が流れ出てきた。かれは、妻が日赤病院で診断を受けていたが、予定日より早く自宅で生れたことと、子供の体重が二キロしかないことを告げた。そして、未熟児を収容する保育箱に子供を入れてもらいたいと言った。  女は、深夜受付けることは不可能で、翌日再び連絡をして欲しいと言って電話がきれた。  圭一は、女との会話で子供がそれほど危険はないらしいと判断した。そして、鍋島に礼を述べると、再びタクシーで家に引返した。 「どうでした」  部屋に入ると、眠っていたらしい春子が声をかけてきた。  圭一が病院側の話をつたえると、 「助産婦さんも大丈夫と言っていたし……」  と、春子は言ったが、その声には不安そうなひびきがこもっていた。  翌朝、早く目ざめたかれは、公衆電話で社長の自宅に午後から出勤したいと連絡した。そして、家に引返すと、子供の枕もとに坐った。子供は、小さな唇を動かし、弱々しげに泣いていた。  朝食をすませて間もなく、玄関のブザーが鳴って助産婦が入ってきた。大柄な体をした五十年輩の女だった。  春ちゃんが機敏に動いて、盥《たらい》に湯と水が注がれた。  助産婦は、小さなふとんを除くと、子供の体を裸にし湯の中にひたした。その子供の体を眼にした圭一は、一瞬背筋の冷えるのを意識した。それは、新生児とよぶには余りにも小さく、しかも体は痩せこけていて、骨があらわに皮膚から浮き出ている。  思わず圭一は、春子の顔に眼を向けた。春子は、眼に涙を浮かべて痛々しそうに湯につけられた子供の体を見つめている。  徹夜つづきで長篇小説を書きつづけた春子の胎内で、子供は十分な栄養にも恵まれず予定日よりも早く生れ出た。それを知っている春子は、子供に詫びたい気持であるにちがいなかった。 「こんなに小さくて、無事に育つでしょうか」  圭一は、助産婦にたずねた。 「本当に小さい子ね。でも骨格もしっかりしているしどこにも故障はないから育ちますよ」  助産婦は、自信にみちた表情で言った。 「未熟児を入れる保育箱に入れなくてもいいのでしょうか」  圭一は、不安になってたずねた。 「未熟児じゃないですよ。小さく生れただけで、いい赤ちゃんよ。このままで育つ、育つ。心配ない」  助産婦は、肥満した体をゆするように笑った。  圭一の不安は、薄らいだ。春子の顔にも、いつの間にか安らいだ表情がうかんでいた。  嬰児は、助産婦の言った通り小さいながらもなんの支障もなく順調に成長した。桜の咲き乱れた頃生れたので、千春と名づけた。  夏が、近づいた。  その頃、街に少女たちがビニール製の黒んぼの人形を腕にからみつけて歩く姿が眼立つようになった。それは、だっこちゃんと呼ばれる人形で、圭一にはそれがなぜ少女たちに興味をもたれているのかわからなかった。しかし、それが戦後十五年経過してようやく平和な時代が庶民生活に根をはったあらわれのように思え、日増しに数を増す黒んぼの人形にほほえましさを感じていた。  文芸雑誌の編集部に送った百枚余の作品が、不採用になって送り返されてきた。  圭一は、深い失望感を味わった。前々年に二度作品が芥川賞候補に推されて以来、四つの作品を文芸雑誌の編集部に送ったが、その中の二作が掲載されただけであった。そして、久しぶりに原稿依頼があって小説を送ったのだが、それも編集者を満足させるに至らなかったのだ。  かれは、返送されてきた原稿を前に、原稿依頼は今後再びあるまいと思った。  その頃同人雑誌に春子の書いた作品が直木賞候補作になったが、それもまた選にもれた。  暑い日の夕方、圭一は、同人雑誌の性格ももつ或る文芸雑誌の編集者に会った。前年の初冬に、その雑誌の依頼で百枚ほどの小説を渡していたのだ。  編集長は、以前著名な文芸雑誌の編集長をしていて、多くの作家の代表作ともいうべき作品を発表したことのある人であった。かれは、圭一の作品について辛辣な批評をし、 「また他の作品を書いてみて下さい。拝見しますから……」  と言って、原稿を大きな封筒に入れて渡してくれた。  圭一は、冷い汗の流れるのを意識しながら外に出ると、タクシーを拾った。編集長は、小説の構成が弱いと言ったが、たしかにその通りだと思った。構成に難があるから文章が生きぬとも言ったが、それも納得できた。  そんなことを考えながら、圭一は、駅前でタクシーをおりた。  歩き出した圭一は、ふと原稿をタクシーの座席に置き忘れたことに気づいた。タクシーが、走りはじめていた。かれは、追ったがすぐにやめてしまった。走れば追いつくことはできたが、かれは歩道に立ったまま走り去ってゆくタクシーを眺めていた。  原稿を川に流したような気分であった。おそらく原稿は、運転手の手からタクシー会社に渡され短期間保管された後他の屑物とともに焼却されるにちがいない。かれには、その原稿にふさわしい宿命のように思えた。口惜しさはなく、むしろさばさばした気分であった。  かれは、踵《きびす》を返すと駅の構内に入っていった。  会社の仕事は、依然として忙しく時間的な余裕はなかったが、かれは、発表誌のあてもない小説を書くことをやめなかった。  秋風が立ちはじめた頃、同人雑誌の編集部から掲載作品が不足しているので作品がないかと言ってきた。かれは、文芸雑誌で不採用になった作品を推敲し直し、清書して送った。没になった作品を発表してもらうことに、気が臆していた。 [#改ページ]    食物のこと  十月中旬、圭一は社用で秋田ヘ旅行した。取引先の経営者が死去したので、社長の代理として葬儀に参列するためであった。  福島と山形の県境を越えるあたりから、秋色は一層濃くなった。樹々は紅葉し、川の流れは澄みきっている。無人の田の彼方に点在している農家の藁葺《わらぶき》屋根が、秋のおだやかな日射しを受けて黄金色に光っていた。  かれは、東北地方が好きであった。  東京の下町で生れた谷崎潤一郎は、東京は東北地方の玄関だとなにかに書いていたが、たしかにその趣はある。上野駅は、東北地方の雰囲気そのものであり、東京が東北地方の一部である証拠でもあるように思える。  関東地方で罪を犯した者は、専ら北へ逃亡する傾きがあるときいたことがある。兵舎から脱走した兵が、東北地方に身をひそめ、さらに北海道へと逃げのびた話も数多い。それらの者たちは、鉱山その他で苛酷な労働を強いたタコ部屋に集っていたのだ。それらの犯罪者の心理に似て、圭一は北へ旅をすると一種の安らぎに似たものを感じる。中学時代からふらりと東北地方へ一人旅に出たこともあるし、また妻と東北地方から北海道へ渡り、根室まで放浪の旅をしたことも、その安らぎの感情によるものかも知れなかった。  列車が、秋田県内に入り、横手駅のホームにすべりこんだ。  かれは、車窓から駅前に立つ三階建ての大きな木造建築に眼をとめた。古風な旅館のような建物で、その大きさと時代がかった古さを持て余しているようにみえる。  かれには、その建物に見覚えがあった。その建物を見つめているうちに、終戦直後、丁度同じ季節の頃に横手へ来た記憶が鮮やかな記憶になってよみがえってきた。  食料の枯渇は、戦時中よりも終戦直後の方が一層甚しかったようだ。家の近くの路上でも、溝に頭を突き入れて倒れている者をよくみた。それらは、すでに死亡していて、餓死者として警察の手で大八車やトラックで運び去られた。餓死者は、きまって男で、圭一は女の死者を一度も眼にしたことはなかった。男は、生活的に無力で、それに比して女は生きぬく強靱さを持っているのだと思った。  圭一は、すでに両親はなく次兄の家に寄食していた。兄の家でも食料は乏しく、雑炊、すいとん、自家製のパンなどを常食にしていたが、社宅に仮住いをしていた理髪師の佐治から耳寄りな話がつたえられた。  かれは、秋田県の大森という農村の出身で、そこは米作地帯になっていて米に不自由はないという。しかも、秋の収穫も終った頃で、大森に行けば米を譲ってもらえることは確実だというのだ。  食料不足に放心状態だった会社の社宅に住む社員は色めき立って、大森に行きたいと言い出した。それに次兄も同意して、一切の費用を兄が負担し、持ち返った米は、社宅に住む三十余世帯に等分に配給することになった。  佐治が、すぐに故郷へ連絡をとると、五俵分の米を譲ってもよいという返事がもどってきた。  人選がおこなわれ、九人の男がえらばれた。その中には圭一も加えられ、布袋をつめたリュックサックを肩に、上野駅へ向った。  上野駅には、買出し姿の男女がひしめいていた。  餓死者の続出する東京からぬけ出して、農漁村から食物を入手し、再びそれを手に飢えた家族の住む東京へ引返してこようとする者たちばかりであった。かれらの眼には、飢えに対する恐れが落着きなく光っていた。  戦時中の緊張感は敗戦によって崩れ去り、人々は、生きのびることに必死だった。復員者らしい男の姿も多く、中には国旗でつくった布袋を手にしている者もあった。  駅前の広場にひしめき合う人の群れにまじっていた圭一たちは、押され押されて駅の広い構内に足をふみ入れた。その直後、すさまじい光景が繰りひろげられた。  構内には大群衆がぎっしりとつまり、それが改札口の方向に移動してゆく。圭一も、その中に巻きこまれ、後方からのしかかってくる重圧で、足も宙に浮き気味に前の方へ押されていった。  悲鳴と怒号が、大きなドームに反響して意識もかすんだ。一人が倒れれば、その上に群衆が折り重なって何百何千という死傷者を出す惨事となることはあきらかだった。圭一は、会社の者ともはなればなれになって、人の体にはさまれて前方に押されていった。  駅員のマイクを通じて叫ぶ制止の声も消されがちで、群衆は改札口に向って流れてゆく。  駅の事務室から、十名近い米兵が改札口に向って走るのがみえた。かれらは、うろたえていた。そして、改札口の柵の上に立つと、自動小銃をかまえ、ドームの天井にむかって連続的に空砲を発射した。  そのすさまじい銃撃音に、群衆の動きがやんだ。しかし、それもわずかな間で、再び人の群れは大喚声とともに改札口にむかって押し寄せはじめた。  米兵の手にした自動小銃の銃口から、再び空砲が連射された。その連射が果しなく繰返されているうちに、ようやく圭一は、改札口を通りぬけることができた。  しかし、ホームも立錐の余地がない人の群れであふれ、かれらはホームに停っている列車に乗ろうとひしめき合っている。窓から入る者が多く、中には列車の車輪の間をかいくぐって反対側の窓から入ろうとしている者もいた。  圭一は、列車の入口から身を入れたが、自然に押されて洗面所の中に入りこんでしまった。  人の群れが車内に続々と押しこまれてきて、列車が動き出した頃には、洗面所内に身じろぎもできぬほどの人の体が隙間なく詰めこまれていた。晩秋であったが、密着する人の体と人いきれで汗が全身を流れた。明るい日射しが薄れて、夕照が破れた窓の外にひろがっていた。  日が没した。  列車は、重たげにのろのろ走った。通路をへだてた便所にも人の体が詰めこまれていて、その中を押しわけて排泄しようとする者との間で諍《いさか》いが絶えず起っていた。  苦しい夜であった。人々は立ったまま眠っていた。背にはりついた男も眠っていて、がくりと膝が折れる。その度に、圭一の膝も折れ、それが前に立つ男の膝にも伝っていった。  列車が秋田県の横手駅についたのは、翌日の午後であった。途中、列車は何度も停止し、二十時間も費して横手駅にたどりついたのだ。  圭一がホームに降りると、別の車輛から八名の社員たちが集ってきた。かれらの顔は、機関車の撒き散らす煙で黒くすすけ、不眠と疲労で眼が一様に充血していた。  圭一たちは、駅の外に出て顔を洗い、持参してきた弁当をとり出した。弁当箱は人の体で押され、中の芋は平たくつぶれていた。  かれらは、そこから支線の電車に乗った。  車内には、学校帰りの制服を着た女学生が乗りこんでいた。圭一は、彼女たちの血色の良い顔に驚き、その肉づきのよい体を見つめた。東京には、そのような顔色と肉体をもつ少女はいない。一様に痩せこけて、顔も土気色をしているのだ。  別天地に足をふみ入れたような感じだった。彼女たちをはじめ車内の者たちに、飢えの色は全くみられなかった。  一人の女学生が、かれには眩しいものに感じられた。肌理《きめ》のこまかい皮膚は白く、唇の色が鮮やかだった。形の良い眉のつけ根が、新緑のようにほのかに染っているのを、かれは美しいと思った。  目的の大森につくと、ホームに口髭を生やした老警官が立っていた。  食料は統制されていて、その買出しは厳禁されている。警官は、あきらかに買出しに来た圭一たちの姿を、冷笑するような眼でながめていた。その顔には、大森から圭一たちが持ち帰る米を残らず駅で押収してやるといった自信の色がひろがっていた。  圭一たちは、両側に農家のつづく道を歩き、左折して小さな旅館に入った。そして、ふとんを敷いてもらうと、身を横たえた。  眼をさますと、電灯がともっていた。  圭一は、社員たちと階下におりて食事をとったが、ここは別天地なのだと再び思った。出された大きな握飯は、銀色にまばゆく光った米飯だった。かれは、社員とともに握飯にかぶりつき、味噌漬を食べ、味噌汁を吸った。  翌日、日没後、圭一たちは帰途についた。リュックサックに米を入れ、長い帯状の袋にも米をつめて腹に巻いた。  警察官に米を押収されずに帰京することは、至難のことであった。駅には警察官が常駐して監視し、さらに東京へ向う列車は、所々で停止を命じられ、乗客全員を下車させて携帯物をしらべ身体検査をする。そして、車内も便所の中まで捜索して、食料品は残らず没収するのだ。  圭一たちは、綿密にはりめぐらされた網をかいくぐって帰京するには分散すべきだという結論に達し、横手駅で思い思いの列車に乗って東京へ向うことになった。  圭一は、若い社員と二人で、短距離を走る列車から列車に乗りつぎ、時には線路を歩いて二駅先の駅から列車に乗りこんだりして、大森を出てから二日目の夜、家にたどりついた。  帰宅してみると、九人のうち圭一たち二人のみが米を持ち帰ることができただけで、他の者たちは途中ですべて米を警官に没収されていた。つまり九人の男が、超満員の列車に乗って秋田県まで往復しながら、わずかに一俵の米しか入手できなかったのだ。  終戦直後、米の買出しに横手へ来てから十五年がたつが、駅前に立つ古びた三階建の建物は当時のままであった。しかし、列車は座席もゆったりしていて空いているし、ホームには駅弁の売子が往き来している。食糧はあふれ、十五年前の飢餓時代が夢のように思えた。  終戦時に十八歳だったかれは、食欲の旺盛な年頃であっただけに食料不足は堪えがたいものに感じられた。絶えずかれは空腹だったし、栄養価の高い食物を満足できるまで食べたいと夢想しつづけてきた。それに加えて、終戦後二年目に病床生活を送ったことも、食物に対する強い希求をいだかせることになった。  肺病の治療には、絶対安静、清潔な空気、栄養価(滋養と称した)の高い食物摂取が三原則とされていた。その中で前二者はかなえられたが、食物に関するかぎりゼロにひとしかった。依然として食料不足はつづき、栄養価などということよりは空腹をいかにみたすかが先行していた。  圭一は、枕もとにおかれた花瓶のマーガレットを凝視した時のことを忘れられない。  マーガレットは、初々しい花弁をひろげて咲いていたが、かれはその白い花を見つめているうちに堪えがたい恐怖感におそわれた。マーガレットは、なぜ美しく咲いているのか。その生きる力は、どこから与えられているのか。日光、空気以外に、マーガレットの生きる力を支えているのは、花瓶の中の水であった。水がかれれば、マーガレットも朽ちてしまう。茎の切口から吸収される水が、花の生命を維持させている。  人体にたとえれば、茎の切口は口であった。口から飲食物を摂取しなければ、人の生命は断たれる。血液の循環、体温、呼吸、筋肉の動きなど、人体では激しいエネルギーが絶え間なく消尽されているが、その原動力は、口から得る食物と水分なのだ。  そうした基本的な仕組みに気づいたことは、恐しかった。口から得られるものが、自分の生命を支えているのだということに肌寒さを感じた。  春子と知り合った頃、野菜サラダを食べる圭一を、彼女は、 「うまそうに食べる人ね」  と、笑った。  第三者にはそう見えるかも知れぬが、決してうまいと思って食べているわけではない。たしかに終戦前後や病臥時と比較すれば、はるかに上質のうまい食物である。が、それよりも食物が自分の肉体を支えている活力源になっていると思うと、真剣になって野菜サラダを食べざるを得ないのだ。  そうした意識が、かれに一食一食の食事を重視させることになった。  終戦前後は、午食を食べても夕食にありつけるかどうか保証はなかった。食物をとりながら、これが最後の食事となるのではあるまいかという終末感に似た意識に絶えずおそわれた。そのような意識が現在にも跡をひいていて、かれは、眼の前に出される食物を、生きたいという切ない思いで口に入れる。 「うまそうに食べる」と見えることも、真剣な圭一の意識の動きを錯覚しているにすぎないのだ。  圭一は、友人などとレストランで同じ料理を口にする時、自然に自分の皿と友人の皿に盛られる食物を見比べる癖がある。それは、兄たちの家に居候をしていたことと終戦前後の食料不足と、さらに病臥生活中の食物に対する希求とが跡をひいているからにちがいなかった。  同じ料理であるのだから皿の上の食物は平等であるはずなのだが、意外にもそれがしばしば不平等になっていることに、圭一は気づいていた。トマトが二切れずつ添えられている皿の中に三切れのっている皿もある。パセリがついているのに、それが見当らぬ皿もある。ひどい時には、だれの前にもガラスのボールに盛られた野菜サラダが出ているのに、それが欠けていることもあった。  それが、不思議にも自分の皿になにかが欠けていることが多いように思う。決していじけているわけではなく、トマトが全くなかったり、肉の切身が極度に小型であったりする。かれは、とたんに落着きを失うが、まさかボーイに「トマトがないんだが……」とは言えない。ただ憮然とした思いで、食物を口に運ぶのだ。  それは、家の食卓でも同様だった。  幼稚園に通いはじめた工《たくみ》の食事は子供用に作られた別種のものだったが、妻と家事手伝いの娘と圭一とは同じ料理であった。それでも、圭一の皿の上にトマトがなかったりパセリが添えられていないことがある。  食物を見比べるのは瞬間的なので、その癖は他人に気づかれていないが、妻は、さすがに見抜いていた。初めの頃は、 「いやな癖ね。お兄さまたちの家に居候をしていた頃のことが跡をひいているんでしょうけど、いい加減に忘れなさいよ。その癖が直らないままあなたが年をとってゆくかと思うと、ぞっとするわ」  と言っていたが、それが根強いものであることに諦めきってしまったのか、彼女は、黙ったまま自分の皿の上のトマトやパセリをかれの皿に移してくれる。  かれは、一層萎縮した気分になって、妻の移してくれたものには箸もつけずに食事をすませるのが常であった。  外で夕食をとった夜、帰宅した圭一は、 「今夜は、なにを食べた」  と思わずきいてしまう。簡単なものであった場合は気にならぬが、うまそうなものが夕食に出たことをきくと、嫉妬に似た感情が湧く。一食損をしたような気分になるのだ。  日曜日、午食をとると、妻は、 「今夜、なにを食べますか」  と、たずねる。  圭一は、返事もしない。そうした圭一に、妻はうんざりしたように、 「食事の献立を考えるので頭が痛くなるのよ。たまには考えてくれたっていいじゃないですか。あなたにも食べたいものがあるでしょう。それを言ってくれれば助かるのよ」  と、言う。  圭一は、決して面倒がっているわけではない。午《ひる》の食事をとって満足しているのに、夕食のことまで考える気にはなれない。それに、かれには、基本的に返事をしたくない理由がある。それは、献立が決定してしまえば、夕食になにが出るかという興味が早くも失われるからだった。  圭一は、味覚散歩などという題をつけた随筆を読むのが好きだが、或る雑誌に掲載されていた料理研究家と言われる女性の書いたものには憤りを感じた。  彼女は、フランス料理専門の或るレストランを推賞していて、フランス人コックの手になる料理をほめ、店内の豪華な調度品が上品な雰囲気をかもし出していて誠にいいと紹介していた。  それだけなら結構だが、問題は値段であった。彼女の推薦する料理の値段は、大学卒の新入社員の平均給与の丁度半額にあたる。しかも、その料理研究家は、月に一度家族五人を連れて食事をしに行くのが楽しいと誇らしげに書いている。  料理学園も経営しているその女性が、職業的な必要から金銭を惜しまず料理を食べ漁《あさ》ることに異存はない。むしろ研究熱心だと言うべきであろう。しかし、家族五人を連れて食事を楽しんでいると雑誌に書く彼女には、庶民生活に対する配慮が欠落している。  朝早く起きて満員電車に乗り会社で仕事をする青年が半月働いて得る報酬を、その女性はただ一度の食事で消費する。彼女一人だけではなく五人の家族も伴えば、新入社員が三カ月働きつづけた給与がその食卓で消えてゆくのだ。  うまいという感覚には、その割に安いという条件が裏づけされていなければならぬ、と圭一は信じている。東北地方の都会でみた凝った造りの店に垂れていたノレンには、「やしくて おいしい あじきゆ」という文句が染められていたが、その店のあずき湯は、事実安くておいしいことで評判だった。  そのフランス料理店の料理は、おそらく|おいしい《ヽヽヽヽ》のだろうが、|やしく《ヽヽヽ》ない点で、食物として失格であり、庶民の読む雑誌に紹介文を書くその料理研究家の態度に腹が立った。  圭一の少年時代は、洋食を食べさせる店を洋食屋と言った。その名称の響きはよく、客と店とが密着していた。  戦後のレストランは洋食屋風のものが影をひそめ、取澄した店が多い。気取ったボーイと気取った客との言動は、あたかも猿芝居をみているかのような滑稽なものにみえる。米飯のことをライスと呼び、水のことをウォーターという。 「ライスとパン、どちらにいたしますか」 「ごはん」 「ライスですか?」 「ごはんだよ」 「ライスですね、承知しました」  などという会話は、下手な喜劇にもない。  献立表をみても、中華料理のような註釈もついていないので内容不明のものが多い。コンソメを西洋風薄汁などと註釈でもつけたらいいとからかいたくもなる。  茹卵《ゆでたまご》を注文したら、固い茹卵かとボーイがきく。 「半熟」  圭一が答えると、 「茹で時間は何分にいたしましょうか」  と、ボーイは言った。  大の男が、そんなことを知るはずがない。圭一はばかばかしくなって、 「適当にやってくれい」  と、顔をそむけて言った。  少年時代よく母親に連れて行ってもらった洋食屋の卓上には、純白のテーブルクロスの上に塩と胡椒《こしよう》と、そしてソースを入れた瓶が置かれていた。  ソースは洋食に不可欠のもので、人々はそのハイカラな味に親しんだ。駄菓子屋には、醤油の代りにソースをつけて焼いたソースせんべいまで出現し、ソース焼きそば、ソース焼飯が一般化した。日本人の舌に、その液体調味料の味が適応したのだろう。  長い皿に盛られたランチのフライにソースをかけると、それが米飯の下方に流れこんでゆく。その米飯をソースとともに匙ですくうと、米飯がひとしおうまく感じられた。  そうした洋食になくてはならぬソースが、高級店と称するレストランの食卓から姿を消したことは不服だった。フライ類にソースに似たものがかけられている時もあるし、容器に入れられたものを適量にかけるようにしていることもある。それは、それでよいが、なにもかけてなく塩をふりまいて食べることを強いているような店も多い。洋食にソースがつきものと考えている圭一は、卓上に塩と胡椒があるだけなのを見ると、不快にすらなる。  或る土曜日、圭一は、子供二人を姉の家に置いて出てきた春子と、レストランでおそい昼食をとった。そのレストランにもソースの瓶はなく、塩と胡椒がテーブルの中央におかれているのみであった。  かれは、カニコロッケを注文し、妻はフライを頼んだ。  やがて運ばれてきたカニコロッケにもフライにも、ソース類はかかっていなかった。が、春子は、それをいぶかしむ風もなく、フライに塩をふりかけて満足そうに食べはじめた。北陸で生れ、東京の目白で育った彼女は、塩を少しふりかけるだけで十分なのだ。  圭一は、フォークをとる気にもなれず、手をあげてボーイを呼んだ。 「普通のさらっとしたソースを下さいな」  かれは頼んだ。  二十歳ぐらいのボーイは、 「カニコロッケには味つけがしてありますから、塩をふりかけてお召し上がり下さい」  と、慇懃な口調で言った。 「なんでもいいから、ソースを下さい」  圭一は、苛立った。 「申訳ありませんが、置いてありません」  ボーイが、素気なく答えた。 「洋食を食べさせる店にソースがない? そんなはずはないだろう。調理場にもおいてないのかい」  圭一は、険しい眼をしてボーイを見つめた。 「一寸、お待ち下さい」  ボーイが傍をはなれると、蝶ネクタイをしめ黒い背広を着た男に近づいて低声で話をしはじめた。その蝶ネクタイの男の顔に、あきらかに蔑みの笑いが湧き、ボーイになにか指示した。  ボーイが調理場に入ると、すぐに出てきた。その腕には、一升瓶が抱かれていた。  圭一は、受けとると、立ち上ってソースを垂らし、ボーイに返した。  春子は、終始無言だったが、店の外に出ると、 「あなたと食事をするのは、未開人と食事をしているようで恥しいわ」  と言いながらも、その眼は笑っていた。 [#改ページ]    小説を書くこと  その年の末、文芸雑誌で没になった「透明標本」という作品が同人雑誌に発表された。それは、骨標本作りの老人を主人公にした作品で、合評会で批評に立った或る同人が、 「いい加減に骨のことはやめにした方がいい」  と、言ったりした。  また文芸雑誌の同人雑誌評でも、同じ号にのった同人の作品は批評されていたが、圭一の作品は無視されていた。すでに春子は、書下し長篇以外に文芸雑誌などにも作品が発表されていて、一様に好意的な批評を受けていた。それだけに、圭一は、幾分自信をいだいていた百余枚の作品が不評であったことに、落胆していた。  いつの頃からか、圭一も春子も互の作品を読まなくなっていた。夫婦であることにちがいはないが、小説を書く人間としては他人であり、文学について話し合うことも避けるようにしていた。そうした仕事に対する無関心が、圭一夫婦の固定化した貌になり、それ故に破綻の起きる余地もなくなっていたのかも知れなかった。 「同じ屋根の下で、もう一人小説を書く人間がいると思うといやにならないかね。その事情をとっくりききたいな」  などときかれることは、しばしばだった。その質問者の顔には、例外なく揶揄《やゆ》の色がうかんでいた。  夫と妻が小説を書くことは、ママごと遊びのように見えると言いたいのだろうが、圭一もそれが無理もないことだと知っていた。あくまで個人の密室作業であるべき創作を、圭一と春子が夫婦関係を保ちながらつづけていることに、贋《にせ》の匂いを感じとっているのだ。  一言で言えば、それはいやらしいという表現が最も適切であり、いい気なものだとも言える性格のものであった。春子もそのことは十分承知していて、同様の質問を受けると、ただ黙って笑っているだけであった。おそらく春子は、夫も子供もいないただ一人の生活の中で、小説を書きたいと望んでいるにちがいなかった。  圭一も、時折家庭からの脱出を思うことがあった。  どこか東京の場末の町の八百屋の二階などに間借りして、自炊をし、冷いふとんにもぐりこんで眠る。物干台につづく窓からは、隅田川の畔《ほとり》に立つお化け煙突がみえたりする。そんな部屋で、小説を書いていたいと願う。  そうした思いが周期的にかれを襲うが、現実に自分にまとわりついた家庭を思うと、それが実現不可能の夢想にすぎないことも知っていた。かれは、自ら願って春子を妻とし、二児の父親にもなった。それは自然の経過で、自然であるが故に家庭の存在は重く背にのしかかってきている。すでにそこからの脱出は人間としてできぬことであり、春子が小説を書くからといって、家庭を捨てる理由にはならなかった。  工《たくみ》は、幼稚園へ通うまでに成長し、千春は元気に歩きまわっている。かれらは、圭一と春子を父母として信頼しきっているように日々を過している。その幼い子供を不幸にさせぬためにも、圭一夫婦は、小説を書くことに互に無関心であるという唯一の手がかりをたよりに、その均衡を維持しようとしていたのだ。  元旦の午後から、圭一は小説を書きはじめた。小説を書く以外に自分の生きる意味はないと自分に言いきかせ、気持をとり直して同人雑誌に発表する作品にとりかかった。  それは、前年に佐渡の相川に赴いた時、町の後方に点々と散る廃寺で見た子地蔵に創作意欲を刺戟されて書きはじめた小説だった。土に埋れ、雑草の中に横たわっていた牛乳瓶ほどの大きさの子地蔵の群れが、かれに強い印象をあたえたのだ。  勤務に時間の大半をとられるので、半年後に書き終えることができればよい、と思っていた。が、松がとれた頃、家に舞いこんだ手紙で、かれはその作品の脱稿を急がねばならなくなった。  前年の晩秋に同人雑誌に発表したかれの「透明標本」という作品が芥川賞候補作品にえらばれたという通知があった。圭一は、意外に思った。それは、文芸雑誌で不採用になり、同人雑誌に発表した後もなんの反応もない作品だった。それが、候補作品にえらばれたことは不可解だった。  その通知と同時に、文芸雑誌から百枚程度の作品を見せて欲しいという手紙が寄せられていた。かれは、子地蔵の小説をその月の二十日までに編集部に送ることを決心した。  圭一は、思いきって社長に事情を説明し、残業することなく定時退社を許可してもらった。  かれは、勤めをしながら小説を書く生活をつづけている間に、いつの間にか睡眠は五時間で十分に足りるようになっていた。寝酒を飲んでふとんにもぐるとすぐに熟睡し、五時間後には必ず眼がさめる。そうした習性が身についていたので、定時に退社すれば、一日に六、七時間は机に向うことができた。  締切日の前夜は徹夜し、「石の微笑」と題した百枚の小説を書き上げた。陰惨な素材だったが、明るく書けたことが、圭一には気に入った。かれは、出勤すると、午食休みに小説を出版社の受付にとどけた。  その日は、選考日だった。かれは、徹夜の疲れもあるので定時に会社を出ると家にもどった。  道に、車がとまっていた。 「また、あいつ来てやがる」  かれは、苦笑しながら玄関のドアをあけ、居間に入った。予想した通り弟夫婦が居間に坐っていた。  かれらは、圭一と春子の書いた小説が候補作品になる度に、選考日の夜必ずやってくる。春子が三回、圭一が二回それぞれ候補になって、その度に選にもれているので、かれらは過去五回圭一と春子を慰める役目を負わされているのだ。 「また来たのか、おれを慰めるのも飽きたろう」  圭一は、オーバーと背広を脱ぐと、食卓の前に坐った。 「たしかに飽きたよ。でも候補にえらばれただけでいいと思わなくちゃ。兄貴の小説が参加することに意義がある」  と、弟は、まるでオリンピックのようなことを口にして、春子を笑わせた。  食事をすませた後、圭一は、ビールを一本飲み、それから日本酒を飲みはじめた。選からもれることが習慣化して妙に居直ったような気持だったが、やはり気分は重苦しく、かれは、口数も少く杯を重ねつづけていた。  時計の針が、九時をまわった。  選考委員会は午後七時からはじまり、九時前には終了するのが常だときいていた。それまで候補になった経験からも、八時半頃には必ず選にもれたという通知を受けていた。 「まただめだったね。でも、いいじゃないか、候補にならないよりましだと思えば……」  弟が、圭一の肩をたたいた。  自分では自信めいたものがあったが、第三者には全く認められなかった小説であったし、初めから受賞の対象にはなり得ないものだったのだ、と圭一は思った。  重苦しい気分が、九時を過ぎたことでやわらぎ、急に酔いがまわって柱に背をもたせかけた。  九時のニュースでは受賞者の氏名が発表されず、弟の妻が、 「まだきまっていないんじゃないの」  と言ったが、弟は黙っていた。  九時半がすぎた頃、書斎にある電話のベルが鳴った。弟が立ち上ると、居間を出て行った。が、すぐにもどってくると、 「兄貴、電話だよ。なんとか会の人だとか言っていた」  と、言った。  圭一は、立ち上り、書斎に行った。電話の相手は、選考委員会の世話をしている人であった。その男は、選考委員会で他の人の作品と圭一の作品のどちらを選ぶべきか議論が別れて現在も協議中だと言った。 「会の空気としては、該当作なしという意見もありますが、両作品の同時受賞に内定しました。受賞者に対して記者の共同インタビューがおこなわれます。そちらに迎えに行く時間が惜しいのですが、こちらにおいでいただけませんか」  男は、事務的な口調で言った。  圭一は、諒承して受話器を置いた。胸に熱いものが突き上げ、後についてきていた春子と弟夫婦に男の話を伝えた。 「よかったね、すぐ来てくれというのだね。それならおれが車で送ってゆく」  弟が、はずんだ声で言った。  あわただしく身仕度がはじまって、圭一は、春子と弟の妻に見送られ、弟の車に乗った。  車は、青梅街道を走り、新宿を通りすぎた。ネオンの色が驚くほどきらびやかに見え、体が宙に浮いているように感じられた。  車が、出版社の入口に横づけされた。  圭一は、玄関に足をふみ入れた時、二人の新聞記者らしい男が立っているのに気づいた。その顔を見た時、かれは、これはおかしい、と胸の中でつぶやいた。二人の男の顔には、かすかに痛々しいものを眼にするような表情がうかんでいる。  狭いロビーは、森閑としている。  かれは、受付に近づくと若い女性に氏名を告げた。錯覚かも知れなかったが、その女性の顔にも新聞記者らしい二人の男と同様の表情がかげったように思えた。  堂々としていたい、と思った。こういうことも生きている間には、何度かあるのだとも思った。圭一は、ロビーの隅からひそかに射てくる二人の記者の視線を意識していた。  やがて、廊下を一人の男が圭一に近づいてきた。  男は、圭一の前に立った。その顔は、無表情に近かった。  圭一は、その男の役割が気の毒に思えた。口を開かなくとも、男の言おうとしている言葉はわかっていた。  男は、 「御自宅に再び電話をしたのですが、もう車でお出掛けになった後でした」  と言って、抑揚のない口調で簡単に圭一以外の人の作品が受賞作に決定したと述べた。そして、 「わざわざおいでいただいて、申訳なく思っています」  と、言った。 「わかりました」  圭一は、一礼すると、出版社の玄関の外に出た。そして、待っていた弟の車の助手席に乗った。 「ちがっていたのかい」  弟が、圭一の顔を見つめ、車のエンジンをかけた。  車が、すぐに走り出した。  圭一は、前方を見つめながら男の言った言葉を弟につたえた。 「最後になってくつがえったんだね。応対に出てきたその男の人、辛い役目だな。気の毒に……」  弟が、つぶやいた。気の毒に、という言葉に、圭一は弟の横顔を見た。弟が自分と同じことを考えたことに驚きを感じたのだ。  弟は、それきり口をつぐんだ。フロントガラスに、氾濫《はんらん》した多彩なネオンの光が近づいてきて、車は新宿の町に入った。 「ここで降ろしてくれ。今夜は飲んでゆく」  圭一は、弟に言ったが、 「今夜は帰れよ」  と、弟は自動車を走らせつづけた。  圭一は、ふと十三年前、手術を受けたことを思い出していた。死からのがれたい一心で手術を受けたが、それは成功し、十三年間も生きながらえてきた。その間、春子と結婚し、二児の父にもなって、生活に不自由もない。病臥していた以前は、小説を書くことなど念頭になく、旧制高校への入学試験の面接では、大学に進学して哲学を専攻したいと答えたりしていた。それが、病後、小説を書くようになったが、いつの間にか芥川賞の候補に推される身になっている。  これも手術をした賜《たまもの》で、生きているだけで十分感謝すべきであった。結婚直後妻との放浪の旅が、春子とちがって楽しく思えたのも、生きているからこそ未知の地を旅できるのだという実感が強かったからなのだろう。  贅沢なことは望むべきではない、と、かれは車のシートに凭《もた》れながら思った。  弟が、車のラジオのスイッチをひねった。米軍向けの放送が、ジャズの旋律を流している。  車が、赤信号で停止すると、 「大変な世界だね、兄貴の歩く世界は……」  と、弟が深い息をはくようにつぶやいた。  圭一は、自分がその夜のことを苛酷に思っていないことに安堵していた。受賞をすれば、一時は華やいだ光につつまれるが、それも時間の経過とともに色あせたものになる。賞を受けることは、その後の創作活動に便利ではあるが、それも絶対的とは言えない。  ただかれは、男と対した時の自分が堂々としていたことに気分がやすらいだ。  車は、青梅街道を折れると、神社の裏手の坂をのぼっていった。  翌日、かれは定時に出勤した。乗換駅で買った新聞には、受賞者の経歴が写真入りで紹介され選考経過の記事が出ていた。それによると、受賞作品と圭一の作品が最後に残り協議がつづけられて同時受賞という意見が強かったが、欠席した委員の意向により最終的に選考委員の過半数が受賞者の作品を支持する形になって、受賞が決定したと報じていた。つまり受賞作と圭一の作品との優劣は、一票の差ではあっても明確で、途中の過程で「内定」という声が出たにすぎないことを知った。  その日、正午頃、芥川賞を設定した出版社から、圭一の作品を総合雑誌に転載したいが社に来て欲しいという電話があった。圭一は、承諾すると、社長の許可を得て出版社に赴いた。  二人の社員が出てきて、近くの喫茶店に案内された。かれらは、選考経過を詳細に説明し、来社を乞うた手ちがいを詫びた。  圭一には、かれらに憤りをいだく理由はなかった。自分の作品が受賞作よりも劣っていたことが原因で、主催者側が軽率な判断をしたことはたしかだが、それを責めるいわれはない。むしろ、内定と判断した主催者側としては、当然の処置であったにちがいない。  前夜、電話をかけてきた男は、内定とたしかに言い、決定とは言わなかった。今になって考えれば、その時の電話で、 「無駄足になっても困りますから、内定ではなく決定するまで家にいます」  と、答えるべきだったとも思った。  いずれにしても、自分の作品が不備であったことに原因が帰着しているのはたしかだった。  圭一は、しきりに詫びる二人の社員に恐縮し、転載してもらうことに厚く礼を述べた。  二人の社員と会ったことで、気分がはれた。同人雑誌に発表後も無視されていた作品が、最後の選まで残ったということは思いもかけぬ結果であった。その上、総合雑誌に転載されることを思うと、圭一は、夢想もしない幸運だとも感じた。  さらに二日後、かれが文芸雑誌にとどけておいた佐渡の子地蔵を扱った「石の微笑」という作品が次号に発表されるという通知があった。また、その手紙に次作をみせて欲しいという編集者の言葉も添えられていた。圭一は、満足だった。文芸雑誌に作品が掲載されるのは二年ぶりで、候補作品が総合雑誌に転載されるよりも嬉しかった。  かれは、浮き立った気分になっていた。街を歩くと、風物がすべて明るくみえた。路上をふむ足の感触が、かれにはたしかなものに感じられ、快かった。  二月に入って間もなく、大雪があった。  その翌日は日曜日で、二人の男が長靴をはき雪の中を圭一の家にやってきた。一人は、圭一と同じ町に住む新進の文芸評論家の小関氏で、数日前電話がかかってきて小さな出版社の経営者である大滝という人と訪れたいという連絡があったのだ。  深い積雪の中を訪れてきた小関氏たちを、圭一は応接間に案内した。  小関氏は、圭一が自費出版した短篇集の出版記念会にも出席してくれ、その後も二、三度路上や駅で顔を合わせていた。氏は、その小さな出版社の編集にも協力していて、圭一の創作集の出版を経営者の大滝氏にすすめたという。 「ここらで短篇集を出してもいい頃ですよ」  小関氏は言った。  小出版社であるとは言え、無名の圭一の短篇集を出してくれることは破格の好意であった。その短篇集は売れるはずもなく、出版社に経済的な損失を与えることはあきらかだった。 「御迷惑をかけるのが心苦しい」  圭一が喜びをこらえながら言うと、大滝氏は、 「新人の方の手助けになれば、それでいいんです。金銭的なことは問題じゃありません」  と、さりげない口調で言った。  圭一は、喜んでその好意を受けると答え、小関氏と収録する短篇の選定にかかった。圭一にとって初めて芥川賞候補作品に推された「鉄橋」という短篇をおさめることにしたが、かれは、表題作に「少女架刑」という短篇をえらびたかった。それは、文芸雑誌で没になり同人雑誌に発表しても批評すら受けなかった作品だが、かれは深い愛着をいだいていた。そして、その旨を口にすると、小関氏も大滝氏も即座に賛成してくれた。  無名の新人の第一創作集なので、序文と帯に推薦文が欲しいと大滝氏が言った。そして、序文は圭一の所属する同人雑誌の主宰者である醍醐氏のものが得られれば……という意見を述べた。圭一は、同人雑誌の編集長を通じてお願いしてみると答えたが、推薦文をだれに書いてもらうかが難問であった。小関氏にお願いしたが、氏は頭をふり、 「文名の確立した方がいい。文壇というものは温いものですよ。作品さえ良ければ、面識のない新人にも推薦文を書いてくれるものです」  と、言った。  圭一は、ためらいながら或る評論家の名を口にした。それは、数年前、自作ののった同人雑誌を手に紹介者もなく訪れ、雑誌も受けとることを拒まれた評論家だった。そのことを口にすると、 「それなら私の方で作品を持参し、御納得いただけたら書いて下さるようにお頼みしましょう」  と、大滝氏が答えた。 「失礼じゃないでしょうかね」  圭一が逡巡すると、小関氏は、 「いいと思えば書いてくれますよ。出版社にまかしておきなさい」  と、笑いながら言った。  出版は秋の予定だと言って、小関氏は大滝氏と再び雪道を帰って行った。  圭一は、雪の中を裸足で走りまわりたいような喜びを感じた。自費で出版した短篇集は、その後人に贈ったりして六百部も残っていたが、アパートから転居する折に焼き、百部ほど残っているにすぎない。それは、かれにとって貴重な財産だったが、それに正式の出版物である短篇集が加わることは嬉しかった。  翌月の新聞の文芸時評では、かれが文芸雑誌に発表した作品がとり上げられていた。賞められてはいなかったが、決して不評でもなかった。  その月の下旬、大滝氏から電話があって、圭一の口にした評論家が短篇集に推薦文を書くことを快く承諾してくれたと伝えてきた。圭一は、安堵し、小関氏にも電話をして礼を述べた。  参道の桜の蕾が、ふくらみはじめていた。 [#改ページ]    寄食のこと  その年の夏、文芸雑誌に発表した「石の微笑」は、またも芥川賞候補になったがそれも受賞とは縁がなかった。かれは、過去四回候補になり四回選から落ちたのだ。  その頃、会社では人事異動の話がきざしはじめていた。  業績の伸長に伴って地方への販路を開拓するため静岡から東北地方にかけて六つの営業所が次々に新設されていた。それらを統轄する必要から、営業部の中に第二営業部を設ける準備がすすめられ、その責任者に、圭一と老練な営業部員のいずれかが選ばれる公算が大きくなった。  圭一は、狼狽した。もしもその位置についたとしたら、定期的に旅もしてしばしば営業所廻りをしなければならなくなる。現在でも勤務は残業につぐ残業の激職であるのに、さらに仕事は倍加する。個人的な時間は、全く失われるのだ。  社長は、圭一の勤務ぶりに注目したのだろうが、かれには営業部の仕事は不向きだった。宣伝用新聞の編集を引受けるために入社したかれが、営業部の仕事ができるはずもなかった。  かれは、自分とともに第二営業部の責任者の候補者と目されている営業部員を適任者だと思った。かれは、学歴がないが営業成績は抜群で、部下の信望もあつい。社長は、かれの統率能力を危ぶんでいるのだろうが、頭もよく十分期待にこたえる人物だと思った。  圭一は、或る夜帰宅すると、 「おれは、会社をやめる」  と、妻に言った。  春子は、無言でかれを見つめた。その顔には、予想される経済的な不安が色濃く浮び出ていた。  圭一は、事情を説明し、 「もしも人事がおれに決定したら、おれは一字も小説を書けなくなる。未決定のうちに退くなら筋は通る。やめるぞ」  と、声をあげた。  春子が立つと、ビールをもってきて圭一にコップを渡した。 「いつかはこういう時がくると思っていたわ。よく今まで勤めに出ていたものよ。春ちゃんに家事をまかせて小説を書いていた私の方も辛かったわ。やめなさい。生活なんてなんとかなるわよ」  春子は、圭一のコップにビールを注いだ。 「生意気言ってやがら、山内一豊の妻みたいなことを言うな」  圭一は、舌打ちした。  生活がなんとかなると言っても、なんとかなるはずはなかった。三カ月ほどの間に思わぬ雑誌から原稿の依頼がつづいて二、三あったが、それが将来もつづく保証はない。春子も稀に雑誌の依頼原稿を書いてはいたが、二人の原稿収入を合わせても生活を維持するには程遠い。  しかし、圭一は、これ以上会社にとどまるべきではないと思った。或る同人は、喫茶店やバーの床磨きを何軒も請負っていて、午前中に仕事をすますと午後は小説を書くという。もしも生活に困窮したら、かれに頼んで同様の仕事を紹介してもらってもいいのだ。 「やめると言ったら、やめるぞ」  かれは、自分に言いきかすように叫ぶと、台所に立って冷酒をコップに注いだ。そして、酒を咽喉に流しこみながら、明日早速入社を世話してくれた次兄に退社の話をしようと思った。  会社を辞することがこれほどむずかしいものだとは、かれも知らなかった。  入社を世話してくれた次兄にまずそのことを話すと、兄はすぐに会社に来て社長に伝えた。  社長は、圭一の辞意がかたいことを知ると、 「午後三時に退社してもよいし、土曜日は休んでもよい」  という条件すら示してくれた。  しかし、圭一には、その好意を受ける気持がなかった。かれは、一人の社員であり、個人的理由で他の社員と別の待遇を受けることは許されるべきでなかった。  かれが、その申出を拒み、辞職を懇願すると、社長は二、三日考えて翻意して欲しいと言った。  かれは、申訳ないと思った。入社して以来、自分には、船底に貝類や海草類が日を追うて付着するように会社のさまざまな仕事が重り合ってまとわりついてきている。それらの仕事に対する責任を、辞職という形で放棄することは会社への背信行為でもあった。  しかし、この機会に職を辞さねば、一層責任ある仕事を負わされ、一生涯小説を書くことは絶対に不可能になる。人間として恥ずべきことかも知れぬが、かれは辞職しなければならぬと決意をかためた。  三日後に再び辞意をつたえると、社長は、白けた顔でうなずいた。勤め人として無能な自分を心にかけてくれた社長の好意に、かれは深く頭をさげた。  事務の引継ぎをおこなって、一カ月後にかれは退社した。社長は、規定以上の退職金をおくってくれた。  今まで、やめたということは大学を中退した時以外になかった。  かれは、学生部長に口頭で中退する旨を申し出たが、それは正式な手続とはならなかったらしく、学費滞納者の群にくり入れられた。そして、大学の事務所の前に貼られた滞納者名の末尾に、かれの名が登場すると、それは次第に上位へと進んで、やがてかれの名は筆頭に躍り出た。  その後、約一年間、かれの名はその位置に固定し、教授や学生の眼に印象深く焼きつけられたらしい。中退してから後輩に路上で会うと、かれらは薄笑いしながらそのことを口にし、三年後に友人の結婚式に出ると、来賓として出席していた教授から、 「あなたは、学費滞納の王様だった人だね」  と、冷やかされた。  そんなこともあったが、学校を退くことは容易で、それに比べると会社を退くことは精神的に予想以上の苦しみを味わされた。それは、会社が学校とはちがって厳しい社会組織の中の存在であり、そこに所属する人々の生涯を賭《か》ける職場であるからだろう。  退社したかれには、朝から夜眠るまで家にいてもよいという感覚が異様であった。  朝食がすむと、工は幼稚園に出掛け、妻と春ちゃんは家事をはじめる。なにもすることがないのは、自分と一歳半になる長女の千春だけであった。と言っても、千春には彼女なりの遊びという仕事があった。妻にまといついたり、部屋で積木遊びをしたりする。午後になると、千春は午睡をし、起きて庭で土いじりをはじめる。そうした動きをみていると、幼い千春も結構忙しく、充実した時間をすごしているように思った。  圭一は、自分一人だけが家族の中で定った仕事がないことを感じた。  会社をやめて間もなく、文芸雑誌に百枚ほどの作品が発表され、つづいて短篇集「少女架刑」が出版された。  その短篇集は、主だった新聞、雑誌の書評欄にとり上げられたので、初版三千部を出した後、千部ずつ三度にわたって増刷された。出版社側は新人の短篇集として異例のことだと言っていたが、その出版によって原稿依頼のくるようなことはなかった。  会社をやめれば、十分な時間を得て小説を書けるようになると思いこんでいたが、意外にもそれは期待はずれであった。勤めに出ていた頃は、一刻も早く机に向おうと帰宅を急ぎ、時間を惜しむように机に向ったが、そうした気魄はすっかり失われてしまっていた。  時間の質が、全く変ってしまったようであった。  一日の二十四時間が、かれにすべて与えられた自由に使用できる時間であったが、節のない竹のようにだらりと伸びきったものになった。朝起きて、体がなんとなくだるいと、今日は気分が乗らないと寝ころがって過す。外からきこえてくる子供たちの声や、門の傍で立ち話をする女の会話に苛立って、机の前をはなれてしまうこともあった。  それに、かれにはそれほどの時間を要する差し迫った仕事はなにもなかった。原稿依頼は全くなく、ただ発表のあてもない小説を少しずつ書き進めているだけだった。  それでも短篇集の増刷分の印税が来ているうちはまだよかったが、それも絶えると、かれは、身の置きどころのないような佗しい気分になった。かれは、三十五歳になっていた。男としては、社会的に最も精力的に働かねばならぬ年齢であった。が、社会はかれを必要とせず、その証拠には経済的な恵みをあたえてくれない。会社をやめた代価が余りにも大きいことを、かれはあらためて実感した。  春子は、同人雑誌に小説を書きつづけながら、婦人雑誌や高校生を対象にした雑誌の依頼原稿を書き、わずかではあったが定期的な収入を得ていた。その収入と、圭一の退職金を小刻みに郵便局から下すことによって、生活は辛うじて維持されていた。  退職金がやがて底をつくことはあきらかだった。そうなれば、かれは、春子の収入でこの家に寄食する身になる。男としては堪えがたいことだが、そんな恐るべき事態になる可能性は多分にあった。  今のうちに旅をしてやれ、とかれは思った。ダム工事で湖底に沈む村落を舞台に小説を書こうという構想を、かれはいだいていた。それは、長篇となるはずで、取材する現場として工事の進められている黒部第四発電所の建設現場が好適だった。 「生活感覚の切りかえがつかぬから、旅に出る。退職金の一部をもらうぞ」  圭一は春子に言って、郵便局から金を引出してこさせた。  かれは、その金を懐中に夜行列車に乗って上野を発った。  勤めをしていた時の旅とは、全く異った気分であった。自由な解放感はあったが、旅に費す金銭が生活費の中から捻出されたものであるという意識がつきまとう。車窓の外を流れる灯に、家にいる妻や子供たちのことが思われた。それらの犠牲の上に旅をしているのだと思うと、妙に居直った気分でもあった。  黒部渓谷には雪が迫っていて、軌道車の運行も休止する寸前であった。  かれは、寒さに身をふるわせて渓谷の上流に赴き、妻の従兄が技師として寝泊りしている宿泊所で数日を過した。そして、従兄のあとについて、堰堤《えんてい》工事現場や掘鑿《くつさく》中のトンネルの切羽に行ったりした。  圭一は、今後当分の間旅をすることはできないだろうと思った。家には、かれの旅を許す経済的余裕はない。 「こんな景色をみるのも、これが終りかも知れぬ」  かれは、帰りの軌道車から黒部の渓谷美をながめながらつぶやいた。  宇奈月につくと、前日山を下りた従兄が保安帽をかぶって待っていて、ジープで黒部駅まで送ってくれた。 「春子ちゃんに、赤羽駅着の時間を電話しておくよ」  かれは、列車に乗った圭一に言った。 「いいですよ、そんなこと」  圭一は、動きはじめた列車のデッキで言ったが、従兄は黙ったまま笑っていた。  男は、仕事もなく収入もなければ、その顔におびえに似た弱々しい表情が露出する。勤めもやめたという圭一に、従兄はかれの置かれた立場を直感したのかも知れなかった。  車内は、すいていた。  かれは、靴をぬぎ足を前の座席に投げ出すと、車窓の外に眼を向けた。立看板が収穫の終った田の中に立っているが、その字がかすかににじんでみえる。  かれは、一年ほど前から眼が近視になりはじめたことに気づいていた。細字の万年筆で蟻のような小さな字を書いて下書することが、視力を弱めているらしい。帰京したら、眼鏡を買ってみようか、とかれは思った。  赤羽駅に列車がすべりこんだのは、夜の七時頃であった。  ホームには、春子と工《たくみ》と千春が寄りかたまるようにして立っていた。そして、圭一の姿を認めると駈け寄ってきた。  圭一は、照れ臭く、工の手をつかむと無言で歩き出した。 「今日、あなたに電話があったわよ」  春子が、追いすがるように声をかけてきた。 「どこから……」  圭一は、足をとめた。  春子は、著名な出版社の名を口にした。その出版部の佐山という人が、圭一に書下し長篇のことで会いたいという。 「何人かの作家に依頼して、叢書のような形で出したいんですって。今夜帰宅すると言ったら、明日また電話をすると言っていたわ」  春子は、頬をゆるめながら言った。 「そうか」  圭一は、また歩き出したが、全身が熱くなった。もしもその依頼が本格化すれば、自分にも仕事があたえられることになる。長篇を書いたことはないが、大きな素材を扱えば書けそうな気もした。  かれは、歩道橋を歩きながら、不意に振向くと、 「おれな、眼鏡を買いたいんだよ。少し近視になったらしい」  と、春子に声をかけた。 「眼鏡? いやだわ、私。眼鏡をかけた人はきらいなのよ。あなたが眼鏡をかけていなかったから結婚したのよ」  春子の甲高い声に、傍を歩く男が眼を向けてきた。その男の顔には、眼鏡の玉が光っていた。  翌日、出版部の編集者である佐山氏から電話がかかってきて、圭一は待合わせ場所の新宿の喫茶店に出向いた。  佐山氏は、圭一の作品を驚くほど読んでいて、 「長篇はまだ一度もお書きになっていないようですが、初めて芥川賞候補になった作品と同じようにボクサーを主人公にしたらいい長篇が書けますよ」  と、言った。  そして、書下し長篇は叢書として企画し、十名以上の作家に執筆を依頼しているが、まず圭一をふくめた三人の作家の書下し長篇を出す予定だと言った。  圭一以外の二人の作家は、圭一よりもやや年長にすぎないが、すでに文名も定まった人たちであった。殊にその一人は、十代後半から小説を書き、その後すぐれた小説を続々と書いている作家であった。そうした中に加えられたことは、圭一にも嬉しかった。 「お忙しいでしょうが、よろしくお願いします」  佐山氏は、圭一が承諾する旨を答えると頭をさげた。お忙しいでしょうが……という言葉は、日常口にしている挨拶のようなものにちがいないが、圭一には違和感があって、 「忙しくなんかないんです。六カ月後を目標に、これに専念します」  と、答えた。  佐山氏は、 「それではお願いします」  と、鄭重な口調で言うと席を立った。  圭一は、店の前で佐山氏と別れると、電光のひろがりはじめた街の中を歩きはじめた。  眼の前に、眼鏡店があった。かれは、ためらうことなく店内に入るとショーケースの中に並べられた眼鏡のふちをながめた。高価なものもあったが、それは老齢者向きのものが多く、一般的なものは意外に安いことを知った。  かれは眼鏡を買う気になって、近づいてきた店員に、 「近眼のレンズは、いくら位ですか」  と、たずねた。  店員は、国産のものと外国製のレンズの名を口にしたが、それも予想したより安価であった。  かれは、検眼して欲しいと頼み、店員に案内されて検眼室に入った。片仮名や丸い環《わ》の印刷された紙の上に眼を据え、店員の細い棒で指す文字や環を追った。検査の結果は、軽い近視であった。  かれは、店員と相談し淡褐色の太目のふちを選び、レンズを国産のものにした。ふちの価格の方が、レンズよりも高かった。  かれは、外に出ると街角に立って眼鏡をかけてみた。両耳のつけ根と鼻梁《びりよう》に眼鏡のふちの当る感触が異様であった。  かれは、雑沓の中を歩き出した。友人とばったり会っても、気づかず通り過ぎてゆくにちがいないと思うと、変装して歩いているような快感が湧いた。  面白い気分だ、とかれは思った。  ふと、眼をあげたかれは、思わず立止まった。街にはネオンが点滅していたが、その光が驚くほど鮮やかで、色文字もくっきり浮び上っている。その美麗な光に、かれは一瞬放心状態におちいった。前方のネオン塔に、ジョッキから溢れ出るビールの泡がおびただしい光の粒になって流れ落ちている。それは、ガラス面を通して水槽の中の熱帯魚をみるように、レンズの彼方できらびやかな光をうかび上らせていた。  かれは、陶然としてネオンの点滅を見つめていた。  圭一は、眼鏡が気に入ったが、家族の者には不評だった。  二人の子供は、呆気にとられたように圭一の顔を見つめ、工は、 「こわい」  と言って、部屋の隅に逃げた。 「いやだわ。眼鏡をかけた人ってきらいなのよ。こんな人と結婚したはずじゃないんだわ」  春子は、薄気味悪そうに顔をしかめた。  また、訪れてきた弟は、 「いやらしいな。女たらしみたいな顔になって」  と言って、冷やかした。  しかし、圭一は、常に眼鏡をかけて過すようになった。レンズを通して別の世界がひらけたような快さがあって、眼鏡をかけた顔と、そうでない顔と二つあることにも面白さを感じていた。  それに、長篇小説の依頼もあって、かれは気分がはずんでいた。無収入であることに変りはないが、仕事を得たことに戸主としての矜持《きようじ》を維持できた満足感をいだいていた。  新しい年を迎え、かれは長篇小説の執筆に本格的にとりくんだ。眼鏡をかけたので辞書の活字もよくみえるようになり、微細な字で下書をつづけることも苦にならなくなった。  かれは、疲れて書斎を出ると、二歳の誕生日を近く迎える長女の千春の遊び相手になった。千春の体重も身長も標準をはるかに下廻っていたが、骨格はしっかりしていて元気に動きまわっていた。  千春は、変った行動をする幼女だった。  彼女の動きまわっている気配は、圭一にも春子にも感じられたが、それがいつの間にか絶えているのに気付くと、圭一たちは部屋をとび出す。千春が思いがけぬ行為をしていはしないかと、恐れるのだ。  或る時は、玄関のたたきの上に枕を置き、眠っている千春の小さな体を見出したこともある。  また彼女は、庭や風呂場におかれた長バケツの中に身を沈めていることが多かった。バケツの水に衣服をつけたまましゃがんでいる彼女は、うっとりと水の冷さを楽しんでいるように、窓や天井を見上げたりしている。その顔には、老成した人間のようなさとりすました表情がうかんでいた。  千春には、家出の奇癖もあった。  彼女は、圭一たちの眼を盗んで風呂敷におしめを包み、ひそかに家を出る。行先は、きまって駅の方向であった。  彼女の気配が絶え、あわてて家の中を捜し廻り、その姿が見出せぬと、圭一たちは坂を駈け下る。  駅に向う桜並木に、千春の小さな体がみえる。彼女は、おしめを入れた風呂敷包みを手に、思いつめたような姿で小走りに歩いている。  声をかけると振向くが、彼女は、顔をこわばらせて一層足を早める。そして、後からその体を抱き上げると、顔には失望の色が濃く浮んだ。  時には、駅近くまで逃げて、近所の人に見出され、駅前の巡査派出所の警官が抱いて連れもどしてくれたこともあった。  圭一も春子も、千春がなぜ家出を試みるのかわからなかった。幼い彼女は、なにかからのがれ出ようとしているのか、おしめを最も貴重なものとして考えていることが可笑しくもあったが、 「あなたの体に、家出を好む血が流れているんじゃないんですか」  と、春子は、薄気味悪そうに千春の顔を見つめていた。  圭一の家系に、家出を好む血はない。おしめをいれた風呂敷包みを手に、しばしば家出を試みる幼い千春の行為を、圭一の血の故《せい》ではないかと疑う春子の言葉は、迷惑だった。夫婦は、子供を観察し、なにか顕著な欠点を見出すと互に相手の遺伝因子があらわれたのだと責任を押しつけ合う。  圭一は、反撥したが、 「でも、工が忘れ物をするのは、絶対にあなたの遺伝よ。私の方には、そんな血はないんですから……」  と、春子は断定的に言う。  圭一は、その点については反論しても無駄だということは知っていた。  工は、幼稚園に行っても提出する予定の月謝を忘れるし、幼稚園から渡された通知も春子に渡さない。洋傘《こうもり》は置き忘れ、上履のまま帰ってくることもしばしばだった。  春子は、迫った小学校入学までにその性癖を直そうと努めていたが、工は悠然としていていっこうに改める気配はなかった。  圭一は、工に少年時代の自分そのものを見る思いだった。  小学校には制帽があったが、卒業までにいくつ新たに帽子を買ったか数知れない。無帽で登校したこともあったが、母は教師に悪印象をあたえることを恐れて、予備の制帽を買っておいたほどだった。新学期に返却する通信簿は紛失したし、学芸会で朗読する予定の軍国美談の小説の単行本を紛失し、会の寸前に朗読が中止になったことすらあった。  そうした性癖は、成長するにつれて徐々におさまったが、結婚後も燠火《おきび》のように残されていた。  雨天の日に洋傘を持って家を出る時、春子は、今までに何本洋傘を忘れたかをくどくどと口にし、 「忘れないで下さいよ。肉体の一部だと思って体と一緒に持って帰ってくるんですよ」  と、強い口調で言う。  駅前のポストに投函して欲しいと郵便物を渡す時など、 「頼んだってだめなんだわ、絶対にだめなんだわ。またきっと忘れるんだから……」  と、半ば絶望的な眼を向けてくる。そして、重要な郵便物だと、人さし指に紐を結びつけ、 「なんで紐が結びつけられているかよく考えて、郵便物だと思い出しこれを投函して下さいよ」  と、不安そうに郵便物を渡す。  紐は効果があって、電車の吊環に手をかけた折に紐を発見し、春子の依頼を思い出すことが多かった。  しかし、ただ一度、圭一は、紐を見つめながらそれがなんの依頼をしめすものかわからなくなったことがあった。背広のポケットを探ってみても、郵便物はないし、修理品などの受取証もない。かれは、考えあぐねて家に恐る恐る電話をかけてみた。 「用事はすませたがね」  かれは、探りを入れるように春子に言った。 「用事? 私、なにか頼んだかしら」  春子のいぶかしそうな声がした。  圭一は、あわてて、 「ともかく、今日は早く帰る」  と、言った。 「そうして下さいね、工が誕生日で楽しみにしていますから……」  春子の声が、流れてきた。  圭一は、電話をきり指の紐をほどいた。ようやく紐の意味がかれにも理解できたのだ。  圭一が忘れ物をすることを最初に春子に印象づけたのは、結婚式の日であった。  両親のいない圭一は、自分で結納品も買ったし式場の予約と設定もすべてやった。そして、式の当日、春子の手にする花束を買ってゆく約束であったが、定刻に遅刻し、花束も買い忘れた。あわてて会場側で花束を買いととのえてくれたが、圭一が忘れ物をする度に、春子は花束のことを恨むような目をして口にした。  或る日、圭一が外出の身仕度をしていると、ガラス戸で仕切られた食堂で、 「あの人を出しちゃってから、夕食の献立を考えましょうよ」  と、妻が家事手伝いの娘に言うのがきこえた。  圭一は、妻が「出しちゃってから」という言葉を口にするのを何度も耳にしていた。その言葉は、ごみを掃き出すような、自分を手のかかる厄介者視している表現としかきこえない。  腹を立てるのも大人気ないので、その日も玄関に出ると靴をはいた。 「いっていらっしゃいませ」  妻と家事手伝いの娘が、頭をさげた。  圭一は、ドアを開けて玄関の外に出たが、試みに閉めたドアをすぐに勢良くあけてみた。が、意外にもそこに二人の姿は消えていて、廊下を台所の方に去る足音がきこえるだけだった。  圭一は、妻たちが自分を厄介視しているのだと思いこみ、妻をなじると、思わぬ反撥を受けた。 「出しちゃうという表現は悪かったかも知れませんよ。でも、玄関であなたを送り出すと、すぐに台所に行かなければならないのよ、それはあなたが必ず忘れ物をして台所に顔を出すからじゃないですか」  春子は、うんざりしたような眼をして家事手伝いの娘と顔を見合わせた。  圭一は、言葉に窮し、春子の言葉に反撥することもできなかった。  かれは、外出時に玄関を出て小さな門をくぐり塀ぞいに坂道の方へ歩き出す。勝手口の小門まで数メートルの距離だが、その間を歩いているうちに不思議に忘れ物を思い出すのだ。それは、財布であったり、煙草、ライター、書類、原稿等さまざまで、かれは勝手口のドアを開けて妻や家事手伝いの娘を遠慮がちに呼ぶ。  そうしたことが繰返されるうちに、勝手口のドアをあけると、いつもそこには妻が立っていて、 「なにを忘れました」  と、きくのを気づくようになった。  時には、妻が黙って忘れ物を差出すこともあった。彼女たちは、圭一を玄関で送り出すと、圭一が忘れ物をして勝手口のドアを必ずあけることを予測して勝手口で待っているのだ。  勝手口の前を通りすぎ坂の中途までおりてから、忘れ物に気づくこともあった。 「それを私たちは、背伸びして窓から見ているんですよ。最高は三回もどってきて、或る時は四回目をもどろうとして、坂の途中で帰ろうかどうしようか長い間考えていたことがあったでしょう」  春子は、可笑しそうな眼をして家事手伝いの娘に顔を向けると、 「なにを忘れたと思う? ズボンのベルトよ」  と言って笑った。  工が小学校に入学して間もなく、家庭調査表を持ち帰ってきた。保護者欄に職業を記入する個所があって、圭一はためらわずに無職と書いた。 「勤めていた会社の名を書くのもおかしいし、仕方がないわね」  春子は、弱々しい声で言った。  一カ月ほど前、発行部数の少い総合雑誌と美術雑誌から短篇小説の原稿依頼があったが、それはわずかな収入しか得られぬことはあきらかで、社会常識から考えても自分が小説家という職業人であるとは言いがたかった。  書下し長篇小説の下書は、少しずつ進んでいた。主人公の若いボクサーが、父を殺す結末までの心理経過を書いていたが、それはかなりの手応えが感じられていた。  二つの短篇を書いて送ると、かれは、長篇の執筆に専念した。机に向っていると、始発の電車が駅を発車する警笛の音がきこえて、窓の外が白々と明けてくる。かれは、寝酒を飲み、ふとんにもぐりこむが、時折夢の中で機関車が頭蓋骨の中を回転しながら走りまわった。苦しい夢から目ざめると、全身に汗がふき出し、再び眠りにつく。起きるのは、午食時であった。  かれは、いつも冗談を口にして春子や家事手伝いの娘を笑わせることが多かった。食事中にふき出した家事手伝いの娘の口から飯粒が飛んで、圭一のお茶漬の茶碗に入ったこともある。それを平然とした表情で食べ、一層妻たちを笑わせたりした。  子供たちに対しても、同様だった。  或る日、かれは、外出時にズボンをはかずパンツのまま靴をはいて、外へ出るふりを装った。工は、初めのうちは圭一がおどけているのだと思いこんでいたが、靴をはいた圭一の姿をみると顔色を変えた。 「涼しくて、この方がさっぱりしていい。じゃ、行ってくる」  玄関のドアに手をかけると、工は狼狽して、圭一の腰にしがみつき、 「みっともないから、ズボンをはいて」  と、甲高い声をあげる。 「涼しくていいんだ、この方が……」  圭一はドアをあけようとするが、工はドアを両手で必死に抑える。 「いい加減にしたらどうですか」  妻の呆れたような声に、圭一は、やむを得ないというように、居間に引返してズボンをはいたりした。  そんなことを繰返していたが、突然のように欝々とした気分に落ちこむ。それは、周波のように定期的に襲ってきて、口をきくこともいやになった。騒ぐ子供に激しい怒声を浴びせかけて叱りつけることもあれば、乏しい金を手に飲みに出掛けることもあった。  そうした夜は、下町に足を向け、縄のれんをくぐって一人で酒を飲む。険しい表情をしているのか、店の者もほとんど声をかけてこない。地中に、じっと身をうずくまらせているような気分でもあったし、樹皮の湿った匂いのする深い森の中で、ただ一人坐っているような気分でもあった。  かれは、杯を見つめ、それを口に運ぶ。杯を重ねても酔いは訪れず、気持は一層沈むばかりであったが、そんな飲み方が自分の気分に適したものであると思っていた。  七月下旬、書下し長篇が書き上った。徹夜につぐ徹夜で、推敲を終えた三百五十九枚の原稿を四分して綴《と》じ、机の上に置いてしばらくながめていた。  その夜は、ビール、日本酒、ウィスキーをつづけて飲み、声色を口にして春子を笑わせたりした。  翌日、午前中に出版社の佐山氏がやってくると、風呂敷に包んだ原稿を手に帰って行った。  かれは、佐山氏が帰ると急に落着かなくなった。決して軽味のない力をこめたものだと思ったが、第三者からみれば拙《つたな》い作品かも知れない。原稿を渡す時、常にかれは不安を感じるが、結局は書いたものが自分にはわからぬためらしかった。  その日は、縁先に坐って空を眺めたり、幼い千春の馬になって畳の上を這いまわったりしていた。  夕方、佐山氏から電話があった。かれが、恐るおそる受話器をとると、 「帰社してから、今百二枚まで読んだのですが……」  と言って、思わぬ賛辞を口にした。  圭一は、礼を言って受話器を置いた。佐山氏の好意が身にしみた。多忙であるはずの氏が、原稿を読んでくれるのにはかなりの月日を要すると思いこんでいた。それが、帰社した日の夕方までに百二枚まで読み、中間報告の電話をしてくれたことが嬉しかった。氏は、終始圭一を無名の新人として扱うような態度はとらず、礼儀をつくした言動をしてくれていた。  圭一は、居間に行くと春子に、 「ほめてくれた、いいものだって。考えてみりゃ当り前だ。おれはいいものを書いたんだから……」  と、大声で言った。  さらに数日後、佐山氏から電話があって、圭一は、待合わせ場所の酒場に行った。そこには、頭髪の薄い長身の出版部長も待っていた。  佐山氏は、部長にも読んでもらったが、いい作品なのであのまま出版に持込みたいと言った。 「ただ出版の時期ですが、他の二人の作家の執筆がおくれていますので、来年になりそうです。その点は御諒解いただけますか。私の方としては、三冊そろって出したいのですが」  佐山氏は、申訳なさそうに言った。  圭一に、異存はなかった。他の二人の作家は、文名も定まった人たちで多くの作品を次々に発表している。多忙な日を過すかれらが、七カ月ほどで長篇を書下すことはできないはずだった。圭一は、可笑しくなった。自分にはほとんど仕事はなく、七カ月間を長篇執筆に傾けた。つまりひまであったことが、最も早く執筆を終えた原因なのだ。  二人の作家が、果して来年の刊行までに作品を書き上げられるか否か、疑問だった。そうした圭一の胸中を察したのか、 「来年には必ず出版しますよ。その点は私を信頼して下さい」  と、佐山氏が強い口調で言った。  圭一は、佐山氏が長篇を渡した日に読んでくれたことだけで満足だった。その上、出版を確約してくれたことでもあるし、不服はなかった。  その夜、圭一は、出版部長と佐山氏に連れられてバーを飲み歩いた。  家計を補っていた退職金が、遂に底をついた。  八月初旬、総合雑誌と美術雑誌に書いた短篇の原稿料がとどいた。それは、その年の一月以来かれの得た収入のすべてで、家計におさめるものであったが、かれはそれを手にして、旅に出た。  盛岡から支線に乗り換え、バスに乗りついで岩泉という町に泊った。そして、翌朝バスで三陸海岸に面した島ノ越という小さな漁村に赴いた。その地は、友人の鍋島の郷里で、かれの話に魅せられ足を向けたのだ。  鍋島と幼友達の早瀬という三十歳の男が漁協の組合長をしていて、親切に車で海岸を案内してくれた。  かれは、急な傾斜をのぼると、頂の外れで腹這いになり、下を見てみなさいと言った。  圭一は、かれの言葉にしたがって腹をつけ、下方に眼を向けた。そこは、切り立った崖の頂で、はるか下方の岩に荒々しくくだける波がみえた。高所を恐れるかれは、腹這いになったまま後退し、再び下方を見下すことはしなかった。  海岸は雄大な崖がつらなり、海は黒みがかった深い色をたたえてひろがっていた。かれは、断崖の上から見た波しぶきをいつか小説に書いてみたいと思った。  かれは、村の宿屋で新鮮な魚やウニを食べ、二泊した。そして、帰途は、宮古までトラックに便乗させてもらい、一泊後上野に向った。  帰宅したかれは、放心した日を送った。  無収入であることに、平静ではいられなかった。食事をしても、口に入れる食物が妻の得るわずかな収入によるものだという思いが先に立った。書斎でスタンドの灯をつける時も、水道の蛇口をひねって顔を洗う時も、かれはそれらがすべて無料ではないのだと自分に言いきかせていた。  その頃から、かれは春子に行先も告げずしばしば家を出ると、弟の家に行くようになった。 「また家出かね」  弟は、圭一の顔を見ると笑いながら言う。 「そんなところだ。二、三日泊らせてもらうぞ」  圭一は言って、家に上りこむのが常であった。  弟は、別に気遣う風もなく圭一を置いてくれたが、ひそかに春子に電話してここに来ているから心配はないと告げているようだった。  弟は、三兄の経営する紡績工場の工場長をしていて、日に何回も工場の中を歩く。その後から圭一も工場の中に入っていったが、幼い頃から親しんだ紡績機械の動きと音と、そして羊毛の匂いがなつかしく、その中に身を置いていると、気分が安らいだ。 「兄貴、収入がないんだろう」  弟が、無遠慮にたずねた。 「その通りだ。今は春子に養われている。このままでもいられないし、また勤めにでも出るかな」  圭一がすねたように言うと、弟は口をつぐんだが、 「それは、兄貴自身の考えることだよ。おれには、わからない。ただおれとしては、小説だけは書きつづけていってもらいたいね」  と、つぶやくように言うと、機械の動きに眼を向けた。  秋色が、濃くなった。  或る日曜日、かれは工を連れて家を出ると駅前の小さな広場に行った。そこには、観光バスが二台とまっていて、子供づれの女や老人がバスに乗りこんでいた。  商店街の化粧品や薬品を売る店が顧客を後楽園遊園地へ招待する企画を立て、圭一の家にも二枚の切符が送られてきていた。工は、小学校の同じクラスの者が参加するので行きたいとせがんだ。しかし、春子は、同人雑誌に提出する原稿の締切り寸前で、工に同伴することはできず、しきりに思いとどまらせようと努めていた。 「おれはひまだから、ついて行ってやってもいいよ」  圭一が口をはさむと、 「そんなことみっともないわ。ついて行くのは母親ばかりよ、きっと」  と、春子は顔をしかめた。が、工は一緒に外出することの少い圭一が同行してくれることに喜び、春子も水筒や菓子などをととのえたのだ。  薬局の店主が人数をかぞえ、全員が乗車していることを確認すると、バスは動き出した。  圭一は、勤めていた頃遠足などに父親らしい男が子供について歩いているのを見て、愚しい姿だと思ったものだ。男には、社会人としての仕事があるはずなのに、それを放棄して家庭サービスにつとめていることに批判的だった。が、かれらの中には、自分と同じように職もなく辛い日を送っている者もいるのかも知れぬと思い直した。  バスの中は、賑やかだった。母親たちは、菓子や果物を食べて笑い、子供たちは絶えず甲高い声をあげていた。  バスが、街々を通りぬけ、後楽園遊園地の駐車場に入った。薬局の店主が遊戯具に乗る切符と昼食の折詰を渡し、小旗をかかげて圭一たちを入口に誘導すると、そこで自由行動になった。  工は、友だちの母親たちと一緒に行くとせがみ、圭一もその後について行った。そして、工が他の子供たちと遊戯具に散ると、ベンチに腰を下した。  園内は、かなりの人出で、列の出来ている遊戯具もある。かれは、煙草をすいながらぼんやりと人の群れをながめていた。  ふと、子供を連れた男が歩いてくるのに、圭一は眼をとめた。男も圭一に気づいたらしく、表情をくずした。気恥しそうな笑い方だった。 「やあ」  と、男は言った。同じ同人雑誌に所属している氷室だった。  かれは、子供の手をはなすと、圭一の傍に坐り、 「今日は子供のお守りだよ」  と言って、煙草をズボンのポケットから取り出した。  氷室の妻は洋裁店を経営していて、かれは仕上ったものをとどけたりして日を過している。芥川賞候補と直木賞候補に一度ずつ推されたことがあるが、数年前から作品を発表していない。 「書いている?」  圭一がたずねると、氷室は、 「まあ、ぽつぽつとね」  と言って、かすかに笑った。  かれは、背も高く体も逞しい。それだけに一層かれの姿は佗しいものにみえた。  展望車が洋傘《こうもり》の骨のような円型にひろがった銀色の鉄骨の動きにつれて、緩やかに動いている。圭一も氷室も、塗料のぬられた箱の動きを見上げていた。 [#改ページ]    月光のこと  発表のあてもない小説を書きながら、かれはペンキと刷毛《はけ》を手に家の周囲を塗ってまわるようになった。郵便受、井戸のポンプ小舎、門など、かれは一心に刷毛を動かした。 「少しでも家計の手助けをしなくちゃ」  かれは、春子に冗談めかして言ったが、春子はかすかに笑っているだけであった。  或る日の夕方、書斎の机にもたれていると、窓の鎧戸《よろいど》を通して数人の子供の会話がきこえてきた。耳を傾けてみると、かれらは互に父親の職業を口にし合っている。一人の子供は、父親が会社に勤めていると言い、他の者は医師だと言っている。  或る子供が、個人タクシーの運転手だというと、かれらの声はにぎやかになった。かれらは、その子供をうらやましがり、運転手になりたいとか新幹線の運転士になりたいなどとしばらく興奮した声がつづいた。 「工《たくみ》ちゃんのお父さんは、なにやってるの」  子供の声がした。  圭一は、体をかたくしたが、工の声はきこえない。 「勉強しているんだよ」  ようやく工の低い声がきこえた。 「へーえ、大人になってもまだ勉強しているの」  驚きの声をあげたのは、あきらかに近くの医院の子供であった。  子供たちは、工のことに興味を失ったらしくまた運転手の話をはじめ、次第にその声も遠ざかっていった。  その夜、食事をしていると、工が、 「お父さん、会社に行きなよ」  と、不意に言った。 「そうか。その方がいいかな」  圭一は、笑いながら工の顔に眼を向けた。 「その方がいいよ」  工の眼には、思いがけず光るものが湧いていた。 「でも、お父さんは小説を書いているでしょう。会社に行ったら、小説を書く時間がなくなるのよ」  春子が、工をさとした。 「でも、ぼく、心配なんだよ。友だちのお父さんは、みんな会社へ行っているんだもの。お父さんだけだよ、行っていないのは……」  工の唇は、今にも泣き出しそうにゆがんでいる。 「わかった、わかった。よく考えてみる」  圭一は、しんみりした気分になって何度もうなずいた。  工は、圭一に連れられて遊園地に行ったことを喜んでいたが、父親がついてきているのは自分だけであることに気づき、圭一の生活を改めて見直したのかも知れない。そして、門の傍で友だちに圭一の職業を質問され答えに窮した時、はっきりと父親の生活が常軌を逸したものであることをさとったのだろう。  工は、子供心に生活を気遣っている。ただ机に向ったりペンキで郵便受を塗ったりして日を過す圭一が、父親としての勤めをはたしていないように見えるにちがいなかった。  しかし、かれには再び勤めに出る気は失われていた。ネクタイを締め満員電車に乗って通うことには苦痛を感じないが、多くの人たちで構成されている会社組織の中に入って働く自信がなかった。会社をはなれてから一年の間に、自分というものが妙に弱々しい人間に化してしまったように思え、多くの人々と伍して働くことは到底出来そうになかったのだ。  寒気が、日増しにきびしくなった。  家計がどのようにやり繰りされているのか、かれは素知らぬ風を装っていた。その内情を知れば、当然戸主であるかれ自身の責任になる。が、無収入のかれには責任を負う力はなく、傍観する以外に方法はなかった。  春子の表情は暗く、時折放心したように庭をながめたりしていた。  十二月中旬、発行部数の多い週刊誌の編集者が電話をかけてきた。そのおだやかな言葉遣いには知性が感じられ、圭一は好感をいだいた。  その男は、意外なことを口にした。新企画として新聞の社会面に記事となった事件をあらためて取材し、それを読物に構成して誌上に連載する。筆者は三名ほどで、その中に加わる意志はないかという。稿料も口にしたが、それは勤めをしていた頃の収入の三倍近くであった。しかも、かれは、圭一がペンネームを使ってもよいと言った。  圭一が返事に窮していると、 「またお電話をおかけしますが、ぜひお願いします」  と、編集者は言って、電話をきった。  圭一は、しばらく窓外をながめていた。その仕事を引受ければ、多額の収入を得、しかも執筆は毎月一週間ほどを費せばすむはずで、残された三週間余を自分の小説を書くことにあてることができる。編集者はペンネームを使用してもよいと言っていたし、その筆名のかげに身をひそめれば、無名の新人のくせに金銭目当ての仕事をしていると顰蹙《ひんしゆく》を買うこともないように思えた。  無収入のかれにとって、なによりもその多額の原稿料は魅力だった。それに、自分の書いた文章が一流の週刊誌に活字となって掲載されることにも心が動いた。  しかし、一方では、金銭を得るために自分の望まぬ仕事をすることは避けたいという気持が強かった。質屋通いをしてまで同人費をはらい、同人雑誌に小説を書いてきた自分が、無収入になったことに気持がくじけて金銭のために文章を書くことは堕落だとも思った。  かれは、自分の境遇をあらためて見直すような気持になった。家の経済はすべて妻に負わされ、狡猾にもそれにふれることはせず徒食している。編集者は、そうした圭一の立場を知るはずもないが、結果的には飢えきった者の前にパンを投げるように仕事を圭一の前に突き出したのだ。  おれはこんなことで迷う男ではないはずだ、とかれは思った。そして、電話器に手をのばすと週刊誌の編集部に電話をかけ、 「よく考えてみましたが、私には到底できそうにもありませんので、御辞退します」  と言った。  編集者はしきりに再考をうながしたが、尚も圭一が固辞すると、 「そうですか。よくわかりました。お騒がせして申訳ありませんでした」  と言って、電話がきれた。  圭一は、机の前をはなれると居間の襖を勢よくあけた。 「おれは、ネクタイを締めるぞ」  かれは、春子に大声で言った。 「ネクタイ?」 「勤めにまた出るんだ。働く」  かれは、眼を光らせて言った。  その日、かれは新聞の求人広告を眼で追った。編集者求むなどという広告は無視した。小説を書くことに少しでも関係のある職業を選ぶことは、自分の甘えであると思ったからだった。  かれは、商事会社や製造会社の求人欄をさぐったが、意外にも自分には就職資格がかなり欠けていることに気づいた。年齢的にも二十五歳以下の求人が多く、学歴も大学中退のかれは、むろん大学卒ではなく高校卒の部類に入る。それに経理知識のないかれは、セールスマンか倉庫係程度の職を得る資格しかないことを知った。  かれは、求職者としての年齢、学歴、能力の点でいずれも中途半ぱな男であることを知って落胆した。やむなくかれは、本意ではないが自動車の業界紙が募る編集員の求人に応じようと決心した。  そして、翌日、新聞を手に外出しようとしていると、寝具会社を経営している次兄から電話がかかってきた。 「どうです、この頃は……。ところで、或る会社であなたを欲しがっているのだが、勤めに出る気はありませんか」  兄は、いつもの癖で鄭重《ていちよう》な言葉づかいをして言った。  圭一は、ぎくりとした。週刊誌の編集者が連載を依頼してきたのと同じように、次兄も圭一の窮状を察知し、就職の斡旋をしてきたのだと思った。 「どんな仕事をしている会社ですか」  圭一はたずねた。 「寝具会社です」 「どこの会社ですか」  かれがたずねると、兄はしばらく黙っていたが、 「私の会社」  と、言った。  圭一は、思わず苦笑した。兄がまわりくどい申出をしたことに可笑しさを感じた。次兄は、筋を通すため圭一が一年前まで勤めていた会社の社長に諒解を得てあるから入社してくれぬかと言った。  かれは、返答をためらった。兄の会社に勤めれば、弟である故に社員から特別視され、兄も無意識に自分を優遇するだろう。それは、圭一にとって不本意であったが、会社経営につとめる次兄の力になりたいとも思った。 「弟ではなく、一人の新入社員として採用してくれるなら勤めさせて下さい」 「それは当り前のことです。一人の社員として十分働いてもらわねば困ります」  兄は、声を高めて言った。そして、年が改った一月五日が仕事始めなので、その日から出社するように告げ、電話がきれた。 「兄貴から、おれの会社に入れと言ってきた。一月五日から出勤する」  圭一は、外出着を脱ぎながら春子に言った。  春子は、黙っていた。が、その顔には安堵の色が濃く、眼にも明るい輝きが湧き出ていた。  かれは、これでいいのだと思った。会社勤めをやめたのは分不相応のことで、勤めをつづけながらそれに屈せず小説を書いてゆかねばならぬ。その苦痛を回避しようとしたのは、一種の逃避であり意志の弱さであるとも思った。  春子から圭一の就職をきいたらしく、工は、 「お父さん、会社へ行くんだって」  と、言った。 「そうだ、会社へ行きながら勉強するんだ」  と、圭一が言うと、工は、 「へーえ、大人の癖にまだ勉強するの」  と、甲高い声で言った。  工の顔は、明るかった。  テレビの画面に、奈良の寺院の鐘楼が写し出され荘重な除夜の鐘がきこえてきた。  春子が、眠っていた工につづいて千春を起し身仕度をととのえさせた。工も千春も眠そうな顔をしていたが、いやがる風もなくオーバーを着、マフラーを頸に巻いた。  戸外に出ると、寒気が頬にふれた。月が皎々《こうこう》と光っていて、路上は、一面に霜がおりたように白っぽくみえる。圭一は千春の手を、春子は工の手をひいて坂道を下った。  かれは、数日前文芸雑誌の編集者からの電話を思い出していた。その編集者は、二カ月後の締切りで作品を書くように言い、 「芥川賞の候補になった作品を越えるようなものを書いて下さい。あなたには期待しています」  と、はげましてくれた。そして、現在はどのような生活をしているのかと問うたので、 「一月五日から勤めに出ます」  と、答えた。 「そうですか。ともかくいいものを書いて下さい。待っていますから……」  編集者は、それだけ言うと電話をきった。  かれは、嬉しかった。一年半ぶりの原稿依頼に、編集者の期待にそうようなものを書きたいと思った。  書く素材は、きまっていた。沖縄、奄美で人を死亡させるハブの害を軽減するため、伝染病研究所で馬を使用して血清をつくりハブ棲息地に空輸している。馬は犠牲になって死ぬが、その馬の飼育係の男の子供を主人公にした小説を書いてみようと思っていた。  圭一たちの影が月光に浮彫りされたように、坂道に沿った住宅の石塀に映っている。そして、塀がきれると、影は命中した射的の標的のように露地の土の上に倒れ、また塀がつづくと影は塀の表面に立ち上って動いてゆく。  かれは、血清馬の手綱をとった少年が月の冴えかえった路上を歩く姿を想像した。少年は、夜、馬を死からのがれさせるために研究所からひそかに引き出す。が、かれにはどこといって行くあてもない。  馬と少年の影が、塀にくっきりと浮び上って動いてゆく。かれは、少年と馬との旅にその描写をとり入れてみようかと思った。  舗装された参道には、数人の人の姿がみえた。かれらは、足早に稲荷神社の方へ歩いてゆく。  大鳥居をくぐると、圭一たちは石段をのぼった。前年よりも初詣の人は多く、社前では垂れた緒をふって鈴を鳴らしている音もきこえていた。  春子が財布から小銭をとり出して工と千春に渡し、それぞれ賽銭《さいせん》箱に投げた。そして、鈴を鳴らすと拍手をうった。子供たちも春子にならって手を鳴らした。  圭一は、社務所に行って破魔矢とお札を買った。そして、春子たちとともに境内で火の粉をまき散らしている篝火《かがりび》に近づいた。 「なにを祈った?」  圭一は、春子にたずねた。 「今年こそいい小説が書けますようにと祈ったわ」 「それだけか」 「そうだけど」 「お前は、自分のことしか考えない女だな。おれは、お前や子供たちが健康でありますように祈った」  圭一は、笑った。  工と千春は、小さな手を篝火にかざしている。かれらの顔は炎の反映で赤々と染っていた。 [#改ページ]    あとがき  この長篇小説は、昭和四十八年に「毎日新聞」に連載したもので、従って十六年前の作品ということになる。  あらためて読み返してみて、やはり書いておいてよかった、と思った。  私は、自分の過去についてかなりの数の私小説を書いている。その背景となっている時期は、大別して二つである、と言っていい。  一つは、少年時代から十八歳で迎えた終戦につづく病臥していた頃まで、そして、その二は十年ほど前から現在までである。  その二つの時期の間には十数年という歳月があり、今でも気持に変りはないが、その期間の私について書くのをためらう気持はきわめて強い。理由は、一言にして言えば照れ臭いからで、書く気になれないのである。  この「一家の主」は、その空白の時期を敢えて書いた小説で、それだけに書いておいてよかった、と今にして思うのである。  この小説を発表した時、読んで下さった人はひとしく意外に思ったらしい。それまで私が書いた小説とはちがった世界で、途惑いをおぼえたのであろう。  当時の書評には、私が初めて書いたユーモア小説だ、とあった。たしかにそう思われるのも無理はないとは思ったが、私はなにもユーモア小説を書こうと筆を執ったのではなく、その十数年の間の自分の生き方を書いたら、自然にそうなってしまっただけなのである。  私は、融通のきかぬ人間であり、少くとも私自身はそう思い込んでいる。それだからこそ、今まで生真面目な、言葉を換えて言えば固苦しい小説のみを書いてきたし、現在もそれに変りはない。  私は、その頃の私を正直に、この小説でつつみかくさず書いたのである。読んで笑う人がいるとすれば、それは私自身が愚かしく滑稽な生き方をしていたからで、なにも私は、人の笑いを誘うために書いたのではない。そんな器用なことのできる私ではないのである。  この小説の主人公圭一は、まちがいなく私自身である。照れ臭さを払いのけて書くために、私とはせず圭一としたのである。  登場する妻、子、兄弟、縁者、友人等、仮の名をつけてはいても、すべて実在であり、エピソードもことごとく事実である。  いつもの如く生真面目に書いたら、自然にこのような小説が生れ出たのであって、私としては、変り種の小説と言うべきかも知れない。 [#地付き]吉村 昭   平成元年春 吉村 昭(よしむら・あきら) 一九二七年、東京に生まれる。学習院大学国文科中退。一九六六年、『星への旅』で第二回太宰治賞を受賞。その後、『水の葬列』『戦艦武蔵』『高熱隧道』『ふおん・しいほるとの娘』『赤い人』『破船』『破獄』など数多くの作品を発表。滋味深いエッセーも多い。この間、吉川英治賞、読売文学賞、芸術院賞など数々の賞を受ける。 本作品は一九八九年三月、ちくま文庫の一冊として刊行された。